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ひとを動かすもの

(……え)


 幻覚かと思った。

 ロープの先端は完全に水没しているはずだ。エミリたちが手を放した以上は。

 だから、幻覚だと思った。

 自分の望みが幻覚になって現れたのだと思った。


(えっ)


 だけれど、違った。

 ロープが引かれる。すさまじい力で。ティエンの身体がぐいぐい前へと進んでいく。

 あわててロープをつかみ、現場監督を手放さないように力を振り絞った。

 もう息は限界だ。

 気を失いそうになる——。


 ザバァッ。


 空気に、出た。


「ぶはああっ」


 ティエンは思い切り息を吸い込み、咳き込み、浅い水場に倒れ込んだ。


「——生きてる!!」

「——現場監督もいっしょだ、マジかよ」

「——すげえ、すげえよティエン!」


 その声は、ここにいるはずのエミリやアストリッドではないことだけはわかった。

 たぶん、だけれど、彼らは——。


「早く連れ出すぞ! 手を貸せ!」


 赤髪の、ガタイのいい鉱山労働者が言った。

 一度は避難した彼らがここまで駈けつけてきてくれたのだ。


「よかった、よかったよぉ。あんた、止めたのにロープ振り切って行っちゃうからぁ……」


 担架に載せられたティエンに駈け寄ってきたエミリは、どうやら泣いているらしい。

 視界がぼやけて見えない。


「彼らが水の中に飛び込んで、ロープの端を探してきてくれたんだ」


 アストリッドは冷静に言ったようだったけれど、声は震えていた。

 そんな彼女は——全身ずぶ濡れだった。


(ああ……そうなんだ……)


 薄れゆく意識の中でティエンは思う。


(みんなが助けてくれた……)


 と。



     △



 担架に載せたティエンとともに鉱山を出ると、雨脚はさらに強まっていた。

 応急救護施設になっている管理事務所と食堂に向かうと、すでに町の医師も到着しており、本格的な治療が始まっていた。


「な、なによこれ……」


 エミリは言葉を失った。

 まさか、まさかこんな光景を目にすることになるとは。


「——おーい、お代わりくれぇ!」

「——バカ野郎、俺が先だ! こっちだよメイドさん!」

「——俺ぁ、こんなに美味い飯を食ったことがねえよ!」

「——ありがてえありがてえ、メイドさんは神様だぁ……」

「——なに寝ぼけてやがる。メイドさんはちゃんとした人だろうが」

「——聖女様だ。メイドさんだけど聖女様だ」


 にぎやかに、食事をしているのだ。

 そして食事をしている鉱山労働者たちはみんな、にこにこしている。


「はーい! 次の大鍋ができましたよ!」


 厨房にいたのはエミリやアストリッドもよく知っているメイド服の少女。

 彼女が料理人といっしょに大鍋を運んでくると、手に木の器を持った労働者たちがワッと押し寄せる。


「——邪魔だ!」

「——あたしが先だろうがよ!」

「——こっちはまだ1杯しか食ってねぇ!」


 欠食児童かというくらい——正真正銘の欠食児童は担架の上で気を失っているのだが——ニナに群がっていく。


「……おめえら」


 ティエンの担架に付き添っていた赤髪の男が、


「静かにしやがれッ!! 仮にもここは救護所だろうが!」


 怒鳴りつける。

 ハッ、として振り返った鉱山労働者たちは苦笑しつつばつの悪そうな顔で、


「い、いやぁ……こちらのメイドさんが作る飯があんまりうめぇもんでさぁ」

「そ、そうだよ。俺らは軽傷だから、たらふく食って早くケガを治したほうがいいって言うし」

「お前も食ってみろって、な?」


 口々に言う。


「エミリさん! アストリッドさん!」


 するとニナがこちらへとやってくる。


「ティエンさんは——」


 目をつむり、担架に載せられたティエンを見てニナはハッとするが、


「大丈夫よ、気を失ってるだけ」

「ああ。ティエンこそ、君の料理を食べたいと言うだろうね」

「よかった……」


 ニナはその場にへたり込みそうになったけれど、


「それじゃ、ティエンさんが食べられる食材を買ってきますね!」

「え!? あ、あんたも疲れてるでしょ。無理しないで」

「大丈夫です。ティエンさんの頑張りに比べたら、わたしなんて全然です」


 そう言って、雨の中を飛び出していく。


「…………」

「…………」


 エミリとアストリッドは顔を見合わせる。


「……こりゃ、あたしたちも疲れたなんて言ってられないわね」

「そうみたいだ。エミリくん、魔法で身体を乾かしたりはできるのかい?」

「魔力なんてもう残ってないわよ。着替えてらっしゃい」


 ふたりはニナがしていた手伝いに取りかかることをすぐに決め、動き出した。


「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」


 それを見ていた鉱山労働者たち。

 彼らは手元にあるカラッポの食器を見て、それから顔を見合わせ、


「……医者の手伝いでもすっか」

「俺は厨房かな。野菜の皮むきくらいできるぞ」

「あたしはその辺の掃除しようかね」


 と動き出した。


 そうして——野戦病院のようになっていた管理事務所と食堂だったが、夜が訪れるころには落ち着きを見せていた。

 事故を聞いて、修道院から先生たちが駈けつけたり、鉱山労働者の家族もやってくる。

 軽傷の者は自分の寝床へと帰っていき、一通り処置を終えた医師も帰っていった。


「——いやはや、驚きましたな。応急処置としては完璧でした。おかげで、軽傷の方はほとんど私がなにをする必要もありませんで、だいぶ楽でしたよ」


 という言葉を残して。

 事故の規模を思えば奇跡と言えるほどに被害は少なく、この日は終わろうとしていた——。

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