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note4 戸締まりはきちんとしましょう

「潤くーん、美和たんなんだか甘いもの食べたーい。あま〜いキッスかお菓子をくれい!」

「潤君! 働きたくない病にかかった美和たんを養ってー!」

「潤君、暇だから髪もふもふしていい?」


 朝から晩まで潤君潤君と、甘ったるい声で叫び続ける所長に、嫌気がさすことだってある。

 思えば、小学生の時に出会って以来ずっと、この人はこんな感じだった。


 45歳という年齢なんか少しも感じさせない20代のような外見と、5歳児そのものの中身。ちぐはぐでアンバランスで、謎が多い手のかかる上司。僕にとって藤野美和という人は、ずっとそういう存在だ。

 勿論、豊富な人生経験やコミュニケーション能力など、頼りになるところも多々ある。だがそんな一面が霞むくらい、普段がダメ人間すぎるのだ。お菓子を食べる、寝る、TVを観る、雑誌でイケメンを探す。行動パターンがこれくらいしかない。


 ……まあ、そんな人でも早死にされたら困るので、今日はヘルシーな寒天ゼリーをおやつとして提供しようと決心し、台所に引っ込もうと一歩足を踏み出したその時、浪川と速水君が同時に叫ぶ声が聞こえた。


「所長!」


 振り返った瞬間目に飛び込んできたのは、腰掛けていたソファから崩れるように倒れ込む所長の姿だった。白い床に所長の長い黒髪がかかる。落ちた表紙に脱げたヒールが、いやに大きな音を立てて机の下を滑る。ほんの数秒であるはずのその瞬間が、異様に長く感じた。

 そして、一拍遅れて僕も叫んだ。


「所長!」

 僕の声にかすかに反応した所長は、床に頬をくっつけたまま、力なく微笑んでみせた。




「いやー、驚かしちゃってメンゴ」

 若干加齢臭漂うワードでへらへら笑いながら謝罪したので、軽いデコピンで制裁を加えた。あうぅ、と奇妙な鳴き声を発し、所長は再び布団に倒れ込んだ。


 場面転換、ここは所長が住み着いている畳敷きの給湯室である。

 あの時僕たちは、突然電池が切れたように倒れ込んだ所長を囲んで、病院だの布団を敷くだのと大騒ぎした。そして、二児の父として僕と速水君よりかは看護経験の豊富な浪川が、容体を観察し「熱があるみたいだからとりあえず奥に寝かそう」と提案。速水君が布団を出し、僕が所長を背負って運搬。なんとか寝かすことに成功し、現在に至るというわけだ。


 そして、所長の脇に挟まれた体温計が、無機質な鳴き声を上げる。僕と所長は気心が知れすぎて恥じらいもへったくれもない仲なので、躊躇なくシャツに手を突っ込んで体温計を引き抜いた。速水君がドン引きしていた。


「39度もあるじゃないですか!」

「わーお」

「わーおじゃねえ! 体調悪いなら早く言え!」

「六木君六木君、一応病人だから……」


 所長の両頬をこねくり回すように引っ張ったので、流石に浪川に止められた。

「もしかして、今朝から具合悪かったんじゃないですか? それなのにお菓子食べたいだの言って元気なふりして……」

「だって、潤君の手作りおやつ、美味しいから毎日でも食べたいんだもん」

「言ってる場合か!」

「まあまあ……」


 所長にはほとほと呆れ果てた。馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、自分の不調も言い出さない馬鹿だったとは。アンタもういい年なんだ。中年なんだ。元々体も強くないのに、自分の年齢も考慮せず体調不良を黙っているなんて、僕には信じられなかった。そして、そうした所長の変化に気づけなかった自分に、腹が立って仕方がなかった。


「六木君、心配なのはわかるけど落ち着いて。所長はみんなを心配させたくなかったんだよ。今は、早く治すことだけを考えよう。速水君、氷枕とか飲み物とか、色々買いに行くからついてきてくれる?」

 そして何より腹が立つのは、浪川に諭される子供のような自分。

 頭を冷やそう。

「……僕も行くよ」


 絞ったタオルと着替えのパジャマを用意して、余力があれば僕たちが帰るまでに着替えておくように所長に言い残して、事務所を出た。

 近所のドラッグストアを目指してとぼとぼと歩く男3人。速水君はぼうっと口を開けて、何を考えているのかわからない表情を浮かべている。浪川はいつも通り、軽薄な薄ら笑い。そして僕は、その浪川に言わせれば「この世の終わりみたいな顔してるよ」だそうだ。


