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コーヒーブレイク

 コーヒーの豆を挽いてドリップする。

 会社員時代には絶対にやらなかったような贅沢だ——ただしこの場合の「贅沢」は金銭的な意味ではなくて時間的な意味だ。

 会社員時代を振り返ると、家に帰りつくのは日付をまたごうかという時間、発泡酒かスト●ングゼロを呑んで死んだように眠る。朝はギリギリまで眠って、最低限の身支度を整えてから弾丸のように飛び出す(ただし目は半分しか開いていない)。

 コーヒーの豆なんて買ったこともなかった。

 だけど今は、自分で豆を挽くことで立ち上る、かぐわしいコーヒーの豊かな香りを知ってしまった。


(もう、前の生活には戻れないよな……)


 コーヒーは豆の状態で保存するのと、挽いたあとの粉で保存するのとは劣化の進み具合が全然違う。挽いてしまうと表面積が大きくなるので酸化が進むのである。


(電動ミルじゃなく手動で豆を挽いてみようかな……待てよ。手挽きのミルならダンジョン内でも挽きたてのコーヒーが飲めるのでは……?)


 そんなアホなことを考えながら、不ぞろいのマグカップふたつ——片方はアドフロストのノベルティグッズだったが、他にマグカップがないので仕方ない——にコーヒーを注いで居間へと戻った。


「はい、松本さんはコーヒー、ミルクだけ入れるよね、確か?」

「あ、す、すみません。ありがとうございます」


 見た目は悪いけど紙パックの牛乳を差し出すと、松本さんはマグカップに結構たっぷり注いだ。


「……いい香りです。月野さんにコーヒーの趣味があるなんて知りませんでした」


 ゆっくりと、カフェオレに近いものを飲んでいる松本さんを見つつ、俺も自分のコーヒーを飲んだ。アドフロストマグカップであるという点を除けば大変美味しい。

 トラジャカロシは最近気に入りの品種だった。豊かな香りがあり、後口もすっきり。

 徹夜の身体に染みるわぁ……。


「コーヒーは最近始めたんですよ。ほら、俺もヒマだから……」


 言葉を口にした途端、やたら自虐的な響きがして、自己嫌悪に陥った。ほら見ろ、松本さんがめっちゃ困ったような顔——なんなら泣きそうである。

 よくよく考えれば、田舎に引っ越して、軽トラから出てきた俺がぼろぼろのツナギを着ていたら「落ちぶれちゃって……!」と思われるよな。徹夜明けで目も死んでるし。


「あ、あのね、松本さん、一応言っておくけど毎日楽しいから。畑もあるし。ひとりで生きていくには十分というか」


 やべえ、言えば言うほど「強がってる」感が出てしまう。


「……わたし、どうしても謝りたくて。ずっと月野さんがどこにいるかを探してたんです」


 俺が自己嫌悪を深めていると、松本さんは両手を膝の上で握りしめて、うつむいた。


「人事に聞いても『個人情報だから教えられない』の一点張りで……古株の山口さんとか日浦さんは、『最寄りの駅なら知ってるけど』って感じで。もう辞めていった大河原さんにfac●bookで連絡を取ったら、ようやく、中野区の住所を教えていただいて」


 ああ、それはここに引っ越す前の住所だ。


「そうしたら引っ越しされていて……」

「い、いや、そうなんだよね。会社を辞める直前にこっちに引っ越してて」

「私が行ったときにたまたま中野のアパートに大家さんがいらしてて、そこで引っ越しの話をうかがいました。それで、こちらの住所を……すみません、『会社からの重要な書類を渡す』というウソをとっさに吐いてしまいました」

「えっ、松本さん、そんなことできるの? 意外だなぁ」

「……意外ですか?」

「悪い意味じゃないんだけど。気に障ったらごめん」

「全然! こちらこそずっと謝りたかっただけですから——ほんとうにすみませんでした」


 両手をテーブルについて改めて頭を下げる松本さん。

 そして——、


「……えっと、なにが?」


 まったく意味がわからない俺がいた。


「あの……なにが、とは」

「いや、なにに謝ってるのかわからないんだけど……」

「それは! サンガノコーポの件で、わたしをかばって月野さんが辞職したことです。あれはわたしのミスなのに」

「えぇ? それは別に、松本さんが謝ることじゃないでしょ。むしろ営業の木村が謝ってくれるならまだしも」


 営業が先を急ぎ過ぎて、お客さんの要望をしっかりヒアリングできなかったのだ。

 あるいはできていたかもしれないけれど、制作現場にそれを伝えなかった。

 さらにはできあがったものに、最終的な「Go」を出したのも営業だ。


「俺も本部長やら営業部長やら出てきて、あれよあれよという間に外堀を埋められて、そんなら辞めてやるわ! ってなっちゃってさ」

「だったら、担当のわたしが辞めるべきで——」

「いやいや、なんのための上司かって話だから、部下の失敗に責任を取って俺が辞めるのは筋が通ってる。俺だってサンガノコーポの件で、ちゃんと見てなかったんだから責任はあるわけだし」

「でも……」


 松本さんは、それでも納得できないみたいだった。

 まあ、そうかもしれないな。

 自分の代わりに、(転職先もなさそうな)上司が辞めたんだし。さらには独身で、気づけば東京から神奈川の田舎に引っ越してるような男だし。

 いや、伊勢原すばらしいぞ。自然は多いし、国道(246)も東名も通ってるし。鶴巻温泉もウチから近いし。射撃場まである。


「とりあえず、松本さんは俺に謝りたかったんだよね」

「はい……」

「謝っていただきました。ありがとうございます」

「いえ、そんな」


 ふたりでぺこぺこと頭を下げてから、


「それじゃ、それについては終わりでいいんじゃないかな」

「でも!」

「いやほんと。『謝りたい』は叶えられたわけでしょ? それならもう終わりでいいし、たとえば松本さんが辞職して俺が復帰したりすれば満足するかもしれないけど、現実的にそれはない」

「な、ないんですか? 月野さん、アドフロストに10年もいたじゃないですか。愛着はないんですか」

「ないよ」

「えっ……」

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