濡れ衣は突然降りかかり、メイドさんは旅に出る
「早く出て行ってください。あなたのように地味な顔立ちの、野暮ったいメイドはこのお屋敷に似合わないと思っていましたから」
つまるところそれは「クビ」の宣告だった。
メイド長とニナの間にあるのは、見事なまでに割れた壺。
「メイド長、この壺を割ったのはわたしではありません……わたしはこの壺が置かれている宝物室に入ったことは今までに一度もないのですから」
「黙らっしゃい。あなたがこの壺を落として割って、そそくさと逃げ出したのを目撃したメイドは何人もいるんですよ」
「そんな……!?」
「ともかく、これは決定事項です。このお屋敷を、栄えあるマークウッド伯爵家を出て行けばそれだけで不問にすると言っているのです」
「で、でも、ほんとうにわたしがやったのでは……」
「それともあなたの安い給金でこの壺を賠償するというのですか? 時価3千万ゴールドと言われているこの壺を?」
「そ、そんなの……できません」
「では、早々に荷物をまとめて出て行きなさい。今日中に。それと今をもって他の使用人との一切の会話を禁じます。いいですね」
これで話は終わりだと言わんばかりに立ち上がると、メイド長は部屋の扉を開いて横に仁王立ちした。
出て行けというのだろう。
ニナはショックに打ちひしがれ、のろのろと立ち上がるとのろのろと歩いて廊下に出た。
それでも彼女は頭を下げながら、
「長年、お世話になりました。皆様の今後のご健康とご多幸を——」
バタン。
扉は閉じられた。
「…………」
ニナは自分でも歩いているのかどうかわからない足取りで自室へと向かう。
ここはマークウッド伯爵邸の別館で、住み込みで働くメイドや執事といった使用人たちの部屋がある。
ハウスキーパーに
全部あわせて30人いる。
これ以外に執事やフットマン、コックにボーイもいるのだ。
それほどの人数を雇えるほどにはマークウッド伯爵は裕福だった。
やがてニナは自室へとたどり着いた。
ベッドと文机、クローゼットだけでいっぱいの部屋にあるニナの荷物はほんとうに少ない。
荷物を詰めようと取り出した旅行鞄はよく手入れがされていた——使うことはほとんどなかったけれど、その旅行鞄はニナが5年前にこのお屋敷にやってきたときに持ってきたものだ。
——ニナ、お前が大きくなったら大きな旅行鞄を買ってやろうと思っていたんだけど、お前は小さいまま働きに出ることになってしまったね。だからしようがない、私が小さいころに使っていたお下がりだけど、まだまだ使えるからこれを持っていきな。
メイドの技術を完璧に仕込んでくれた師匠がくれた、旅行鞄。
「……師匠、ごめんなさい」
荷物を詰めながら、悔しさに涙があふれてくる。
「わたし……まだまだお屋敷のために働けたはずなのに……出て行くことになってしまいました……」
3歳で家事の手伝いを始め、5歳のころには家事のセンスを師匠に見込まれ、師匠とともに働き始めた。
10歳には師匠のお墨付きが出て、ニナはひとり、このマークウッド伯爵邸へやってきた。
それから5年——今、ニナは15歳。
まさかこんな形で、
「……わたしの最後のお仕事が、ここを『出ていくこと』なら、ちゃんとやらなきゃ」
師匠の教えを思い出す。
——メイドはいつだって仕事を完璧にこなすものだ。目立ってはいけないよ、目立つのはご主人様たちの仕事だからね。
小さな鏡で身だしなみを整える。
くすんだ茶色の髪を左右でお下げにしており、ほつれたところを手早く直す。
眼鏡の向こうには空色の瞳があり、まつげは涙に濡れている。ハンカチで拭いてなるべく元に戻そうとする。
私服は持っていない。メイド服があれば街に出ていてもおかしくないし、メイドに休日はほとんどない——休暇を取っているメイドもいるにはいたが、ニナは、自分が1日休むことでお屋敷が汚れたり他の使用人の業務が滞るのがイヤだったので休まなかった。
ニナはメイド服の上に外套を羽織った。
「あ、そうだ……引き継ぎをしておかないと——」
——今をもって他の使用人との一切の会話を禁じます。
そうだ、もう誰とも話してはいけないのだ。
「…………」
満足に引き継ぎもできないまま出ていかなければならない。
「……でも、せめてこれくらいは」
自分でまとめておいたメモを取り出す——このお屋敷を訪れるお客様の名前とその特徴、食事の好みや注意しなければいけない点をまとめたものだった。
誰かに渡せば、きっと役立ててもらえる。
ニナは、5年を過ごした部屋に向かって一礼する。
シーツはピンと伸び、部屋の隅にもほこりひとつ落ちていない、完璧に世話が行き届いた部屋。
お屋敷中をこの状態に保つのが好きだった。
「——ねえ、あれ」
「——あ〜……今日クビになったニナじゃない?」
廊下に出ると、
「——今をときめくマークウッド伯爵様のお屋敷にあんな地味な子がいるのってほんとどうかと思ってたのよねえ」
「——しっ。聞こえちゃうわよ」
「——いいよ。だってもう、お屋敷と関係のない人でしょ?」
他のメイドたちがくすくすと笑っている。
彼女たちの着ている服こそメイド服だったが、入念に手入れされた髪とさりげないアクセサリーは、お屋敷のご主人様の
貴族の愛妾になれば贅沢も思いのままだ。
もちろん——そんな彼女たちの仕事のレベルは
それでもニナは、そのうちのひとりに近づいた。
「……なによ」
