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ダンジョンを所有していようと、現実はままならない

「おはようございます。——あれ、月野さん、もう出社してたんですか? 早いですね」

「あ、ああ……ちょっと目が覚めちゃって」

「ありますよね、そういうとき。わたしは大体二度寝しちゃうんですけど」


 そう言って同じチームの松本さん——松本恋佳さんはころころと笑った。

 新宿に本社を持つネット系広告代理店「アドフロスト」の業務フロアは、朝9時半という時間では閑散としている。

 10時に近づくと人が増えていき、10時半にはほとんど全員出社している状態にはなる。

 そうするとデスクの内線があちこちで、ひっきりなしにコール音を立てる。

 忙しい一日の始まりだ。


「…………」


 いつもなら内線が掛かってくるだけでなく、こっちからも掛ける用事が多いのだけど——俺は会社のパソコンでネットサーフィンをしていた。

 調べ物だ。

 そりゃまあ、もちろん、ダンジョン関係の。


「……朝起きても、消えてなかったんだよな……」


 裏庭の茂みは昨日のままで、覆い被さるようにして生え、そして朽ちていた雑草の向こうにはぽっかりと空いた階段があったのだ。


「なにが消えてなかったんですか?」

「!?」


 ぎょっとして振り返ると松本さんがいる。

 セミロングを茶色に染めた髪はふわりと肩に掛かっていて、最近めっきり寒くなったせいだろうニットのセーターは彼女にぴたりと合っている。

 薄ピンクのセーターで胸のふくらみがはっきりわかるとかエロ過ぎないか?

 スカートよりもジーンズが多い彼女は(「だって他のフロア行くのにパンツのほうが楽じゃないですか。わたしたち、歩いてなんぼみたいなところありますし」ということだ)、今日もスキニータイプのジーンズで、長い足がすらりとしている。

 どこかの大卒のキャリアウーマンにしか見えないんだけど、元は専門学校を出てデザイナーとしてウチに入社しているんだから、わからないよな。


「あー、いや、その、ええと……二日酔いが」

「二日酔い?」


 ぽん、と松本さんは手を叩いた。


「だから早く起きたってことですか〜。なーんだ」

「そうなんだよ、はは……」


 ウインドウズキーとLを同時に押して画面をさりげなくロックした。


「…………」


 ほう? わたしに見せたくない画面でもあるんですか? という感じで松本さんは目を細める。怖い。俺より一回り以上若い26歳だというのに、彼女を前にすると俺はタジタジだ。


「月野さん、もしかして今見てたのって——」

「恋佳ちゃん、ここにいたのか!」


 オフィスを向こうから歩いてくるのは営業部の木村だった。

 身体は大きく、髪は短くして整髪料多め、ごつい腕時計をしているスーツマン——なんていうわかりやすい営業マンである。

 同じスーツでも、ノーネクタイで少々くたびれたスーツを着回している俺とは違う。

 木村は31歳ながら営業4チームのリーダーを任されており、8人の若手を引っ張っている。そこもまた俺とは違う。俺は、松本さんともうふたりをまとめている制作進行チーム内の月野チーフだから。リーダーのひとつ下の階級である。


「……木村さん、なんですか?」


 表情を消し、声まで平坦になって松本さんが問いかけると、木村は人なつっこい笑顔を浮かべて、


「内線でもよかったんだけどさ、直接話したほうが早いかなって」

「修正に関するご指示でしたらSlickでいただいたほうが履歴が残っていいのですが」

「そんなぁ〜。ちょっとニュアンスが難しい修正なんだよ。ほら、NKBB社の新企画のさ〜」


 松本さんは俺からひとつ離れた席に座り(ちなみに間にある席はテスト用の外部回線が引かれてあるPCだ)、木村から話を聞く。

 木村の話はものの15秒で終わる、簡単なものだった。

 知ってた。

 こいつは松本さんと話したいがためだけに来てるだけだし。

 ちなみにSlickとは業務用のソフトウェアで、プロジェクトの進捗とかをまとめたり、メッセージでやりとりして履歴を残すこともできる。

 雑談用のチャンネルまであるぞ。


(でも今はありがたいな)


 松本さんの注意が逸れた隙に、俺はダンジョンについてもう一度調べる。

 自分に縁などないと思っていたダンジョン。

 なぜって、ダンジョンにはモンスター、あるいは魔獣とかいう化け物が出現する。

 こいつは魔結晶となにも関係なく、ただダンジョンに侵入した人間を襲う。

 怪力のゴーレム、狡猾なゴブリン、悪意の塊みたいなフェアリィ……古いファンタジー小説に出てきそうなものは大抵出現するらしい。

 日本のダンジョンにはカッパとか天狗とか出るみたいで、国によって違うってどういうこと? と思ってしまうがそのあたりのメカニズムは解明されていない。


(10年前のダンジョン出現時、俺はもう30歳だった……)


 地元で市役所の契約職員として働いてた俺は、28歳のころアドフロストでバリバリやっていた大学の友人に誘われた。


 ——月野、お前ももうちょっとまともな稼ぎがねえと、この先結婚もできないぞ。


 いや、まあ、結婚もクソも相手がいなかったんですが?

