ぜんぶまずい?
ニナが「幽霊犬」という言葉を耳にしたのは、酒場から漂ってきた珍しい食べ物のニオイに釣られ、さまよっていったときだ。
ついでに、エミリとアストリッドと離れてしまったことにも気がついた。
だけれどニナの興味を惹いたのは、するり、するり、と人混みを通り抜けていく黒く長い髪の少女だった。
疲れ切った様子で座り込んだので、水筒を差し出した。
そのとき初めて彼女のイヌミミに——彼女が獣人だと気がついた。
「……要らないのです」
「お水を飲めば、少しは楽になるのではと思ったのですが。これは施しではなくただの親切ですよ」
施しではなく親切、という言葉をわざわざ補った。
ニナは、この少女が——鉱山夫の格好をしている少女が、人一倍「自立心」が強いのではないかと思ったのだ。
「それなら……もらうのです」
「是非どうぞ」
水筒を渡すと、こくこくこくとイヌミミの少女は水を飲み——あっという間に飲み干してしまった。
「美味しい……これはただの水じゃないのです」
「山の湧水を途中で汲んできました。先ほど、この街に到着した観光客なので」
「観光? ここに見るべきものなどないのです」
「ありますよ! わたし、鉱山を見てみたかったので!」
鉱山を見たかった、なんて言葉を生まれて初めて聞いたような顔をしたイヌミミ少女は目をぱちくりさせて、
「……あなた、変わってるね」
「そうでしょうか? わたし、ニナと言います」
「チィはチィ」
水筒を返しながら少女は言った。
「チィ……さん、ですか?」
「名前はティエン。でも親しい人はチィと言うのです」
すると、ぎゅるるるるるる……とティエンのお腹が鳴った。
「…………」
「…………」
一瞬の沈黙の後、ニナは、
「なるほど。あの……差し支えなければこの街のことを教えてもらえませんか? 食事の美味しいお店も教えていただけるととてもありがたいのですが」
お腹が空いていそうな彼女と、食事をいっしょにしてはどうか——と思い当たった。
だけれどティエンは、立ち上がりながら首を横に振った。
「ここの飯は全部マズい」
そう、断言した。
なんのためらいも、てらいもなく、ただ当然の事実を報告するようにきっぱりと言った。
強がりでもなさそうなほど自然な言い方だった。
「チィはやることがあるから失礼するのです。お水、ありがとう」
ティエンはふらふらと立ち去った。
「…………」
ここの飯は全部マズい。
そんなこと、あり得るのだろうか……みんながみんな、美味しくない食事で我慢しているなんてことが?
首をかしげているニナの後ろで、
「ま〜た始まった。ていうかすでに始まってたわ」
「うむ。これは、私たちがいくら気をつけていても無理じゃないか?」
エミリとアストリッドの声が聞こえた。
「あっ、ふたりとも! 捜したんですよ〜!」
「それはこっちのセリフだっつうの。……それで? 今の子は誰? あの子はなにに困っててアンタはどうしようっての?」
「え? い、いえ、急にどうしたんですか、そんな……」
「なにもしないの?」
「…………」
幽霊犬、なんて呼ばれていた。
濡れ羽色の髪と、そこにひょこっと飛び出たイヌミミが可愛らしい少女なのに。
今は痩せてガリガリだけれど、しっかりご飯を食べればきっともとの可愛さを取り戻せるはずだ。
自分になにができるのかはわからない。
けれどなにかできるのならば、してあげたいという気持ちは——確かにある。
「……えっと、なにかしてもいいですか……?」
ふー、とエミリが腕組みをした。
「事前に聞いてくれるようになったのは大いなる進歩よ」
「エミリの教育も捨てたものじゃないね」
保護者面をしているふたりが勝手なことを言う。
「それでニナ、なにから始める?」
ニナは答えた。
「ご飯を食べましょう! この街の、いちばんのレストランで!」
朝、ティエンは狭い部屋で目を覚ます。
ベッドサイドに置かれた、しなびた果物を手にしてかぶりつく。
あまりの酸っぱさに顔をしかめるが、我慢して噛み続けるとほんのかすかに、「これが甘みかな?」というものが感じられる。
——ぐるるるるるるるる………………。
お腹が鳴いている。
果物の隣には干し肉があったけれどそれを手に取ったティエンは、ごくりとツバを呑んだ。
「…………」
意を決したように噛みつくと、
「!」
すぐに口から出してペッペッとやった。
「……マズい。マズ過ぎる……。なんでみんなはこんなマズいものを平気な顔で食べているの?」
干し肉を戻そうとし、だけど名残惜しそうにそれを見つめ、それからさっきの「マズさ」を思い出したのかぶるっと身震いするとティエンは干し肉を置いた。
ふらふらの足取りで部屋を出た。
そこは鉱山労働者が格安で借りられる住居で、似たような、物置程度の家が並んでいる。
