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空腹は止まらない

 これは危ないかもしれない、とティエンは思った。

 目の前が真っ白になって、ハッとすると目の前に地面があったのだ。

 持ち前の反射神経で手を突くことができたけれど、一瞬、気を失っていたようだ。


「おい、娘っこ。邪魔だ。横にどいてな」

「…………」


 ガタイのいい赤髪の鉱山労働者がツルハシを担いでやってきた。

 すれ違いざま、


「……現場監督は今、昼飯休憩だ」


 ぼそっとつぶやいた。


「…………」


 ティエンは労働者が去っていくのを見送った後、近くの岩陰に座り込んだ。

 彼は、「休むなら今のうち」と教えてくれたのだ。

 現場監督は厳しく当たってくるが、労働者たちの中には優しい人もいた。

 それに甘え続けるわけにはいかないとは思いつつも、さすがに今日は厳しいかもしれないと休むことにした。

 鉱山労働者になってから2年。

 稼ぎが増えるどころか、日々つらくなる。

 身体が大きくなって栄養素がもっと要るのに、食べる果実の量が変わらないからだろう。


(どうしよう……このままだとジリ貧だ)


 ティエンはうなだれる。

 この生活を長く続けるなんて不可能だ。

 他の街に行くことも考えたけれど、他の街の食事が美味しいと決まっているわけではないし、お金を稼ぐ手段もないし、大体、どうやって街を出ていけばいいのかもよくわからない。


(……考えがまとまらない)


 頭がぐるぐるする。空腹で考えがまとまらないのだ。

 そのとき、ティエンの鋭敏な鼻がニオイを嗅ぎ取った。


(水……?)


 鉱山の採掘は「水との戦い」と言われることもある。

 岩盤を掘り進むと、染みこんでいた水の溜まった水脈に当たる。

 それを排水しなければ溜まる一方なので、水を汲み出す仕事をしている労働者もいる。

 その場合、魔法を使うことも多く、鉱山の採掘では魔法使いも活躍できる。


(水のニオイがするのは、当たり前かな……)


 ティエンはうつらうつらして、考えるのを止めた。

 その水のニオイは、今まで嗅いだことのない種類のニオイだったけれど——そこまで考えられなかった。




「バカ野郎が、この幽霊犬! 1日潜ってこれっぽっちかよ!? てめえに払う銀貨は1枚もねえよ!!」


 結局夕刻まで寝過ごしてしまい、現場監督から雷が落ち、ティエンの今日の稼ぎはゼロだった。

 眠ってしまったのは仕方ない。でも、体調が回復していないのはつらかった。


(もう限界なのかな……)


 薄暗い道を、家へと向かって歩く。

 今日は新月まであと1日という日で、月明かりはほとんどない。

 こういうとき決まって思い出すのは、自分を置いていなくなってしまった両親のことだった。


 ——月狼族は月の満ち欠けとともに生きる。濡れたように明るい満月の夜もあれば、消えてしまいたいくらい悲しい新月の夜もある。

 ——つらい日があっても、半月もすれば楽しい日がまたやってくるの。だからティエンは——。


「…………」


 ティエンは首を横に振った。

 自分を可愛がってくれた、愛してくれた父も母もここにはいない。

 ある日突然、書き置きひとつ残さずいなくなってしまった。

 この街に流れ着き、孤児院に拾ってもらえたのはただの幸運に過ぎなかった。


(……チィは、お父さんとお母さんに会いたいのかな……)


 自分のことがわからなかった。

 捜しに行くのなら、孤児院にお金を渡している場合じゃない。

 恩を受けっぱなしがイヤなのだとしても、そろそろお金を渡すのは止めて、しっかり貯金をするべきだ。

 でも、それをしていないのは……。

 親に会う覚悟ができていないのかもしれない。

「捨てられた自分」に向き合う勇気がないのかもしれないーー。


「水のニオイ……」


 ふと見やると鉱山のほうに重い雲が垂れ込めている。

 山のほうは雨なのだろう。

 あの雲の感じだと結構しっかりした雨だ。


(そう言えば、水のニオイを今日どこかで嗅いだような……)


