予期せぬ事故
採掘体験が終わり、事務所に見学証を返却すると、暗い空からしとしとと雨が降り出した。
「雨ですね……」
「今ならあまり濡れずに宿まで戻れるのです。チィは鉱山に戻るのです」
「え? ティエンさんは戻るんですか?」
「早く、みんなが帰れるように手伝わないと」
「そう……ですか。残念です。お弁当を用意してきたのですが」
ニナの言葉にティエンの眉がぴくりと動いた。
「お弁当……?」
「はい。もちろん紫鈴連花の花粉を使っていない食材で作りました」
ニナがバスケットケースを見せると、ぐらりとティエンの心が揺らいだ。
エミリが、
「ちょうどお昼時だし、ティエンも食べていきなさいよ」
追撃を加え、アストリッドが、
「うん、それがいい。食事をしないと力も入らない……それは君がいちばんよくわかっているだろう?」
トドメを刺す。
確かに、ティエンは昨晩に今朝とだいぶ食べていたが、鉱山案内をしただけでかなりの空腹を感じている。
今までのぶんを取り返そうとでも言うかのように。
「チィのお腹は贅沢を知ってしまった……」
とティエンはひとりごちる。
「どうします?」
「うん……迷惑でなければいただきたいのです」
「ぜひ!」
4人は管理事務所から離れた場所にある木陰にやってきた。
このあたりは人家もなく、鉱山で使われ、廃棄された大型の器具が置かれているだけの場所だった。
食堂なんかが近くにあると、そのニオイでティエンが食欲を失ってしまうからだ。
「どうぞ、召し上がれ」
バスケットケースをニナが開いた。
そこにあったのは色とりどりのサンドイッチだ。
挟まれた野菜と肉の彩りは、作ってから時間が経っているというのに宝石のように輝いている。
「わあ……」
ティエンが思わず声を上げていると、早速最初の1つを取りながらエミリが言う。
「ニナったら日の出前に起きて、わざわざパンを焼いてきたのよ」
「あ……ご、ごめんなさい、チィのせいで」
「違う違う。そういうのじゃなくて……ほら、食べてみて。むしろあたしは感謝してるんだから」
「感謝?」
わからない、という顔でティエンはサンドイッチを口に運ぶ。
「!」
目を見開いたティエンはがつがつと残りも口に入れてしまった。
「ね? ニナが焼いたパンのサンドイッチってめっちゃ美味しいのよ! 今日、それが食べられるなんてラッキーじゃない。感謝感謝よ」
「そ、そんなに喜んでくださるなら毎日サンドイッチを作りますよ?」
「あんたねぇ、そこまでされたら逆にこっちが恐縮しちゃうじゃない。こういう特別な日に食べるから最高なの。ねえ、アストリッド?」
「そうだね。このサンドイッチはほんとうにすばらしい。一般に存在を知られたら、一流レストランのシェフたちがこぞって教えを請いに来るよ」
「いえいえ、メイドなら……」
当然、と言いかけてニナは黙った。
「どうしたの、ニナ?」
「……このサンドイッチの作り方は以前勤めていたお屋敷で、特別に教えていただいたんです。その料理人、ロイさんにはほんとうにお世話になったのに、お暇を告げることもできずに出てきてしまったので……。ロイさんの腕を考えたら、確かに多くの料理人さんが美味しさの秘密を知りたいと思うかもしれません」
ロイのこと、それに同僚メイドだったモナ、庭師のトムスを思い出してニナは寂しそうに笑った。
「みんな、どうしてるかなぁ」
「……ニナ、あんたはひょっとして——」
エミリがニナに声を掛けようとしたときだった。
ずずん………………。
遠くで地響きのような音が聞こえた。
「——今の音はなんだい?」
アストリッドがたずねると、ティエンがハッとしたように立ち上がり、音がした方角を見た。
鉄鉱山だ。
第4区の方角——。
「ふにゃほはふにゅにゃほふ!」
「今なんて!?」
「あーっ、この子、サンドイッチ全部食べちゃったじゃん!?」
「ティ、ティエンさん! 今の音——なにか心当たりが?」
こくり、とティエンがうなずき、ごっくんと呑み込んだ。
「鉱山でなにかがあったのかもしれないのです」
△
ニナたちが鉱山入口に戻ると大騒ぎになっていた。
「負傷者はこっちに運べ!」
「なんだあ、めっちゃ揺れたぞ」
「作業員! 外に出ろ! とにかく離れろ!」
「おいおいおい! すごい音だったぞ!?」
広い入口坑道から多くの鉱山労働者が飛び出してくる。
彼らはほとんどが手になにも持っておらず、大急ぎで、とにかく、逃げてきたということがわかる。
「誰か守備隊を呼んできてくれ! 第4区だ! 第4区が崩落した!」
崩落、という言葉は電撃のように広がった。
「逃げろ逃げろ! 他んところも崩れるかもしれねえぞ!」
