壁の突破
「……ごめん、見苦しいところ見せちゃって」
「そんなことないです。お役に立てたのなら、よかったです」
「お役どころか……」
泣きはらした目をハンカチで拭いて、エミリは笑う。
「救世主よ」
ニナは「そんなことない」と否定しようかと思ったが、しなかった。
エミリにとってはきっと、それくらいの出来事だったのだろうから。
「わ、エミリさん、夜が明けてきましたよ」
「ふふ。そりゃそうよ、夜が過ぎたら朝が来るんだから」
すっかりさっきの調子に戻ったエミリが笑う。
だけれどニナにとって、屋外で迎える朝焼けは初めてのものだった。
群青の東の空が白々と明るんでくる。
「……それでニナ、なにをしたの?」
「はい。『魔力筋』というものをご存じでしょうか?」
「あー、聞いたことはあるわ。でもそれ、確か証明されてない理論よね。あたしが話を聞きにいった魔導士のひとりがそんなことを言ってたっけ」
「わたしにその話をしてくださった方は『当然ある』と断言していらっしゃいました」
「魔力筋」とは魔力が体内を通る道筋。
どれほど巨大な器に水を溜めていても、底に空いた穴が小さければチロチロとしか水は落ちてこない。
「『魔力筋』を広げるにはマッサージがいちばんみたいで、わたしも教えてもらったんです」
「……それって、ものすごい秘密のテクニックなんじゃないの!?」
「そう……なんでしょうか? でもお茶を淹れて差し上げて、ご主人様が来るまでの時間つぶしという感じで教えてくださいましたよ」
「そ、そっか。それならいいか……いいのかな?」
エミリは首をかしげている。
だがエミリの直感は正しい。
ニナがお茶を淹れた相手とは、すさまじく気難しいが、その実力は国王もお墨付きを与えたという大陸屈指の大魔導士なのだ。
その大魔導士はニナの淹れてくれるお茶が楽しみでマークウッド伯爵邸を訪れていたのだが——彼が次に伯爵邸を訪れるのは、もう少し先のことである。
「いいのです。喜んでいただくことをする……メイドなら当然です」
当然じゃない、という顔でエミリが見てきたが、ニナはそれよりも、
「あっ、日の出!」
地平線に現れた曙光に目を奪われた。
キラリとした黄金の光が草原に射していく。
たゆたっていた霧はぬぐわれるように消えていく。
お屋敷にいたら絶対に見ることのできなかった光景だ。
「ねえねえ、そのマッサージしてくれた魔導士ってどんな——」
聞こうとしたエミリは、朝焼けをまぶしそうに見つめているニナに気づいて言葉を切った。
今は、ニナの邪魔をしないでおこうと思った。
その1日は信じられないくらい楽しかった。
エミリは、瞬く間に使用できる魔法の位階を上げていき、朝ご飯ができるころには「第5位階」の魔法を扱えるようになっていた。
風の魔法で草を切り裂き、土の魔法で小山を作り出した。自然を壊しちゃいけない、という認識でエミリとニナは一致し、勝手気ままに使うのは止めようということになった。
焼いた目玉焼きにベーコンをパンで挟んだだけの食事も、ニナがやると違った。掛けるソースも、少しだけ焼いたパンの香ばしさも、一工夫するだけでこんなに美味しくなるなんてとエミリは唸ったものだ。
クレーの泉までの道はなんの問題もなく、ピクニック感覚で向かうことができ、道中でニナは「面白い草があります」と言って何株か採取していた。
エミリにはどれも同じ雑草に見えたのだが。
前泊して泉を見に来る人なんて他におらず、「
薄紅色の桃の花は、外周の花弁だけが黄色に染まっている不思議な花だ。
森の奥に湧き出る泉。
周囲をこの花が取り囲む光景は幻想的で、ひらりと舞い落ちた花弁がピンクとイエローの模様を泉の水面に創り出している。
水を飲んでいたらしい2頭の鹿は、ニナとエミリに気がつくと森の奥へと去っていった。
「どう? ここがクレーの泉よ」
「すごいです……来て、よかったです!」
夢見る少女のように胸の前で両手を組んでいるニナの目は輝いていた。
(来てよかったのは、あたしのほうだけどね)
エミリは内心につぶやいた。
△
帰り道、商業都市フルムンの城壁が見えたのはその日も夕方になってからだった。
ふたりはだいぶ長いことクレーの泉にいたのだ。
「次はどこの町に行きたいとかあるの?」
「実は国境を越えてみたくて」
「確かにフルムンからなら近いわね」
「そうなんです! わたし、生まれてからずっとクレセンテ王国しか知らなくて……あれ、エミリさん、なんでしょうかあそこ?」
「ん?」
茜色に染まる景色の中、確かにフルムンへと入る門の周辺で騒ぎが起きているようだ。
黒っぽいシルエットは衛兵たちだろう、手に手に槍を持っている。
彼らが立ち向かっているのは、
「なにあのデカいの!?」
「鳥、ですかね!?」
翼を広げれば家のように大きく、羽ばたくと風に煽られて人々が転がっていく。
遠目に見ても信じられないほどに大きい。
ニナの「鳥」という言葉にエミリがハッとする。
——最近は馬をさらう巨鳥がいたりと物騒なウワサを聞くからな。
門を守る衛兵が言っていた。
あれが、その巨鳥なのだ。
「ニナ、荷物お願い」
「——えっ、エミリさん!?」
背負っていた荷物を置いてエミリは走り出す。
手にしているのは魔法の杖だ。
「——やべえぞ、重傷だ!」
「——衛兵! てめえらがへっぴり腰でどうすんだ!」
「——冒険者が邪魔だ!」
「——助けてくれぇ!」
戦っているのは衛兵だけでなく冒険者もいるようだ。
連携が取れておらず、てんでばらばらに行動している。
(大きい……!)
