魔神遭遇
ヘビのような頭部をした生物――モンスターは、甲高い鳴き声をあげて彼方に襲い掛かった。
鋭い爪の攻撃を、彼方は転がるようにしてかわす。
「まっ、待ってください。僕は…………」
「ギュア…………××××」
彼方の言葉を無視して、モンスターは爪を振り回す。
――ダメだ。言葉が通じないのか。
背中に冷たい汗が滲み、息が荒くなる。
――ここがどこかわからないけど、今は逃げるしかない。
彼方はモンスターに背を向けて、走り出した。
「××××っ!」
背後から、モンスターが追いかけてくる。
「何だよ、これっ!」
自分の状況に文句を言いながら、彼方は入り組んだ鍾乳洞を駆け抜けた。少しずつ、モンスターとの距離が離れていく。
――足は僕のほうが速いのか。これなら、なんとか逃げられるかもしれない。
その時、彼方の行く手を塞ぐように、身長三メートル以上ある一つ目の巨人が両手を広げた。
彼方の足が止まった瞬間、肩に強い痛みを感じた。
顔を歪めて振り返ると、ハリネズミのようなモンスターの爪が彼方の肩に食い込んでいた。白いシャツが赤く染まり、足元に血がぽたぽたと落ちる。
「××××っ!」
モンスターの口が裂けるように開く。
彼方が死を覚悟した瞬間、上から羽音が聞こえてきた。
視線を上げると、そこには背中にコウモリの羽を生やした女が宙に浮いていた。
女は十代後半ぐらいの歳に見えた。セミロングの髪は濃いピンク色をしていて、頭部の左右に雄牛のような角が生えている。体のラインがわかる光沢のある服を着ていて、細く長い尻尾がゆらゆらと揺れている。
「××××…………××」
女はふわりと地面に降り立つと、モンスターたちと会話を始めた。
「×××…………××××」
「ギュ…………×××××」
その言葉が、カメラのピントが合うように頭の中で日本語に変化していった。
「×××…………どうして、人間がこんなところにいるの?」
「わかりません」
女の質問に、ヘビのような頭部を持つモンスターが答えた。
「牢屋から逃げ出して、隠れていたのかもしれません。ミュリック様」
「…………ふーん」
女――ミュリックは彼方をじっと見つめる。吸い込まれるような紫色の瞳に、彼方の鼓動が速くなる。
――何が起こってるのかわからないけど、言葉がわかるようになったのなら、話し合えるかもしれない。どうやら、この女の人(?)の地位が高そうに思えるし、こっちに敵意がないことを説明するんだ。
彼方は肩の痛みをこらえながら、口を開いた。
「あ、あの、僕は氷室彼方です。僕はあなたたちと争うつもりはありません」
「んんっ? 変な名前ね。それに服も変わってる」
ミュリックは首を傾けて、彼方の顔を覗き込む。
「もしかして、あなた、別の世界から来たんじゃないの?」
「別の世界?」
「そう。たまにいるんだよね。こっちの世界――リグワールドに転移してくる生き物が」
「転移…………」
掠れた声が自分の口から漏れる。
――これって、小説や漫画である異世界転移ってことなのか? そんなこと、現実であるはずないのに。
彼方は目の前で微笑しているミュリックを見つめる。僅かに開いた桜色の唇から、小さな牙が見えた。
――ピンク色の髪は染められるし、紫色の瞳もコンタクトでなんとかなるかもしれない。でも、この人は宙に浮いてたんだ。そんなこと、普通の人間にできるはずがない。それに他の生き物も着ぐるみなんかじゃない。本物のモンスターだ。
「さて、と、別の世界から来た人間なら、すぐに殺すわけにもいかないか。一応はザルドゥ様に報告すべきだろうし」
「ザルドゥ?」
「私の主で、百万匹のモンスターを統べる魔神よ」
「魔神…………」
「まあ、あなたがザルドゥ様の役に立つのなら、死ぬことはない。でも、そうでなかったら、覚悟することね。ついてきて」
ミュリックは彼方に背を向けて歩き出した。
「ちょ、ちょっと待ってください。僕は…………」
「あなたの話を聞くのはザルドゥ様。逆らうのなら、強引に連れて行くけど、どうする?」
「…………」
