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古巣の今

 彼女と最後に会ったのは、俺が初めて第4層に到達した日だ。

 あれから1か月。

 俺は疑問に思いながら、彼女を居間に通す。


(あ〜〜、どうすんだよ、こういうときって。事情を聞いたほうがいいのか? でもなぁ、「彼氏にフラれた」とか言われても困るしなぁ。仕事が修羅場とか? いや、修羅場なら俺んとこなんて来ないよな。実家がなんか大変とか? なおさら俺んとこ来ないわな)


 コーヒー豆を電動ミルで挽いて、ペーパーフィルターに置いてからお湯を注ぐ。

 立ち上る香ばしくも豊かな香りに俺の鼻が幸せになる。

 ああ、会社辞めてから鼻がよくなった気がするぜ……アドフロスト時代は鼻どころか息まで詰まってたからなぁ。

 かといって魔結晶のニオイはわからんけどな。


「お待たせ」

「ありがとうございます……」


 あまり使ってない、キレイなマグカップに淹れたコーヒーを、松本さんは大事そうに両手で持って飲んだ。

 前回のことがあったので新たに買ったマグカップである。


「あ、ごめん。ミルク出すね」

「……いえ、大丈夫です。最近はブラックばっかりだったので……すごく、美味しいです」

「————」


 口に合ったようならよかった——なんて言葉も出てこなかった。

 松本さんの目からぽろぽろと涙がこぼれだしたのだから。


「美味しいです、とても。なんか、あれっ、ごめんなさい……涙が、出てきちゃって……」


 俺はどうしていいのかわからず、テーブルに置かれてあったティッシュ箱を差し出した。

 こういうときスマートにハンカチを差し出せる人間だったら俺の人生、もうちょっとマシだったかもしれない。

 それからしばらく目元を拭ったりしていた松本さんだったけれど、トイレを借りたいということだったのでそっちに案内し——彼女が戻ってきたころには俺のコーヒーは半分ほど減って、湯気も立たなくなっていた。


「……ほんとうに、すみません。月野さんの前で、こんな……」

「いや、いいよ。ていうかどうしたの……? あ、その、言いたくなければいいけど……」


 松本さんの憔悴振りはハンパなかった。

 さすがにそれを放っておけるほど俺の性根も曲がっちゃいない。

 すると松本さんはしばらく言うべきか言うまいか逡巡したのか、あるいはどう話をしたら伝わるのかを迷うようにしてから口を開いた。


「実は、会社が……」


 そこからは、俺はただうなずくだけのマシンとなった。

 会社、つまり俺の古巣のアドフロストは「大変な状態」——それはだいぶオブラートに包んだ状態で、正確に言うならば「残酷なまでの無法地帯」になっているのだという。

 発端は、俺が辞めるきっかけにもなったサンガノコーポだった。

 あの会社は莫大な年間予算をちらつかせながらアドフロストを振り回した。

 その間、一銭も支払っていないらしい。

 しかしなんとしてでもサンガノコーポの案件を獲得したかった金村取締役は——つまり俺をクビにした張本人は、すべてがサンガノコーポの言いなりで、無償で企画提案、制作物のデザインを進めた。

 もちろん、その後に「案件獲得」があるからがんばるというのはわかるが、問題は——他の案件を蹴ってでもサンガノコーポを優先しろと命令が下ったことだ。

 多くの人員が駆り出され、結果として他の案件が滞って売上は下がる。

 その場しのぎで受注金額を上乗せするために、営業が安い案件を取ってくる。

 松本さんたち制作現場は休日返上で対応するが、その残業代はまったく出なかったという。

 金村取締役が言うには——「今までより売上が下がっているのにどうして残業代が出る?」ということで。


「むちゃくちゃだな……。うちの部長はどうしてる?」


 かつての俺の上司、今も松本さんの上司である制作部長は、残業をまったくしない人だった。創業メンバーとは言っても日和見で取締役に文句なんて言わない人ではあったけど、営業部長とは仲が良かったはずだ。


「……制作部長は退職されました」

「辞めた……?」

「なんでも、前から挑戦したかった分野からヘッドハントがあったとかで……」

「…………」


 俺は思わず天を仰いだ。

 ヘッドハント、じゃない。

 逃げた(・・・)のだ。

 部下を放り出して、逃げたのだ。


「それに、広電堂がウチと競合するネット広告のサービスを始めるようになったんです」

「え」


 アドフロストは大手広告代理店の広電堂の子会社で、ネット広告サービスを任されていた。大型のクライアントにアプローチできたのは親会社の影響が大きい。

 だけど、いくら大手とはいえネット広告を直接手がけないなんてことは、今の時代あり得ないわけで——いつか競合するだろうとは思っていた。


(最悪のタイミングかよ)


 広電堂が新規で部署を立ち上げるよりはアドフロストを吸収するとかのほうが楽なはずなのに、がっつり競合させてきたらしい。

 こうなると、新規のクライアントも紹介してもらえないし、同じ案件の取り合いになったらウチに勝てる見込みはない。


「それじゃ……他の人はどうしてる?」


 俺は他に思いついた人たちを挙げていった。

 それなりに古く、俺と親交はなかったけど営業に話を通せそうな人たちだ。

 だけど松本さんは首を横に振った。


「辞めました。全員」


 さらには俺がいた制作進行チームは松本さんを残して全員辞めてしまったようだ。


「人事は!? 残業代を払わないとか、そんなの人事が許さないでしょ」

「ほとんど辞めて、親会社の管理下に置かれることになりました……」

「ウソでしょ。なんでこんな急に」


 前に松本さんに会ってから1か月ちょっとしか経ってない。

 あのときは、疲れてるなっていう感じはしたけど、そこまでじゃなかったはずだ。


「……前からぽつぽつ辞めていく動きはあったんですけど、競合のW社やA社が採用を強化していて……」

「そっちに引き抜かれたのか」

「はい……」


 大体状況はわかった。

 わかってもしょうがないってくらいクソだってこともよくわかった。

golgo31さんにレビューをいただきました。ありがとうございます!

レビューを見ていて思い出しました。

ちなみにとある出版社の編集氏に本作を読ませたところ、


「これ主人公三上さん本人ですか?」


と言われたんですね。オッサン=三上という設定を頭から削除してください。たとえそれが事実であったとしても……!

30歳主人公で「おっさん」を名乗ったらあかんのです。私がほんとうのおっさんを見せてあげましょう(CV:山岡士郎)。

あと「40歳のオッサン主人公? 若返りもしない? うーん……うちからは出せないね!」と言われましたので、もし本作に興味をお持ちの編集様がおられましたら是非オファーください。出版予定も、イラストがつく予定も今のところまったくありません。


まあ、ここで連載を始めるときはいつもそうなのですが!

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