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チィはけっして受けた恩を忘れないのです

 先生が声を掛けると、離れたところで横たわっていたティエンがむくりと起きた。


「……はい」


 その顔は血色がよくなり、先ほどと比べると明らかに健康そうだった。

 今にも倒れそうな状態から抜け出せたようだ。

 たった一食で変わるのかとも思うが、それほどまでに今までの食生活はひどかったのだ。

 しっかりした足取りでこちらにやってくると、ニナにぺこりと頭を下げた。


「ありがとう。あなたは命の恩人。チィはけっして受けた恩を忘れないのです」

「そ、そんな……大げさですよ」


 命の恩人、なんていう重い言葉が出てきてあわててニナは手を振るけれど、


「このまま行けばチィはたぶん、数日で死んでた」

「え、ええ!?」

「ほんとうに助かったのです。なにかで恩を返したい」

「そうですよ、ニナさん。これは修道院としても是非恩返しをしたいと思っています。ティエンは、孤児院を出ていますがそれでもうちの子であることに変わりはありませんから」

「先生……」


 ティエンは先生を見て、それからニナを見つめた。


「なんでも言って」


 じっ、と見つめられて、ニナは言った。


「……でしたら、ひとつお願いが」

「うん。なに?」


 厚かましいかもしれませんが、という前置きとともに伝える。

 鉱山を案内して欲しい、と。


「…………は?」

「い、いえ、すみません! ご迷惑ですよね。お仕事しているところにずかずか入り込んで行くなんて……」


 呆然としたのはティエンだけでなく先生もだった。

 その様子を見て、エミリとアストリッドがけらけら笑っている。


「こういう子なのよ〜」

「どうしても鉄鉱山の中が見てみたいんだってさ。ほんとうに、純粋に、ただの興味本位で」


 言われてますますあわてるニナ。


「ご、ごめんなさい……見たことがなかったから、見てみたいっていう理由だけなんです……」

「…………」


 ティエンは先生に視線を向け、「なるほど」とうなずいた。


「それくらいお安いご用なのです。鉱山作業員の知人なら事前申請なしに案内ができる。いつがいいですか? 明日? 明後日?」

「あ、明日! 明日お願いします!」

「それなら、ティエンは今日はここに泊まりなさい」

「どうして? 先生」

「せっかくのお客様なのに、汚れたまま行かせるわけにはいきません。それに、ニナさんが作ってくださった料理の残り、明日の朝にも食べたいでしょう?」


 すると、


 ——くるるるるる……。


 ティエンのお腹が鳴った。

 だけれどその音は、いつもよりもずっとずっと控えめで、恐縮しているような感じさえあったのだ。



     △



 翌日は薄雲が出ていて、外出するにはちょうどいい涼しい日だった。

 鉱山見学日和と言えるかもしれない——いや、そもそも鉱山の中に入るのだから日和もなにもないのだが。


「おはようございます、ティエンさん……って」


 朝、鉱山街の広場に集まったときにやってきたティエンを見て、ニナは目を瞠った。

 たった一日でこれほど変わるのかというほどに、ティエンの血色はよくなっていたのだ。

 風呂に入ったからだろう、身体もきれいさっぱりとし、髪の艶も出ている。

 服だって昨日と同じものではあったが、大急ぎで修道女たちが洗濯したのだろう清潔感があった。

 それだけで、ティエンは美少女に変身していた。

 変貌にニナは思わず目を瞬かせる。


「おはよう、ニナ……やはりチィは変なのですか。先生たちの様子もおかしかったのです。ニヤニヤしてて」

「そ、そそそそんなことありません! かわいいです! とっても! ねえ、エミリさん、アストリッドさん!」

「いやー、化けたわねぇ」

「想像以上だよ」


 素直にエミリとアストリッドも褒めると、ティエンは顔を伏せて、


「そ、それじゃ行くのです。ついてきて」


 照れを隠すように歩き出した。

 さほど広くはない町なので、この数日でニナたちもだいぶわかるようになった町並みだったけれど、鉱山方面にはとんと足を運んでいなかった。

 ティエンは歩きながら、


「そこは鉱山のいろいろ記録が保管されている建物。古くさい紙のニオイがするのです。受付の女は化粧が濃くて臭い」


 とか、


「この1本裏の通りにトロッコが走ってるのです。トロッコが走る時間は決まってるけど、今は見られない」


 とか、


「選鉱所はこの先にあります。そこは後で見るのです」


 とか、鉱山の関係者でなければわからないことを説明してくれた。

 ニナはそのたびに、「へぇ〜!」とか「選鉱所ってなにをするところなんですか?」とか質問している。

 ティエンは、元が真面目な性格なのか、ニナの質問にいちいち答えていた。わからないところは「後で確認して教える」とまで言っている。


「そこが管理事務所なのです。見学の申請をしてきます」

「な、中に入っても?」

「別に大丈夫だけど……臭いですよ?」


 ティエンの基準は「臭い」か「臭くない」からしい。


「臭いならあたしはいいや」

「私は飲み物でも買ってくるよ」


 エミリとアストリッドは遠慮(というか無難に逃げた)ので、ティエンとニナはふたりで管理事務所に入った。

 夕方は報酬の受け取りでごった返す事務所も、朝いちばんの時間帯となれば静まり返っている。

 受付には事務員と、現場監督のふたりがいてあーだこーだと世間話をしていた。


「おはようございます。見学が3人いるので、見学証の発行をお願いするのです」

「はいはい……。ん? ってアンタ誰だよ。うちの作業着は着てるようだが」


 受付の事務員は怪訝な顔でティエンを見る。

 あまりに変わってしまった見た目で、わからないようだ。


「チィはチィなのです」

「——お前、その黒い耳はまさか!? 幽霊犬か!?」


 現場監督が気づいて大きな声を上げた。

 それで事務員も気がついたのか、「えっ」と声を出した後は絶句している。


「……チィは見学証の発行をしてもらいに来ただけです」

「あ、う、はい……」

「待て。昨日いったいなにをしていた? お前、稼ぎはゼロだったろうが」


 見学証の手続きをしようとした事務員の手を押さえ、現場監督が言う。


「別に、なにをしたか説明する必要はないのです」

「ある! 俺は現場の責任者だ。お前みたいな得体の知れないヤツをいれて事故があったら困るんだよ! お前に金はなかったはずだ。なのに今日は見た目が変わってる。そんならやったことはひとつだ……お前、どこに入ってなにを盗んだ?」

「…………」


 とんだ言われように、ティエンの目が細められるが、それより前に、


「……いい加減にしてください」


 押し殺したような声を出したのは、ニナだった。

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