 頭がぼんやりして思い出せない。


「——ティエン、お帰りなさい」


 気づけば家に到着していたようで、ティエンの帰りを待っていたのは修道院の先生だった。


「どうしたのです、こんな夜に」

「あなたはほんとうに孤児院のためによくしてくれました。とても助かっています」

「……ごめんなさい、今日はお金を稼げなかったのです」

「でしょうね……そのやつれた様子では」


 薄闇でも先生が痛ましそうな顔をしているのがわかった。

 心配を掛けたくなかったティエンは、ぎゅっと自分の身体を抱きしめる。


「やつれてなどいないのです」


 そんな健気な姿に、先生はますますつらそうな顔をした。


「ティエン……今日は、感謝を伝えに来たのもありますが、もうひとつ用事があったんです」

「用事、ですか?」

「ティエンを修道院のディナーに招待したい」

「…………?」


 ティエンはわけがわからずに首をかしげる。

 修道院の食事は孤児院の食事と同じだ。

 そしてそこでの食事をティエンはほとんど食べることができなかった。あまりのマズさに。

 当然、先生もそれを知っているはずだ。


「……先生、チィは」

「わかっています。あなたのことは……ちゃんとわかっています。だけれど、一度騙されたと思ってきてはくれませんか?」

「修道院の先生が人を騙すのですか?」

「あっ」


 ぱしっ、と先生は額に手を当てた。これは一本取られた、とでも言いたいような仕草に、ティエンは思わず小さく笑ってしまう。


「わかったのです……果物なら食べられると思うので、行きます」

「そ、そうですか。では早速行きましょう」


 ティエンは先生とともに修道院への道を歩き出した。

 夜空に上る月は薄っぺらい。

 明日が新月となると体調はもっと悪くなるに違いない。

 そう考えると、今から憂鬱だった。


「…………ん?」


 修道院が近くなってくると、漂うニオイにティエンは気がついた。

 町外れのここは周囲に人家は少ないので、このニオイは——料理のニオイは修道院から漂ってきているらしい。

 そして不思議なことに、いつもならばくらくらするほどの吐き気を催す感じがまったくない。

 むしろ、


 ——ぐるるるるる……。


 空腹がさらに刺激されるのだ。


「せ、先生、あの……今日はいったいなにがあるのです?」


 腕をつかまれた先生はティエンに驚く。

 こんなふうにあわてたティエンを見たことがなかった。

 どこか超然としていて、同い年の子どもたちよりずっと大人びていた。

 そんなティエンが——炊煙を嗅いで、動揺している。


「実は私も半信半疑だったのだけれど、君を連れてきてよかったです。君のその顔……と、ヨダレを見れば」

「!?」


 自分の口から滴るヨダレに気がついて、ティエンはあわてて口元を拭った。


「ただいま。ティエンを連れてきましたよ」


 修道院の裏、孤児院の建物に入るなり先生は言った。

 外にいるときから聞こえていたけれど、扉を開くと中にいる子どもたちの声はさらに大きく聞こえてくる。


「——うんめぇ! なにこれ、こんなの初めて食った!」

「——お前、それ今俺が食おうとしてたヤツ!」

「——あたしが取ったの!」

「——こ、こらこら、まだあるんですから、意地を張らないの」


 戦場のような興奮と、それをいさめようとするものの手を焼いている修道女。

 食堂に入ると、広いテーブルと、そのテーブルさえ狭く感じられるほどの子どもたち、そして、大量の料理の皿が並んでいた。

 大皿のスープには野菜と肉が浮かんでいて、たっぷり焼かれたパンは山のように積んである。

 瓶に入ったジャムをすくう子どももいれば、小さく切られた肉料理を自分の取り皿にかき集める子どももいた。

 その誰もが、楽しそうで、幸せそうで。


(なん、で……)


 豪華な食事を見たからいつもより子どもたちのテンションは高いのだろう。

 だけれど、食事時はいつだって子どもたちは楽しそうだった。

 ただひとり——ティエンだけが暗い気持ちだっただけで。


(なんで、イヤなニオイがしないの?)

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