ティエンがここの住居を気に入っているのは鉱山労働者は自分で料理などしないので、食事のニオイが漂ってこないことだ。
唸るように鳴くお腹を抱えながらティエンが向かったのは、町外れの修道院だった。
その裏庭には小さな果樹があり、先ほどティエンが食べた果物がそこには生っている。
「…………」
手に取ろうとして、ティエンは止めた。
残りの数は15個。
自分が取りすぎてはいけない、とでも思っているように。
「——そこにあるものはすべて食べていいと言ったでしょう、ティエン」
修道服を着た初老の男性がやってきた。
「先生……。これ」
ティエンはポケットから銀貨を取り出した。
男性——先生は、それを受け取りながら、
「……ティエン、あなたがこのお金を寄付してくださることはほんとうにありがたいと思っています。孤児院の運営にはお金が掛かりますし……でも、あなたのそんな痛々しい姿を見たくはないのです。お腹が空いているのでしょう?」
「うん。だけど、ここの飯は全部マズいのです」
「ふう……どうしてなんでしょうね。そればかりは魔法で治してあげることもできません」
「いい。あの果物は食べられるから」
「……子どもたちも、ティエンがあの実を食べているとわかって、一所懸命世話をしてくれていますよ」
「ふふ」
ティエンは子どもたちが木の世話をしているところを想像したのか、小さく笑うと、
「それじゃ行ってくる」
と今日の仕事に出かけていった。
ただ歩くだけでもどこか危なっかしいその後ろ姿に、先生は心配そうな顔をする。
だけれどティエンになにを言っても説得できないのはこれまでのやりとりでわかっていた。
修道院に戻ると、朝の支度が始まっている。
戻ってきた彼に修道女のひとりが気がついた。
「先生、どうされました? あ……ティエンですか」
「はい」
ここにいる人たちはみんな、ティエンのことを知っている。
彼女が孤児院出身だからなおさらだ。
今は鉱山で働いていること。
数日分の稼ぎをまとめて寄付してくれること。
空腹でふらふらだけれど、「飯がマズい」と言って食べてくれないこと——それは遠慮やウソではなく心の底から「マズい」と思っていること。
「ほんの短い期間、お世話をしてあげただけだというのに……」
ティエンはどこからかこのイズミ鉱山の街へと流れ着いた——孤児だった。
いつの間にか街に現れた孤児は、野垂れ死ぬか、そこそこ良識のある大人が見るに見かねてこの修道院に連れてくるかのいずれかだ。
月狼族、と名乗った彼女は嗅覚が優れていて、先生たちにもわからないようなニオイを探り当てた。なくし物を探すなんて朝飯前だった。
そして、子どもなのに大の大人と同じくらい力が強かった。
だが食事はほとんど食べられなかった。息を止めて無理やり呑み込み、時には吐き出した。
どうしてもマズいという。
今まではどうだったのかと聞くと、ティエンは口を閉ざした。
「今まで」は両親と食事をしていたに違いない。
ティエンは両親のことを話したくない——つまり。
先生は察した。
ティエンは、親に捨てられたのだと。
10歳だったティエンは2年間を孤児院で過ごし、それから鉱山労働者になった。
孤児院にはお世話になったから、と稼いだお金を持ってきた。
孤児は年々増える傾向で、運営資金に困っていたのも事実なので、先生はティエンに悪いと思いながらも寄付を受け入れていた。
「せんせー! ティエン姉ちゃんの木にお水上げてくる!」
「おい、それは今日は俺の役目だぞ」
「早い者勝ち〜」
「ちょっと待ってよぉ〜」
起き出した子どもたちがわらわらと、裏庭の果樹へと走っていく。
ティエンは子どもたちとの距離の取り方がわからないようで、いっしょに遊んではくれない。
それでも慕われているのは間違いない。
「……どうしたらいいのでしょう。神はなぜ、あの子に、『舌の呪い』をかけてしまわれたのですか……」
先生は銀貨を握りしめて立ち尽くす。
呪い、としか思えなかった。
ひょっとしたら両親に捨てられてしまったショックで、味をちゃんと感じられなくなったのかもしれないとも思った。
そうだとしても、自分にはなにもできることがない——。
あんなにも健気で、がんばるティエンを、どうすることもできない。
先生は無力感に襲われ、途方に暮れる。
「——先生。先生?」
気づけば、修道女が近くにやってきていた。
「あ、す、すみません……朝の支度でしたね」
「それはそうなのですが、お客様がいらしてて。先生にご対応いただいたほうがいいかと」
お客様?
こんな朝早くから?
「なんとおっしゃる方ですか?」
首をかしげる先生に、修道女は言った。
「それがどうも……メイドさんなんです」