決意と戦闘スーツ
俺は、伊勢原の自宅のリビングにいた。
イスの上にあぐらをかいて、テーブルに散らばった紙の資料を見る。
「うむむむ……」
あれから藤ノ宮弁護士からアドフロストに関する資料が送られてきたのだ。
親会社の広電堂がアドフロストを手放したいと考え、売却先を密かに探しているらしい。
アドフロストを買う、ということはつまりアドフロストの株式を100%持つということだった。
どうやら藤ノ宮弁護士は、俺の過去を調査していたようで——どこまで知ってるのかは教えてくれなかったけど。
(ほんとうなら広電堂は自社開発でネットワーク広告のシステムを作ったが、実はまったくうまくいっていない……それでやはりアドフロストが、KKアドシステムが欲しくなったんだ)
資料にはそのあたりの推測まで書かれてある。
……すごいな。藤ノ宮弁護士が組織している実務チームの仕事らしい。いくら切れ者でもたったひとりですべての業務をこなすのは現実的ではないし、効率も悪い。
KKアドシステムとは、アドフロストが開発したネットワーク広告のプラットフォームだ。
なんか横文字ばっかりだけど、要はいろんなところにバナー広告を出せるってこと。
使い勝手がいいと大変な評判。
俺はそんなバナーをデザインする部署にいたというわけ。
親会社の広電堂はアドフロストがやっていることくらい「すぐに真似できる」とごりごりに競合してきたのだが、それが意外とうまくいっていない、と。
(……ウチのシステム開発部は結構優秀なんだな?)
妙なところで感心した。
(アドフロストはネットワーク広告だけでなく、いわゆる広告代理店として動いてる。
かといってそこだけ吸収して、あとは全員解雇……なんてできないのが日本の労働基準法だ。グレーゾーンギリギリで会社を辞めさせても外聞が悪い。
そこが、アドフロスト吸収における広電堂のリスクだ。
だからネットワーク広告だけ広電堂に吸収し、それ以外の事業を会社ごと売却したい、と……。
100%子会社なのだから連結対象なのだし、そのままアドフロストを活かせばいいのにと思うのだが、広電堂内部の派閥争いでどうしても広電堂が始めたネットワーク広告システムをつぶしたい執行役員がいるために、KKアドシステムを吸収したいらしい。
「……自分勝手ってレベルじゃねーだろ。なんで子会社を、そこにいる人間をオモチャにできるんだ」
腹が立った。
広電堂は、アドフロストが売れなかった場合も考えている。残りの事業の人員をできる限り減らしてから広電堂本体に吸収しようというのだ。
だからこその様々な嫌がらせだ。営業先がかぶったり、ネットワーク広告の紹介を止めたり。
「もしかして、金村本部長のサンガノコーポ案件もそれか……?」
あのせいで現場はぐちゃぐちゃになり、疲れ切った社員は辞めていった。
だけど本丸のネットワーク広告の部門はサンガノコーポには関係ない。
金村本部長が社員の退職を狙ってやったのだとしたら……。
「非道にもほどがある」
俺は拳を握りしめた。
ひとりで戦っている松本さんのことを思い出すと、胸が苦しかった。
社員が減ったとはいえ、まだまだアドフロストはネットワーク広告以外の売上が出ている。松本さんの苦労は続くのだ。
「……助けてあげたい」
俺の手元にあるのは、17億円。
彼女に差し伸べた手は断られた——それは、当然だろう。
金をやるから俺になびけ、と言われたようなものだ。
だったら、やれることはひとつ。
(松本さんに相談……いや、止めよう)
相談しても、仕方がない。彼女は絶対に「止めてください」と言うだろう。
自分のために10億円出すなんて言われたら俺だって平気じゃいられない。
だから俺は、スマートフォンの通話アプリで小太りな弁護士を呼び出すと、
「もしもし、藤ノ宮さん?」
すぐに言った。
「……買います、アドフロスト」
□□□
「……またここに戻ってくるとは」
今日の俺は過去最高に戦闘力の高い装備をしていた。
身体を採寸してオーダーメイドしたスーツである。
防刃スーツとかそういうんじゃなく、正真正銘防御力ゼロの(そもそも防御力なんぞ要らん)
ネイビーに、ストライプの入ったすさまじく仕立てのよいスーツは上下で100万円を超えた。
ネクタイ1本で10万円だ。
あとなんていうの、これ、ワイシャツの袖にあるボタン? 留まればよくない? って思ったんだけど、謎のこだわりでデカいボタンがついている。
そして腕時計である。
パッと見は平べったい、レザーベルトの腕時計なんだけど、125万円だ。「安すぎる」って藤ノ宮弁護士は渋い顔をしていたけど、俺からしたら信じられないよ。100万円の札束を腕に巻いてるようなもんだぞ?
