そして訪れる満腹感
今日は吐き気を催すニオイがなかった。
一切、欠片も、なかったのだ。
ふらり、とテーブルに近づいていったティエンは、丸いパンをひとつ手に取った。
香ばしさとバターの絡んだすばらしい香り。
この街のパンは、
恐る恐るパンにかぶりついたティエンは、
「………………………………………………ッ!???!?!?!?!?!?!?」
クワッ、と目を見開いた。
がぶり、がぶがぶがぶり、とどんどん食べていく。
横から差し出されたお椀に入ったスープを飲むと、またも目を見開く。
横から差し出されたフォークに刺さった肉片を噛むと、またも目を見開く。
彼女はすさまじい勢いで食べまくった。
いつしか食堂にいる全員が彼女を見つめており——10回ほど皿を空けたあとにティエンは気がついた。
「あ…………」
「——ティエン、口に合ったのですね。口の周りが汚れていますよ」
先生がハンカチでティエンの口を拭ってくれる。
すると、子どもたちがワァッと声を上げた。
「やっぱし、ティエン姉ちゃんだって美味いって言うと思ったんだよ!」
「あたしも! だってこれすっごく美味しいもん!」
「こんなに美味しいご飯食べたら、明日からの食事が物足りなくなるかもよ?」
笑い声が響いている。
だけれど、ティエンはわからない。
確かにこの食事は豪勢だ。
でも、ティエンの目にはこれまでの街の食事となにが違うのか——それがわからない。
「お口に合ったようでよかったです」
そこへ厨房から現れたのは、いつも食事を作っている修道女ではなかった。
「……? メイドさん……?」
小さいメイドがいた。
それが、先日、水を分けてもらった少女だとティエンはすぐにわかった。
だけれどそのことと、今日の食事とがどうにもつながらない。
メイド——ニナはくすりと笑った。
「まずは、温かいうちにお食事を楽しんでくださいませ。お話はそれからにしましょう」
△
イスを並べたところに彼女を寝かせてブランケットを掛けると、子どもたちも眠ったために静かになった食堂で先生とニナがようやく落ち着いてお茶を飲む。
「……お茶もすばらしいですね。ほんとうにこれ、うちにあった茶葉ですか?」
「ありがとうございます」
「い、いえいえ、お礼を言うのはこちらのほうですよ」
もちろん、お茶を淹れたのはニナだ。
茶葉の種類、コンディションに合わせた淹れ方を知っているニナが淹れたお茶は当然美味しい。
修道女たちは後片付けをしていて——それも自分がやるとニナは言ったのだけれど、さすがに「そこまではお世話になれません」と言われてしまった——ここにいるのはあと、エミリとアストリッドだけだ。
そのふたりも厨房でニナを手伝っていたので、買ってきたワインを傾けながら遅い食事を楽しんでいる。
「急なことで驚きました。『厨房を貸して欲しい』とは……」
「ティエンさんはこの街でも有名な方なんですね。小さい女の子なのに鉱山で、男性と同じように働いていて」
「ええ。月狼族、という種族の特徴らしいです。ここにいたときから私よりも力が強くてずいぶん助けてもらいました」
「お食事をしていただくにも、きっとこちらの修道院でお出ししたほうが警戒されないかなと思いまして……」
「そう、それなんです。どうしてティエンは食事ができたのでしょう? ここでの食事はいつだって『マズい』と言っていて」
「はい。わたしも聞きました。この街の食事は全部マズいとティエンさんは仰っていて……それで、いくつかのレストランを回ってみたんです」
ニナは店名を挙げていく。それらは街でも有名なレストランで、見た目は少女のメイドさんだけれどひょっとしたら大金持ちなのでは……と先生は困惑する。
「……このイズミ鉱山は、主要な都市から結構な距離がありますよね」
「え? は、はあ、その通りですね」
急に話題が変わったので先生は目を瞬かせる。
「ですが、他の都市とあまり変わらない食事を提供されているレストランばかりでした」
「ええ。食料は街の外からすべて運び込んでいますが、公爵様はイズミ鉱山を非常に重視し、街が餓えることのないよう十分な食料を運んでくださっています」
「その食料を運んでいる途中で、腐ってしまわないよう工夫がされているのですがご存じですか?」
「工夫、ですか? ……そう言えばそうですね。何日も掛けて運んでくるのに、野菜はみずみずしく、肉も柔らかい。魚はさすがに干物ばかりですが」
「冷蔵の魔導荷車を使っているそうです。低温に保つとかなり長期間保存ができるんです。あと……
「ほう」
「味に変化はなく
「まさか……ティエンは、そのニオイを嗅ぎ取っていたと? 私は、他の都市に行ったこともありますが、ニオイの違いなど気づきませんでしたよ? ひょっとすると、この街の料理のほうが美味いな、などとも思いました」
ニナがうなずいた。
「紫鈴連花の咲く場所には野生の狼は近づかないんです。ニオイを嫌うのだとか。そのため山村では、オオカミ除けに紫鈴連花を植えるところもあると聞きました。実物を持ってこようと思ったのですが、ティエンさんに嫌がられるかなと思って止しました」
「…………」
先生は唖然とする。
ニオイなど、ほんとうに今の今まで気づきもしなかったのだ。
「先ほど申しましたとおり、いくつかのレストランで確認しましたが、ほぼすべての食品に紫鈴連花のニオイを感じました。ですが1軒だけ、ニオイのしないところがありまして——そこのシェフにお話を聞いたところ、鉱山街にできるだけ近い場所で生産された食材を使っていると。魔導荷車も、紫鈴連花の花粉も使わないで運んでいるそうです」
「……全然、知りませんでした。だからティエンは、ここの裏庭に生っている果実ならば食べられたのですね」
すると隣のテーブルにいたエミリとアストリッドが、
「あたしも。言われて食べても全然違いなんてわからなかったです」
「そうだねえ。よほどの食通でない限りわからないよ、あれは。むしろニナくんはよく気がついたものだ」
そんなことを言って補足した。
「そういうわけで、先生。そのお店をお教えしますので、ティエンさんが目覚めたら紹介して差し上げてください。そうすれば彼女は餓えることもないと思います」
「いや、それはほんとうにありがたいですが……。できれば今、直接教えてやってくださいませんか」
「今、ですか?」
「ティエン、起きているのでしょう?」