イヤそうな顔をしたメイドに、ニナはメモ帳を差し出した。
「こ、これは会話ではなく独り言です。お屋敷を訪れたお客様についてまとめたリストです。きっとお役に立つと思います」
「…………」
「…………」
「…………」
「ここに置いていきますから」
相手が一向に受け取らないので、ニナは足元にメモ帳を置いて彼女たちに背を向けた。
ニナは、師匠の推薦で
語学も堪能で礼儀作法もよくできる。
ニナはレディーズメイドとしてよく働いたのだけれど、それ以外のことも気になってしまった。
廊下は汚れ、食事の出し方も雑で、お坊ちゃまたちの教育も行き届いていない。
それはすべて、当主の伯爵がメイドの採用を「見た目」重視にしてしまっているからだった。
もちろん見た目のよさが必要な
だけれど客と接しないメイドも見た目で選んでしまったものだから、あちこちで業務が滞っていたのだ。
それを解決したのが、ニナだ。
これほどに広いお屋敷であっても、ニナはたったひとりのあらゆる仕事をこなした
(この後……どうなっちゃうんだろう)
一瞬、ニナは自分がいなくなった後にこのお屋敷がどうなってしまうのか、考えてしまったが、すぐに首をぶんぶんと横に振った。
(きっとメイド長は、わたしがいなくなったあとでもお屋敷がちゃんと
向こうも心配して欲しいとは思っていないだろう。
さすがに、メイド長はわかっているはずだ——とニナは思ったが、不幸なことにメイド長はわかっていなかった。
ニナは「目立つな」という師匠の言いつけを守り、すべてを密やかに行ったのだった。
働き出してから1年してようやく奥様がニナの存在に気がつき、名前を聞いたほどだ——レディーズメイドだというのに。
これからのことを考えて歩きながらも、ニナは窓の曇りを見つけるとポケットから取り出した手ぬぐいで拭き取り、吹き込んでいた落ち葉を拾い上げ、出しっぱなしだったモップを片づける。
ひとつひとつの動作に澱みがなく、「ただ歩く」というふうにそれらは行われる。
彼女が歩いた後にはチリひとつ落ちていない、きらきらの廊下があった。
このレベルに到達してしまうと他のメイドが気づかないのはある意味仕方がなかった。
他のメイドはニナのすごさがわからず、ニナもそれを誇らない。
不幸なすれ違いだった。
「……あ」
ふとニナは、廊下の隅を見た。ニナが初めてお屋敷にやって来たときに謎のシミがあった場所だ。それを時間を掛けて落としたのを思い出したのだ。
向こうの窓は高いところにあるので庭師に頼み込んでハシゴを貸してもらい、拭くことにした。
使用人の食事は作り置きのものを手の空いた時間に食べるので、冷め切った料理が多く、料理人と話し合って冷たくなっても食べられるメニューを考えた。
あの掃除置き場は……。
突き当たりのドアは……。
この天井は……。
使用人の寮とは言え、そのあちこちにニナは手を入れた。
ちなみに言えばお屋敷はここよりももっと気合いを入れてピカピカにしてきた。
「…………」
ニナが最後に通りかかったのは寮の厨房だった。
本宅の料理人でもあるロイが使用人のためにも腕を振るってくれている。
午前中のこの時間はここにいるはずで、厨房からはトントントンという包丁の音が聞こえる。
(ロイさんは天才的な料理人)
奥様ですら、本館の厨房に用があるときには一度メイドにノックをさせるほどだ。
礼を尽くして迎えたコックだとニナは聞いていたし、それほどの腕もあるとわかっていた。
(そのぶん食材の仕入れには厳しくて、完璧なタイミングで上質な季節の食材を仕入れないといけない……)
一言言うべきではないか。
そう思ったけれど、ニナは首を横に振った。
そしてそそくさと厨房の前を通り過ぎた。
「?」
ロイが、ちらりと振り向いたがそれだけだった。
お屋敷から表通りへと出る。
ここはクレセンテ王国の王都「三日月都」。
多くの人が集まり、賑わっている。
「どこへ行こう……」
だけれど、ニナはひとりだった。
ひとりぼっちでその往来を眺めていた。
「そっか……わたしはずっと、お屋敷で働くことがすべてだったから」
最初は褒められることがうれしくて家事を手伝い。
師匠にメイドとしての才能を見いだされてからはどんどん知識を吸い込んだ。
それが楽しかった。
給金の大半は、田舎の実家に仕送りをしていたけれど、少し残したものをニナは使わなかったので貯金はできた。
その額は50万ゴールド。
節約すれば、ニナなら半年は暮らせるだろう。
住む場所があったら1年は行ける。
「……実家に帰る? ううん。帰っても迷惑なだけだし」
実家は農家で、さほど裕福ではなく、家事を手伝えるだけの自分が転がり込んでも収入が増えるわけではない。
帰っても持て余されてしまうだろう。
「ん……」
そのときふと、耳に聞こえてきたハンドベルの音。
「——乗り合い〜、乗り合い馬車が出るよ〜。行き先は、王国の大動脈、商業都市フルムンだよ〜。王国中の珍しいものが集まる風光明媚な商業都市! ちょっとした観光にどうぞ〜」
乗合馬車の客引きらしい。
ニナは、自分が「お屋敷」以外をほとんど知らないことにふと気づいた。
観光。
見たことのないものを見てみたい——。
それはただの気まぐれだった。
メイドをクビになった、悲しい気持ちを紛らわしたかっただけかもしれない。
「あの! わたし、乗ってみたいです!」
ニナは一歩踏み出した——メイドはこうして旅に出た。