「……六木君と所長は長い付き合いなんだよね? そんなに心配するってことは、ああいうことは昔よくあったの?」

「いや、今日みたいな重い風邪は初めてだな。でもあの人、握力がちょっと弱かったり、あまり体力がなかったり、どうしてかはわからないけれど、人より不自由なところがあって……だから、あんなところで一人で暮らしていると、僕も過剰に心配しすぎてしまう」


 だらしなくてイケメンに目がなくて面倒くさがりでも、まだ僕がランドセルを背負っていた頃から、探偵の世界を見せてくれた恩人だ。なるべく元気に、少しでも長くこの探偵社の所長としてい続けてもらいたい。

「ま、年増っつっても80のババアじゃあるまいし、あの人ならなんやかんや世界の終わりでも生き延びますよ。だいたい、六木先輩は所長に甘すぎるんですよ」

「そうそう。過保護すぎるところがあるよ。ただの風邪くらいで取り乱してちゃ、所長の保護者は務まらないよ。さ、買い出し買い出し」


 肩をぽんと叩かれた。僕は保護者枠だったのか。

 でもこういうとき、こいつらのゆるさがありがたく思える。

 おかゆでも、作るか………


 再び、場面転換。買い物を一通り終えて、ビルの階段に3人分の靴音を響かせながら事務所を目指す。

「所長にお粥つくるついでに僕たち3人で鍋パーティーとかどう?」

 なんていう提案が浪川から上がったので、生返事で同意しながら事務所に入り、給湯室の襖を開けた。


「所長、戻りまし—————」

 言いかけたところで、言葉と時間が同時に止まった。僕も浪川も速水君も、3人が3人とも凍りついた。

 病状が悪化したのか、仰向けに寝て荒い呼吸をし、苦しそうな様子の所長。その傍に、見知らぬ男があぐらをかいていたからだ。


 黒字に白いストライプが入った、洒落臭いスーツに身を包み、これまた洒落臭いハットなんぞを被った、黒髪の男。歳のころは30代半ばくらいに見える。大きな三白眼をきょろきょろ動かして僕たち3人を観察し、ふっと不敵な笑みを浮かべた。


「やあ、初めましてだね。美和ちゃんの部下トリオくんたち」

 弦で弾いて奏でるような、繊細な響きの声を口から吐き出す謎の男。僕たちの手にある買い物袋を、何でもない顔で取り上げて、所長のところに持っていく。


「いやあ、美和ちゃんが倒れたからいてもたってもいられなくて、思わず現れちゃったよ。ほら美和ちゃん、部下クンたちが何か買ってきてくれたみたいだけど、何か飲む?」

「じゃあ、水………」

「ん」


 所長はこの男の存在に全く違和感を覚えていないのか、何事もないように受け答えする。

 所長は顔の広い人だ。町を歩けば知り合いだらけで、美和ちゃん美和ちゃんとみんなが話しかけてくる。だから親しげな態度自体に違和感はないが、なんとなく、二人の間の空気感が、近所のおじさんとはまた違うもののように感じた。


 謎の男は、勝手知ったるように迷いのない足取りで室内を闊歩し、買い物袋の中身を冷蔵庫に詰め込んだ後、冷却シートと水を所長に差し出した。まるで、何度も来たことがあるかのように。

「………えっと、あの、あなた誰ですか」

 絞り出すように発した僕のその言葉に、男はにっかり歯を見せて笑って、待ってましたとばかりに答えた。


「俺? 俺は———美和ちゃんの彼氏兼恋人兼ボーイフレンド兼婚約者だよ」

 ………驚きを隠せず、沈黙タイムに突入。

 所長は45歳だが、結婚歴や恋人の噂などは聞いたことがない。休みの日はいつも一人でぼんやり過ごしていて、今までそんなものは影も形も匂わせてこなかったのだ。

 めんくらって二の句が出ない僕たちに、自称婚約者は「こういう者でーす」と、指先でつまんだ名刺を見せつける。


『代永探偵事務所 代表 代永司(よながつかさ)


 裏面を見ると、簡易的な事務所周辺の地図と、受け付ける依頼内容が細かく記載されている。うちとほぼ同じ仕事内容だ。


「同業者の方、ですか」

「そういうこと。そのうち美和ちゃんの苗字も代永になるから覚えておいてね。よろしく」

 なってたまるか。


 握力の弱い、こちらを軽くナメていることが丸わかりの握手をされたところで、それまで寝ていた所長がむくりと体を起こした。

「さっきから、黙って聞いてれば……勝手なこと……言って……誰が婚約者だよ」

「そんな! 俺と美和ちゃんの仲じゃないか! もう20年近い付き合いになるんだし、お互いもう45じゃん! 人生も折り返し地点なんだから、短い余生を共に過ごそうよ!」