 と思いつつ、金が欲しかったのは事実だし、契約職員でずっと生きていくのは茨の道——月給18万9千円だった——ので、未経験でも21万円くれるというアドフロストに転職したのだった。


(これが地獄の始まりだとは、当時の月野宏は知らなかったのである……ってな)


 小さいネット系広告代理店とか、薄給ですりつぶすように人間を働かせてかすかな利益を上げるような会社である。俺の私見だけどな。

 アドフロストに転職して2年は、馬車馬のように働いた。会社で働くことに慣れたころにダンジョンが出現したけど、ようやく慣れてきたポジションを捨てたくなくて、ダンジョン関係の情報には耳を塞いでたっけ。

 あんなふうに働けたのは、残業代が出たからだな。実働の半分未満ではあったけど。

 金って大事。

 金だよ。人生は。


(俺の手には今ダンジョンがあるんだぜ!)


 むふー、と鼻息荒く伸びをすると、


「へえ、月野さん、ご機嫌じゃないっすか」


 毎日塩対応を食らってもなおやってくる鋼メンタルの木村が俺に声を掛ける。俺のほうが9つも年上なので、社内の役職では木村のほうが上でも、こうして丁寧語を使うくらいの常識はある。

 さすがに松本さんとは間が持たないのかな? さっさと自席に戻ればいいのに。


「なんかいいことあったんすか? ——宝くじが当たったとか?」


 どきり、とした。


「ま、そんなわけないっすよね! 俺だったらとっくに辞めるし。月野さんも変わり映えのしないスーツ着てるし」


 スーツのことは余計なお世話なんだが?


「見てくださいよ、このスーツ。オーダーメイドで仕立てたもんだから着心地もよくて、遠目で見ても布地の良さがわかるんすよね〜。やっぱ男の戦闘服はスーツだから、これくらい着なきゃ」


 ぴきぴきと額に青筋が立ちそうになるが、もちろんそれくらいで怒ったりはしない。

 営業とトラブっていいことなんてひとつもないのだ。

 営業とトラブった制作サイドの人間はみんな辞めていった。俺知ってる。

 ちなみに言うと木村は「トラブっちゃいけない営業ランキング」の堂々1位だ。なぜかというと木村の叔父が、アドフロストの株式を100%握っている親会社、広告代理店大手「広電堂」の専務取締役だからだ。


「おっと、これから打ち合わせがあったんだった。じゃ、松本さん。NKBB社の件よろしく!」

「……はい」


 せかせかと急ぎ足で木村は去って行った。

 急ぐならスーツの自慢なんてしなきゃいいのにね?


「で、NKBB社の件ってなにか問題あったの?」


 俺が聞くと、松本さんはデスクに手を突いて「ふぁ〜〜〜」と長く息を吐いた。


「全ッ然! たいした問題じゃないんですよ。イベントページとか仕様の話かと思ったら、バナーのテキストを変えるだけですよ? Slickに書けば15分後には修正されたバナーが上がってくるのに!」


 オフィスに掲げられた時計を見やる。


「無駄話で15分経ちました。もう、ほんとに無駄です」

「はは、は……」

「あと、本気で下の名前で呼ばないで欲しいです」


 木村のヤツ、どうしてこんなに嫌われているのに来るんだろうか。あと松本さんを怒らせるのは止めて欲しい。俺も怖い。


「……月野さん」

「はい」


 心持ち背筋が伸びる。


「わたし、月野さんのスーツスタイル嫌いじゃないですよ。変に尖った私服とか、見せびらかすようなブランドスーツよりもずっといいと思います」

「あ……ありがとう、気を遣ってくれて」

「気遣いとかじゃ……」

「大丈夫だよ、気にしてないし。それよりNKBB社の修正、進めちゃいな。このまま話したら忘れちゃうんじゃない? 忘れたら……怖いオオカミがまた来る」


 少し冗談めかして言うと、松本さんはにっこりして、


「そうですね」


 と言ってパソコン画面に向かった。

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