「前が詰まってる! 早く出ろ!」
「今日掘った鉄鉱石はどうすんだよ!」
「バカか、命とどっちが大事なんだ!」
大混乱で労働者たちは、押し合いへし合い、突き飛ばし、ケンカまでしながら鉱山から逃げ出していく。
「ひ、被害はどうなんですか」
管理棟から事務員たちが出てきて、「崩落」を叫んだ鉱山労働者に駈け寄る——それはガタイのいい赤髪の鉱山労働者だった。
身体のところどころに傷を負っているようだが、彼の姿を見て、ティエンはわずかに安堵した。
「ケガ人が多い。天井から水がパッと出て、それでヤバイとわかったからさっさと出てきたんだ……だが、その後の崩落に巻き込まれたヤツが多い。足を折ったヤツもいるから手分けして運び出しているところだ。今のところ死んだヤツはいない」
「それはよかった……不幸中の幸いですね」
「いや、崩落の向こう側に取り残されてるのがいる。たぶん、直撃はしてねえと思うが」
「!?」
その言葉に、事務員たちが凍りつく。
岩盤が直撃すれば死亡、押しつぶされても死亡だ。
運良く生き延びても酸素がなくなれば死ぬ。
「現場監督が崩落の向こうにいた」
逃げ出す俺たちに、ノルマが未達だぞって大声で叫んでいたからな……とため息交じりに赤髪の男は言った。
命がけの鉱山労働で、危険があれば真っ先に避難するというのは常識中の常識だった。
にもかかわらずノルマを優先させている——その現場監督に、さすがの事務員たちも唖然とするが、
「と、とにかく、現場監督がおひとりで残っているということですね?」
「ああ、おそらく。結構広い空間ではあるから空気の残量は十分だと思う」
それを聞いてホッとした空気が広がる。
事務員たちは口々に、
「これなら守備隊の皆さんが来るまで待っても良さそうですね」
「ケガをした方の確認を進めましょう。補償も必要でしょうし」
「採掘スケジュールは遅れてしまうので、そればかりは大目玉を食らいそうですが……」
そんなことを話し合っていた。
だけれど、
「……すぐに助けに行くべきなのです」
月狼族の少女だけは、違った。
「ティエンさん? それは、どういう意味ですか。今、彼も言ったとおり崩落で取り残されているのは現場監督おひとりで、空気も十分ある。我々が大急ぎで動くよりも、守備隊に任せたほうがいいでしょう」
「一度崩落したら、二度するかもしれないのです」
「…………」
その可能性は、事務員たちが努めて
守備隊は町の治安を守る人たちであって、人命救助のプロではない。
事務員たちは、ただでさえ崩落という問題が起きた今、人命救助まで抱え込みたくなくて、守備隊に責任を押しつけたかっただけなのだ。
「しかしですね……それこそ現場の責任者である現場監督が中にいる以上、我々ではどうすることも……」
「そうです。我らはただの事務員ですから」
「あっ、来ましたよ! あの人が、足を折ったという方ですか?」
鉱山の入口に、即席の担架に乗せられた鉱山労働者がやってくると、事務員たちはそちらに向かった。
そこに残されたのは赤髪の男と、ティエン——それにニナたちだけだった。
「……嬢ちゃん、お前の言うことは正しいよ。だけどな、あの事務員たちだって間違っちゃいねえ。あいつらがここを仕切ったって、従う労働者はいねえ」
「それなら鉱山長は?」
「鉱山長なんてのは貴族のまねごとをしてるだけの
赤髪の男は顔をしかめる。
「っ! その手……!」
「ああ、俺も下手やってな。だけど2、3本、指を折っただけだ。たいした傷じゃねえ」
「早く治療したほうがいいのです」
「わかってる。だけどこっから、もっと多くのケガ人が出てくるぞ。そっちの対応をしなきゃなんねえから、俺なんかは後回し——」
「——ちょっと見せてください」
横からニナがするりと出てくると、男の手をつかんだ。
「おいおい、いったいなんなんだ?」
「ちょっと痛みますよ」
「あ? ——いでえっ!?」
ニナは折れたという男の指を引っ張る。その激痛に男の目尻に涙が浮かぶ。
「一体なにしやがる!?」
「骨接ぎです。折れた骨を合わせました。念のため、お医者様にも掛かってくださいね?」
そう言っている間にも、ニナはその指に軟膏を塗り、包帯を取り出して男の指を固定するように巻いてしまう。
その手つきの鮮やかさに、男は目を瞬かせることしかできなかった。
処置が終わると、ニナは、
「ティエンさん」
「な、なに……?」
「助けたいのですね?」
「!!」
そのストレートな言葉に、ティエンは息を呑んだ。
だけれど次には、はっきりと、首を縦に振った。
「助けに行くべきなのです」
ティエンは言った。