彼方は唇を強く結んで、周囲を見回す。周囲には、多くのモンスターたちが集まっていた。カマキリのような頭部を持つモンスター。目が三つある熊のようなモンスター。ファンタジー映画で観たゴブリンのようなモンスター。
――逃げるのは無理か。こうなったら、その魔神と話すしかない。
彼方は肩を押さえながら、ミュリックの後を追った。
入り組んだ鍾乳洞を下ると、周囲の光景が変化した。いつの間にか、地面が平らな石になり、壁にもレンガが積み重ねられている。そのレンガに長さが五十センチ以上あるムカデのような生き物が這い回っていた。
――やっぱり、ここは日本…………いや、地球じゃないのかもしれない。ありえないことだけど、そうとしか考えられない。
装飾された巨大な扉を開くと、彼方の視界が一気に広がった。
そこは、まるで中世の城の玉座のように見えた。学校の体育館よりも広く、高さは二十メートル以上あるだろう。壁際には鎧を着たモンスターたちが並んでいて、玉座の中央にある椅子に紫色のローブを着たモンスターが座っていた。
彼方は周囲にいるモンスターたちの仕草や表情から、それが魔神ザルドゥだと理解した。
ザルドゥは鱗の生えたカエルのような顔をしていた。肌は薄い緑色をしていて、胴回りは五メートル以上、身長も三メートル近くあるだろう。尖った爪の生えた両手の指には、赤や青、紫に輝く指輪がはめられていた。
「ザルドゥ様」
隣にいたミュリックが片膝をついて頭を下げる。
「別の世界から来た人間を連れてまいりました」
「…………異界人か」
しゃがれた声を出して、ザルドゥが立ち上がった。
黄金色に輝くザルドゥの瞳を見て、彼方の全身に鳥肌が立つ。
――このモンスターはミュリックたちとは違う。もっと危険なモノだ。ザルドゥがどんな力を持っているのかわからないけど、人間が戦えるような相手じゃない。
「トロス、どうだ?」
ザナドゥの言葉に反応して、枯れ木のような肌をした三ツ目の老人が彼方に歩み寄った。
老人――トロスは額についた目を見開いて、彼方を凝視する。
「…………ゴミですな」
吐き捨てるようにトロスは言った。
「知力はほどほどにあるようですが、力が強いわけでもなく、魔力はゼロです」
「魔力がゼロだと?」
「はい。この人間は魔力を持っていません」
「魔力がないのか」
ザルドゥがカチリと牙を鳴らした。
「異界人の中には、強力な武器や防具、アイテムを持っている者もいると聞くが…………」
「そのようなものも持ってないようです。まあ、そんな異界人は百人に一人もおりませんから」
「お前の言う通り、ゴミってことか」
「どうしますか?」
「殺せ」
その言葉に、彼方の顔が蒼白になった。
「まっ、待ってください」
「控えろ、人間がっ!」
「よい、トロス」
ザルドゥが巨体を揺らしながら、彼方を見下ろす。
「何か言いたいことがあるのか? 異界人よ」
「僕はあなたたちと争うつもりなんてないんです」
「そうだろうな。魔力がなく力もないお前なら、下級のモンスター一匹も倒せぬだろう」
「ゴブリンだって倒せませんよ」
そう言って、ミュリックがくすくすと笑い出す。
周囲にいたモンスターたちからも笑い声が漏れた。
彼方の額から冷たい汗が滴り落ちる。
「まあ、役立たずのお前も食糧にはなる。人間の肉を好む者もいるからな」
「食糧って、僕を食べるってことですか?」
「文句はあるまい。異界人とはいえ、お前は人間だ。どうせ、喰ってるのだろう? 牛や豚をな」
「それは…………」
彼方は反論ができずに、口をもごもごと動かす。
「別に非難してるのではない。牛や豚は人間より弱いから喰われるのだ。そして、人間もそれは同じ。生殺与奪の権は強者が握っている。お前が弱いから喰われる。これが、この世界の理なのだ」
「この世界では、弱い者を殺していいってことですか?」
「その通りだ。魔力のない弱い自分を恨むのだな」
ザルドゥの口の両端がきゅっと吊り上がる。
「だが、異界人よ。お前は運がいい。今宵の我らの食事は終わっていたからな。明日の夜まで、命を永らえさせてやろう」
「そんなっ! 僕は…………」
「もう、お前と話すことはない」
会話を拒絶する言葉に、彼方の両膝ががくりと折れた。