彼女の矜持
……大会議室の中は、静まり返っていた。
100人は着席できるという場所に、パイプイスが並んで、残った社員たちが座っている。
その数は、80人ほどはいるだろうか。
マジか。
こんなに残ってくれたのか。
KKアドシステム関連の社員で100人は超え、出向者で20人、すでに広電堂と一体化して動いていた人事チーム、それに役員を含めれば150人近くはいただろう。
残りの160人のうち、木村のような広電堂への転籍希望者、それに
出て行ったのが半分も、じゃない。
出て行ったのは半分しか、いなかった。
もっといなくなっているかと思っていた。
この部屋にいるのは、なんなら一桁、いや、ゼロでもおかしくはないと。
ドアは開け放たれたままで、藤ノ宮弁護士はついてこないらしく、小さくうなずいた。
俺は歩いて前に進み、ホワイトボードの前に立った。
(ああ……クソ、懐かしいな)
営業の小村さん、インフラチームの鈴木さん、ネットワークエンジニアの高野さん、デザイナーの神室くん……ひとりひとりの顔と名前が一致する。俺がいなかった間に入社した人は誰もいないみたいだ。後ろのほうには塚原さんが座っていて、俺と目が合うとにやりとした。
目立つ服装は如月ちゃんだ。だぶだぶのトレーナーはショッキングピンクで、また染めたのだろう、きんきらの金髪をおさげにしている。
そして、いた、松本さん。如月ちゃんの隣に座っていて。よりいっそう疲れたように見えるけれど、今は気丈に背筋を伸ばしていた。
「……お久しぶりです、皆さん」
それだけ言うのが精一杯だった。
わけがわからない。
なんか泣きたい気持ちになってきた。
でもわかったこともある。
この人たちは、アドフロストを必死で守ってきた人たちだ。
この会社にとっての財産とも言うべき人たちなんだ。
そして、俺の名前を聞いても逃げなかった人たちであり——。
(ここで働いた12年、無駄じゃなかったのかもな)
そう思えたのだった。
「……びびったよ、最初、月野さんの名前聞いたとき」
俺がなにも言えないでいると、最前列に座った営業の八木さんが言った。俺と同期入社だけど、八木さんのほうが年齢は3つ上。
すると他からも声が上がる。
「だよね。同姓同名の別人かと思った」
「こうして見ると本物だな」
「服はゴージャスになったみたいだけど」
小さな笑い声が上がった。
その笑いが、ありがたくて、俺の胸はまた震えた。ああ、もう、クソったれ。ここでちゃんと話すために来たんじゃないかよ。ここで踏ん張らなくてどうするんだよ、俺。
「……最初に、謝っておきたいです。すみませんでした。急なことでみんな、驚いたと思います」
俺は頭を下げ、それから話を始めた。
まずは、俺が会社を辞めたときの事情。
退職後にマイナーとなり、マイナー関連ビジネスで成功したこと(そういうことに、しておくようにとは藤ノ宮弁護士に言われていた)。
アドフロストで多くの退職者が出ていると聞いたこと。
自分にできることはないかと考え、事業と雇用を守るべく買収の提案を行ったこと——。
「今の人数だと大きすぎるオフィスなので、この近くに移転しようとは思っています。ですがアドフロストはアドフロストのまま残したいと思いますし、今までの事業を継続したいです」
そこまでの話を、みんな真剣に聞き入っていた。
うなずく人。メモる人。「マイナー、儲かる?」って書かないで。異能がなきゃ儲からないから、ふつうは。
それからの質疑応答はいろんな質問が出た。
社長は誰になるのか? ——俺だってわからん。とりあえずは俺がやらなければいけないらしいけど。
なので、
「役職者の中でふさわしい方に、なるべく早い段階で社長の座は譲りたいと思います」
と言っておいた。すると、数人の目が輝いた。
いいね……今はアドフロスト崩壊の危機ではあるけど、裏を返すと上層部は全員いなくなった後なので、そこに入り込むチャンスがあるってことだ。
意欲がある人は大歓迎である。
「広電堂とはどんな契約なんですか」
ここは結構深掘りされた。やっぱりみんな、多かれ少なかれ広電堂に対していい思いを持っていないのだろう。俺は、言える範囲で誠実に答えた。
今後の給与とかもだ。それも維持する。評価制度は変えるかもしれないが、それはまだ先のこと。
みんな、少しは安心してくれたようだ。
「——質問よろしいでしょうか」
一通りの質問が終わったところで、すっと手が挙がった。
松本さんだ。
「どうぞ、松本さん」
俺が言うと、彼女は今日ずっと変わらない強ばった顔でこう聞いた。
「KKアドシステムという売上の7割を持って行かれたら、事業を継続できないのではないでしょうか?」
「そこについては、塚原さん」
当然、ここも検討済みだ。
俺が声を掛けると、塚原さんがうなずいて口を開いた。
「まー、売上が純減で7割ってわけではないんだよね。KKがあるから他のもウチに発注したりしてくれたわけで。なんで、まー、かなり消極的に見積もって残売上は15%、強気に見積もって25%、その間に着地すると思われる」
「賃料の低いビルへ移転する前提ではあるけど、固定費を削ることで、利益が出やすい体質にします」
俺が言うとみんなは「ふーん」と納得したようだが、松本さんは違った。
「いくら固定費を削っても、売上はよくて今までの4分の1。ネット広告じゃないと利益率は低いと思いますし、今回の離職は特に営業職が多かったので受注案件は絞られてくると思います。実際、来期の赤字幅はどれくらいでしょうか?」
「あー、それは……」
「塚原さん」
俺は塚原さんが「正確な計算はできていない」と言うだろうところでストップをかけた。
「移転の費用もあるので、赤字はほぼ確定だと考えています。でも、赤字幅は大きくても3億円いくかどうかでしょう」
俺は正直に答えた。それはいちばん最低の想定だったが、伝えないよりは伝えたほうがいい。
「……その場合の従業員の給与カットは考えていますか?」
社員の何人もがぎくりとした顔をした。
大丈夫。大丈夫だよ。そんな顔しないで。
「考えていませんよ。給与は維持をすると言いましたよね」
「ではその原資はどこから出てくるのでしょうか。銀行からの借り入れですか」
「……いえ、俺が追加で出資します」
えっ、という声が漏れた。
みんな、アドフロストを俺が6千万円で買い取ったことしか知らないので、「月野は借金するなりして6千万を用意したんだろう」と考えていたのかもしれない。
元の売値は11億だぞ?
3億赤字が出ても、4年近くはもつんだ。
「どうしてですか」
松本さんは重ねて聞いてきた。
「どうして、とは……? アドフロストは株式会社なので、業績に対しては株主が責任を負うんですよ。俺は100%の株主だし、一時的にせよオーナー社長にもなるので……」
「違います!」
その高い声にみんな驚き、俺も動けなくなった。
彼女は、どこか
「どうして……月野さんだけがそんなにお金を出さなければいけないんですか。広電堂は、KKアドシステムを抜いたらこの会社なんてほとんど価値がないと見放したんですよね? なのに、どうして月野さんだけが自分を犠牲にして……」
松本さんの言葉は自虐も甚だしいと思った。
それは、すでに一度会社を辞めた俺ではなく、いまだアドフロストに残っている人たちの価値を否定することにもなる。
だけどみんななにも言わなかった。
松本さんは、言葉を絞り出しながら、ぽろぽろと涙をこぼしていたからだ。