扉を開く手
いろいろ話がまとまったのはそれから2週間して、だった。
KKアドシステム事業は最初の想定通り広電堂が引き取ることになり、それに紐付く社員はもちろん、その他に希望する社員もいるのなら、転籍することになった。
「希望する社員が広電堂に転籍」というのは、金村取締役が必死になって取り付けた条件なのだろうことは、誰にでもわかる。
すでにアドフロスト社員には買収のことが伝えられており、広電堂にも行かず、アドフロストにも残りたくないという社員には転職支援を行うことも合わせて周知された。
残ってくれる社員、つまりKKアドシステム以外の今の仕事を続けたい場合は、待遇と業務を保証することが決まった。ただし役員はのぞく。
結果が出るのはまだ先だが、多くの社員が広電堂に移るだろう。
子会社から親会社に行けるんだもんな。ふつうに考えたら喜ぶ。
俺の名前を聞いて残る人なんて、松本さんと、如月ちゃんと……このふたりだけって可能性もあるよな。いや、このふたりも広電堂に行ったらどうしよう。俺、金の払い損じゃん。
とはいえ、最終的な買収金額は6千万円にまで下がった。
藤ノ宮弁護士が「赤字になる企業に11億も払えるか。1円だ!」と呼びかけたおかげだ。
1円ではなく6千万円を払うことにはなったが、その代わり、転職支援や社員受け入れを広電堂に呑ませた。
また、藤ノ宮弁護士には買収に関する報酬で時給+成功報酬3千万円を支払うことになった。
——最終的に残る人数次第だけど、今入ってるビルから退去することになるよね? それだって賃貸契約期間満了じゃないから違約金を払わなきゃいけないし、数千万から1億くらいはするよ。そこは広電堂に払わせるから。実際には会社の現金預金をいじったりするんだけど、今は月野さんは気にしなくていいよ。あと什器とかも残させるから、使わないものを売れば多少の金額にはなる。
さすがデキる弁護士……。
なに言ってんのか俺もよくわからなかったし、俺が理解できないことすら見抜かれていた。
それからさらに2週間が経過して——暦の上では師走になろうとしていた。
アドフロストの買収に関するプレスリリースが発表されたが、世間的なインパクトはあまりなく、アドフロストの顧客から「今後はどうなるんだよ」という問い合わせがあっただけっぽい。
混乱があっても社員は働き、広告を制作し、掲載しているのだ。
こう思うと会社員はほんとに歯車なんだなって思う。給料が支払われ続ける限りは回り続ける歯車だ。まあ、俺もずっとそうだったわけだけど。
広電堂の発表内容を見たら「今期の業績に与える影響は軽微です」との文字があり、事実、東証一部に上場している広電堂の株価はぴくりとも動かなかった。
広電堂に移る社員はすでにおらず、転職を希望した社員も残っていないという。
役員は全員いなくなった。
部長以上の管理職もだ。
それでも会社が回っているのだから、もしかしたら俺が想像している以上に社員が残っているのかもしれない。
「やっ。月野さん」
めっきり寒くなりだした12月。
今までに着たことがないほどに、軽く、そして温かいロングコートを羽織った俺はアドフロストにやってきた。
エントランスにいたのは相変わらず藤ノ宮弁護士だった。
事務処理の多くは彼のチームメンバーがこなしていて、俺も彼のメンバーとは何度もやりとりをしてきた。
だけど、重要な案件はこうして出張ってくる。
今日は——残った社員に対して、アドフロストの
メールだけでもいいんだけど、「オーナーなら直接話すべきだね」と藤ノ宮弁護士に言われたのだ。
「覚悟はできたかい?」
「……いや、何人残ってるかも教えてくれないんだから、覚悟もなにもないですよ」
「そのほうが面白いかなって」
面白いかどうかだけでやらないでくれ。
マジで胃が痛いんだが。
「どうしても聞きたいなら教えるって僕は言ったよ?」
まあ、それはそうなんだけど……。
「とはいえ、社員だって月野さんを知っていても晴天の霹靂だったわけだし、君も同じようなショックを味わった方がフェアなのは間違いない。君も僕がそう言ったから納得したんだろ?」
「う……はい」
なんかうまく丸め込まれている気もするが、弁護士としゃべりで戦って勝てるわけがない。
それに——俺は怖かった。「全員辞めました。アドフロストには誰も残っていません」なんて言われるのが。
そうしたら会社を整理することになる。
広電堂がやらなかった会社整理を、俺が自腹を切ってまでやるだけのことになり、俺ひとりがピエロになる。
……まあ、金の使い道を探していたくらいだから別にいいんだけど。でも、誰も残らなかったことを木村が聞いたら絶対笑うだろうから、それは我慢ならん。
ちなみに木村は広電堂に入社したらしい。まあ、あいつからしたらその道を選ぶよな。金村取締役も広電堂を当然のように希望したのだが、現場のリーダー格にまで降格されると聞いて断ったらしい。その後なにをしているかは知らないし、知りたくもない。
「そんじゃ、行くか」
俺は藤ノ宮弁護士とともにエントランスから社内へと入る。
会議室エリアを抜けると、カードキーでバックオフィスへと抜けるドアを開く。……なんか藤ノ宮弁護士、手慣れてるな。
総務チームのエリアに入ると、半分以上のデスクがカラッポになっているのに気がついた。
電灯を点けているだけにその閑散具合がしっかりと見えて、俺の心にダメージが入る。
荷物があり、パソコンの電源が入っているデスクにも人がいないのは——従業員用の大会議室に全員が集められているからだ。その大会議室はすぐ隣だ。
(……少なくとも数人はいるな)
それくらいのパソコンは残っていた。
ホッとしたような、彼らの前で話をしなければいけないので、緊張するような。
大会議室の前で、藤ノ宮弁護士は止まり、俺の上着を受け取ると親指でくいっとやった。俺に行けと? まあ、そうだよな。今回の主役は俺だ。
ドアノブをつかむ直前、またも迷いが俺の心に現れた。
(松本さん、いるんだろうか)
実は松本さんとはまったく連絡が取れていない。
連絡先を交換してあるのに、俺がコールしても向こうが出てくれないのだ。
……どう考えても嫌われてる。
そう思うのだが、でもそれならアカウントごとブロックするよな、とも思うわけで。
彼女がなにを考えているのか全然わからないのだ。
実は藤ノ宮弁護士から「何人、そして誰が残ったのか」を聞かなかったのは松本さんのことを聞くのが怖かったというのが大きかった。
ちなみに——シングルマザーの経理の塚原さんからは毎日のようにメールが飛んできてあれこれ聞かれ、そして向こうも実際のお金の動きを教えてくれた。
今の、ナマの経理状況は藤ノ宮弁護士にとっても有用な情報だったらしく、本来は開示されなければならない未回収の売掛金の情報もあり、それがあったからこそ買収額を95%もディスカウントできたのだ。
(だから塚原さんはいるはず。いやむしろこれでいなかったら笑う)
俺は意を決してドアノブをつかんだ。
大会議室の扉を開く——。