新月は暗い。けれど、
「……どうして、ですか? わたしもティエンさんが『幽霊犬』なんていうふうに呼ばれているのを聞いてしまいました……そう言い出したのが現場監督さんなのだとしたら、ティエンさんが怒っていても当然です」
「今日は新月なのです」
「……え?」
「新月の夜は暗く、先が見えないこともあるのです。鉱山の奥に取り残されて、魔導ランプの明かりしかなかったとしたら……新月の夜よりもずっと先が見えなくて、恐ろしいはず。新月は辛抱強く満月を待つしかないけど、事故なら、助けてあげられるかもしれない」
ティエンが思い出していたのは両親の言葉だった。
――月狼族は月の満ち欠けとともに生きる。濡れたように明るい満月の夜もあれば、消えてしまいたいくらい悲しい新月の夜もある。
――つらい日があっても、半月もすれば楽しい日がまたやってくるの。だからティエンは――。
その先の言葉は記憶がもうろうとしていて思い出せないでいた。
でも今は——身体に力がみなぎるティエンにはわかる気がした。
——つらいときにも、満月の夜を思い出して。前を向いて歩くの。
もちろん、月のたとえはティエンにしかわからないことだった。
だけれど、それでも、ティエンが「暗闇」というものに対して強い感情を持っていて、たとえ憎らしい相手でも助けに行きたいと思っていることはニナにも伝わった。
「わかりました。ティエンさんが、そういう人だとわかってわたしもうれしいです」
「……うれしい?」
「わたしたちも手伝います」
「それはダメなのです。鉱山内で、いつ崩落があるかもわからないし、ニナを連れて行くわけにはいかない」
「わたしはさすがに足手まといですが、頼りになる仲間がいます!」
ニナが振り返ると、
「当然よ。ここは、あたしの
「掘削機械が中にあるなら私も役に立てるだろうね」
エミリとアストリッドが言った。
「どいてどいて! そこの天井にヒビが入ってるわよ!」
エミリの声が届くと、足を引きずってきた労働者はあわてて横にどいた。
「『静かなる土の精よ、己が力をみなぎらせ、岩盤を癒せ』」
それは第2位階の魔法であり、エミリの手から魔力の塊が発せられるとヒビの入った天井はミシリと音を立てながらヒビを塞ぎ、つるりとした表面に変わった。
「『気まぐれな風の精よ、土の精にささやき、脆くなりし岩盤を見つけよ』」
エミリの周囲から放射状に放たれた風は、洞窟の奥へと彷徨い込んでいく。
「……聞こえたわ。この先30メートルのところも、岩盤と岩盤がぶつかってズレているみたい。早めに直すわよ」
「は、はい」
ティエンは驚くばかりだった。
鉱山内に入ったエミリは進みながら、崩れそうな場所を見つけては補強している。
エミリが魔導士であることは聞いていたが、まさかこれほど自由自在に使え、しかも何発使っても疲れもしないとは思いもしなかった。
だが驚くのはこれだけではなかった。
ドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッ。
地響きを立てながら後ろからやってくる巨大な機械。
「おーいエミリ、ティエン。掘削機械を借りてきたよ」
先端にドリルがついており、レバーを操作して岩を破壊する機械だ。
魔術によって動いているのはティエンも知っていたが、
「歩行速度くらいまでは出るから、ふたりも乗ったらいい」
「へー。楽ちんね。……ってお尻が痛いんだけど!?」
「そりゃあ、クッションなんてものはないからねえ。イヤなら立っているといい」
「そうする……」
ティエンの知る限り、そのドリルマシンには車輪なんてついていなかったし、自走する機能なんてものはなかったはずだ。
よくよく見ると、鉄鉱石を運んだり、このドリルマシンを運ぶための魔導車の車輪が使われているのだが——この短時間で、魔導車からドリルマシンに、移植したとでもいうのだろうか?
「ティエン、君も乗るといい」
「は、はい」
エミリの魔法を見たのと同じ反応しかできなかった。
その魔導士エミリはと言えば当然のような顔で乗り込んでは腕組みして立っている。
(そうだ……ニナは特別なんだ)
ティエンが食事を食べられない原因を見抜き、食事を振る舞ってくれたメイドさん。
絶品のサンドイッチだってニナの手によるものだ。
そんな彼女が「特別」なら。
(ニナといっしょにいるこのふたりだって、特別に決まっている……!)