広い翼を支える筋肉は分厚く、足には小屋だって持ち上げられそうな大きなツメ。
鷹のような顔はこれまた巨大で、一突きで人間など死んでしまいそうな鋭いクチバシがあった。
元はねずみ色だったろう羽は、夕陽を浴びて燃えるように輝いている。
『ケェェェェェッ!!』
鳴き声とともに羽ばたくと、暴風が吹き荒れる。
槍を持った衛兵は煽られ、飛来していた矢も、第3位階の魔法も吹き飛ばされる。
「あっ」
その隙に、巨鳥は近くに転がっていた馬を足でつかんだ。
巨鳥にとってこれは狩りだ。
食事をするためのエサを獲りにきているのだ。
「ああああっ!?」
だが問題は、突然の混乱に暴れる馬をなだめていた少年も服を引っかけ、馬とともに持ち上げられたことだった。
「!? お母さん、お母さん、お母さぁぁぁん!!」
少年があわてて叫ぶが、巨鳥はふわりと浮き上がる。
「弓を撃て!」
「む、無理です、風で、当てられない!」
「魔法も同じく!」
直下にいた冒険者や衛兵は風の影響をもろに受けて、身動きが取れなかった。
むしろ——エミリは少し離れていたのが幸運だった。
「『荒ぶる風の精よ。我が声に応え大気を纏い、踊れ』」
杖をかざしたその先にほとばしったのはエミリの持つ魔力、金色の光だ。
直後、彼女の周囲に湧き起こった風は、巨鳥目がけて渦を巻いて飛んでいく。
『ケエェェェッ!?』
いくら巨大な羽と筋力を持っていたとしても巨鳥ほどの重さを持ち上げるのは、至難の業だ。
離陸のタイミングで横から風が当たれば当然巨鳥はバランスを崩す。
「わあっ!?」
馬とともに放り出された少年は、馬車に張られた幌にぶつかって、そのまま地面へと滑り落ちていく。衛兵が駈け寄り、少年を救出する。
『ケェェェェェエェッ!!』
しかし巨鳥はまだ生きている。
その眼は今なにが起きたのか正確に把握しており、鋭いまでの敵意をエミリに向ける。
「あ、ありゃあ『永久ルーキー』じゃねえか!」
「にらまれてんぞ、死んだなアイツ」
「今のうちに立て直すぞ!」
どうやらエミリを助けようとかそういうつもりはなさそうだ。
衛兵たちも取り落とした装備品を集めている。
『ケェッ!!』
羽を広げ足で地面を蹴る、そのままスピードを上げながら羽を振るって前方へと進む——エミリのいるほうへと。
「エミリさん!?」
離れた場所でニナが叫ぶ。
だけれどエミリはあわてなかった。
(ありがとうニナ、あんたのおかげよ)
すでに次の魔法の詠唱を終えていたからだ。
(こうなる人生をずっと想像してた。あたしが、第5位階の魔法を自在に操って、英雄になるような人生を!!)
彼女が掲げた魔法の杖からほとばしったのは——炎。
第5位階の魔法、「
それはサーフボードほどの大きさで、すさまじい速度で回転しながら巨鳥の眼前に迫ると、
——ゴォオオオオオオオオオオオッ!!
爆音とともに炎をまき散らす。
3階建ての塔にも匹敵するような炎柱が出現すると、竜巻のように回転しながら高熱を発する。
『————————————————』
巨鳥は、断末魔の叫び声を上げることもなかった。
周囲の草を枯らし、魔法を放ったエミリですら腕で顔をガードしないとその熱さに肌が火傷しそうなほど。
だが数秒すると炎はウソのように消えて、延焼した草にだけ火は残っている。
そして、全身を黒こげにした巨鳥がその場に倒れ伏した。
しばらくすると焦げ臭さに混じって、肉の焼けるニオイが漂ってきた。
「あたしに掛かれば、こんなもんよ——」
杖を地面に刺して胸を張ったエミリは——魔力を使い果たし、そのまま背後にぶっ倒れたのだった。
この一件を目撃した人々はまずエミリが「高名な魔導士様」だと勘違いし、次に冒険者たちは「『永久ルーキー』に似た別の魔導士だ!」と騒ぎ、衛兵は事態収拾のために動いた。
とはいえ、あれは正真正銘、エミリが使った魔法だとわかるのはすぐだった。
翌日にはエミリがついに「第1位階の壁」を突破したのだというウワサが冒険者ギルドを駈け巡った。