そんなこんなで美容院にも放り込まれ、靴も新調し、全身で300万円くらい掛かっているわけだ。俺が今、誘拐されたら中身だけ捨てられそう。
「変わらないな……当たり前か。1年経ってないもんな」
エレベーターを降りて、その会社のエントランスに入る。受付カウンターには誰もおらず、社内の各部署に通じる内線が置かれてあるだけだ。
いつもなら観葉植物があるはずなのに見当たらなく、ただでさえ殺風景な受付がよりいっそう殺風景に感じられた。
カウンターの上、壁面に掲げられた社名ロゴは——「アドフロスト」。
俺は、また、ここに戻ってきたのだ。
しばらくして藤ノ宮弁護士が奥から出てきた。
「おはよう、
俺の姿は一応及第点だったようだ。
「あらかたまとまりそうだよ」
「え、もう?」
「角田社長がうなずいてしまえば、他の役員がなにを言っても無駄だよ、無駄。大体、親会社の広電堂がオッケー出してるんだから。手続きはまだ時間が掛かるけど、この調子でいけば来月にはアドフロストの株式の100%を月野さんが持つことになる」
その最終的な見積もり額は10億円じゃなかった。
11億2870万円だった。
(これが……俺の買ったものか)
「アドフロスト」のロゴを横目に見つつ、俺は藤ノ宮弁護士に連れられて奥へと向かう。
彼は今日も今日とて高そうなスーツを着ていたが、俺よりも高いんだろうか。この人は全身いくらなんだ……。
この先には来客用の会議室と、役員会議室があるはずだが、藤ノ宮弁護士は迷うことなく役員会議室へと向かう。
新宿の高層ビルの、南東側角に設置された見晴らしのいい会議室だ。俺が社員時代にここに入ったことは1回しかない……そう、退職を迫られたときだ。
役員会議室の中には数人の気配があった。
「ああ、月野さん」
ドアノブに手を掛けたところで藤ノ宮弁護士は止まった。
「ちなみにまだ、月野さんのことは彼らに話してないから」
「……は?」
「サプライズってヤツだよ、サプライズ」
ばちこーん、とウインクして見せた藤ノ宮弁護士は、俺が「ちょっと」とか言う間もなく役員会議室のドアを開いた。
「お待たせしました。今回の買収主である『Conquer Dungeons Company』の代表をお連れしました」
ガタッ、という音とともに会議室に座っていた10人ほどの人たちが立ち上がる。
アドフロストの役員たちに、経理の人、それに——一番奥に角田社長。
「……ど、どうも」
めちゃくちゃばつが悪い。
俺が会議室内に入ると、「うっ」とか「はっ」とか短い発声がいくつか聞こえ、その後は異様な沈黙になった。
驚きに、どうしていいかわからないという感じで。
金村取締役なんて俺を指差して、唇が震えてる。
「皆様にはおなじみの方かもしれませんね」
この場でただひとり、愉悦にニッコニコなのは小太りな弁護士である。
「月野宏代表です。かつて御社の社員であり、責任を取らされて辞めさせられた月野様は、それでもアドフロストという会社が清算されるのをよしとせず、こうして買収に名乗りを上げてくださいました」
言わんでいいことを、この人は言った。