魔導ドリル車を意のままに操るアストリッドと、移動しながら魔法を発動して坑道を補強していくエミリを見て、ティエンはそう思った。
「……行きましたね。エミリさん、アストリッドさん、ありがとうございます」
鉱山の入口で3人を見送ったニナ。
あの3人ならば多少のトラブルはなんてことなく乗り越えてしまうだろう。
「——うぅ、いてぇ……」
「——救護室はいっぱいだってよ」
「——事務員どもはどこ行った?」
「——連中、ケガした俺らが多すぎて、泡食ってどっか行っちまったぜ」
「——なんだよそりゃぁ」
「——せめて医者を探しに行ったんだと思おうぜ」
小雨の降る入口前の広場は、ケガをして座り込む鉱山労働者たちであふれていた。
「わたしは、わたしにできることをしなくちゃ」
するとニナは、すさまじい速度で動き出した。
走っているようには見えない。メイドが走るというのはあまりにも不格好だからだ。
だがその速度は大人の全力疾走ほどだ。
彼女がまず動いたのは、管理事務所の1階と、隣の鉱山食堂を開放することだった。
事務員たちがいないので事務所は勝手に片づけてスペースを作り、食堂は厨房の料理人たちを説得した。
食堂の人たちも事故については聞いていたが、まさか食堂を急ごしらえの医務室にする発想はなかったらしい。
それでも、手当が必要な人たちを受け入れてくれると言った。
彼らが驚いたのはその後のことだ。
食堂で治療をするには汚れがひどいのだが、ニナが動き出すとてきぱきとテーブルやイスが片づけられ、床にモップが掛けられ、気づけば美しい床の木目が見えるようになっていた。
「入口で靴を脱いで入ってもらいましょう。傷口から汚れが入るとよくないので」
「あ……わ、わかった」
ニナは外へと飛び出した。
「皆様! 管理事務所と鉱山食堂にスペースを確保したので、そちらでケガの手当をいたします!」
ニナは小さい。
そしてメイドはけっして大声を上げるような仕事ではない。
だけれど鉱山入口近辺にいる労働者全員が、雨の中であっても、彼女の言葉を一言一句間違えずに聞けるほどに響く声を出した。
エミリがいれば「メイドなのになんでそんなにいい声が出るのよ」と言いそうなものだが、きっとニナはこう答えるだろう——。
メイドなら当然です、と。
「水を汲んできてくださいませ。ありったけの包帯、消毒液の調達も。管理事務所のシーツを細く切って、まずは簡易的な包帯として利用します。傷がひどい場合はアルコール濃度の高いお酒を消毒液代わりに利用してでも、早めに処置をします」
ニナは陣頭指揮を執って治療の指示を出す。
「お嬢ちゃん、そりゃ構わねぇけど、金がないと包帯や傷薬の調達もできねえぞ。それにアルコール濃度の高い酒……火酒は、あるにはあるが、これまた高い」
「こちらを」
ニナはためらわず、自分のポーチを差し出した。
「わたしのお金です。使い切って構いませんのでお願いします」
「なっ……」
ポーチの中には何枚もの金貨が入っており、料理人たちは唖然としたが、そんな彼らを背にしてニナは動き出した。
ケガをした人々が移動してくると、彼らは雨をしのげてまずはほっとしたようだった。
今ここにある物品だけでもできることは多い。
傷の深い者から見ていく。
「……これは、すぐにも縫合が必要ですね。それには消毒液が……」
「火酒でいいんだろ?」
「!」
すると赤髪の男が横から酒瓶を差し出した。
「いいのですか?」
「……当たり前だ。お嬢ちゃんみたいな子が身銭切ってるのに、俺らがやらねえわけにはいかねえ」
男は言うと、
「おいッ! こんなかで動けるヤツ、いるんだろ!? 俺といっしょに行くぞ!」
仲間たちに向かって大声を上げた。
すると、ほとんど傷を負っていないひとりが、
「行く……ってどこにだよ?」
「決まってる。鉱山の中だよ」
「!? おいおい、冗談だろ!? せっかく逃げてきたんだぞ」
「現場監督がまだ残ってる」
「それこそ冗談だ……。あんな嫌みな野郎のために命を捨てられるヤツなんていねえぞ」
多くの労働者がうなずき、同意の声を上げた。
「ティエンが行った」
労働者たちの怒りに反論するように、赤髪の男はそう言った。
「……は!? なんでだよ!? ティエンちゃんがいちばんいじめられてたろ!」
「俺だって行くなと言った。だけどあの子は行った。……恥ずかしくねえのかよ。こんなお嬢ちゃんたちが身銭を切って、命を張って、俺たちを、鉱山を救おうとしてくれてる。それなのに俺たちゃここで、あぐらをかいてんのか。それでいいのかよ」
しん、と静まり返った。
「……俺は指が折れたようだが、それでも足は無事だ。なにか力になれるはずだ。俺は行く」
赤髪の男は雨の中を飛び出していく。
静まり返っていた室内は、
「……俺も行くか」
「だな。ここで行かなきゃ男が廃るってもんだ」
「はぁ? 男だけじゃないわよ。女だって廃るわよ——あたいも行くぜ」
10人を超える人たちが立ち上がる。
「メイドさん、すまねえが……こいつらを頼むぜ。事務員どもが医者を呼びに行ったはずだが、この町には医者が少ねえ。結構時間が掛かると思う」
「わかりました。皆様、お気を付けていってらっしゃいませ」
「おう」
彼らが出て行くと、ニナは少し安心している自分に気がついた。
鉱山のプロである彼らがいたほうが、エミリたちももっと安全だろうと思えたのだ。
「——わたしもがんばらなきゃ」
鉱山の外で、ニナの孤軍奮闘が始まった。