「うるさ………ハヤミン……私の代わりに、こいつシメといて」

「うぃっす」


 そんな軽い返事をして、速水君は躊躇なく初対面の中年男に絞め技をかけた。

「痛い痛い痛い痛い!!!!」

 さすが元ヤン、暴力に一切の躊躇がない。やがて代永さんと名乗る男が畳を叩いてギブの意思表示をしたので、体感数十秒で解放されたが、それがなければキン肉バスターくらいはかけていただろう。


「はあ……はあ……ひどいじゃないか速水翔君、もう少し年長者を敬ってよ」

「あん? 何でお前、俺の名前知ってんだよ」

 所長は人に適当なあだ名をつけて呼ぶくせがある。この男の前ではハヤミンとしか呼称していないはずだが、なぜ推測しやすい苗字だけでなくフルネームまで知っている?


「おじさんは何でも知ってるよ。速水翔君、群馬県出身。5人の姉と両親祖父母の10人家族。実家は温泉旅館すず屋。そっちのニヤケ面君は浪川大輔君だね。年齢不詳、17歳と3歳の娘がいて、奥さんは出版社に勤める編集者だ」

 ………合っている。


「で、そこの天パ君が六木潤君だね。君は有名人だからはじめから知ってるよ。いやあ、お目にかかれて光栄だなあ。君のような日本一の御曹司———」

「やめろ。黙れ」

 それ以上、僕の中に土足で踏み込むな。


 持ち得る全ての怒りをこめて睨みつけると、代永さんは「最近の若者はおっかないね」と、茶化すように肩をすくめる。そして、いやらしく所長の手に自分の手を重ねながら、またペラペラとお喋りを重ねた。

「ごめんごめん、怒らせるつもりはなかったんだ。ただ、いつも一方的に会話を聞くだけだったから、つい嬉しくってお喋りが過ぎただけだよ」

「一方的に……?」


 すると所長が空咳を交えながら、いつもより小さな声で呟く。

「司……あんたまた、うちに……勝手に……侵入したでしょ……」

 侵入?


「侵入ってひどいな! 愛する美和ちゃんを見守ろうと忍びに徹していただけなのに!」

「ええと、つまりどういうことですか?」

「要するに、司は……押入とか掃除用ロッカーとか……事務所の色んなところに侵入して聞き耳を立てる、私のストーカーなんだよ」

「ストーカーなんてひどいよ! たまに侵入せず盗聴器使ったりもしてるよ!」

「……………」


 侵入、ストーカー、盗聴器。どれも僕たちが日頃から仕事で耳にする、犯罪ワードだ。

 ストーカーの身元を調査して、盗聴器を発見する仕事である探偵が、女性の部屋に侵入して聞き耳を立てているストーカー……?

 あ、頭いてえ〜………




 言いたいことも聞きたいことも山ほどあったが、これ以上騒ぎ立てて所長の容体を悪化させてはいけないと、おかゆを作り置きして所長に差し出し、僕たちは全員で給湯室を出た。

 浪川の提案通り、本来は来客対応用の事務所のテーブルで鍋パーティーを開始。ストーカーを含めたむさくるしい男4人で、残暑厳しい夏の終わりに熱々の鍋を囲む。なんて地獄だ。この世に神などいない。


「あーごめん六木君、俺ネギ苦手なんだよね」

「中年なんだから好き嫌いしないでください。でも、所長とどういう関係なのか、何が目的なのか一切合切吐くんだったら、よけてもいいですよ」

「君も過保護だねえ。絶対マザコンだろ」


 無視して、豚肉投入。僕が安い挑発に乗らないことを確認したのか、観念したとでも言うように、大袈裟なため息をついた代永さん。洗いざらい話し始めた。


「俺と美和ちゃんは、さっきも言ったけど20年近くの付き合いでねえ。俺の探偵の師匠的な人に美和ちゃんが弟子入りしたから、まあ俺が兄弟子みたいな? 感じ? 若い頃の美和ちゃんは、今よりちょっとツンツンしててそれはそれは可愛くてね〜。おじさん一目惚れしちゃったんだ。それから20年間、求婚し続けてるよ。現時点では片想いらしいんだけど、そのうち両思いになると思うからよろしくね」

「なるほど、筋金位入りのストーカーなわけですね。えのきどうぞ」

「どうも。でも最近は事務所の移転とか新入社員の入社とか色々あって、こっちも忙しくてさ。それでご挨拶が遅れちゃった感じかな。いやあ、びっくりしたよ。今日もいつものように侵入してたら、美和ちゃんが倒れちゃんだもんね。たまらず出てきちゃった」


「出てきちゃったって……お前、ここ最近のごたごたとかも全部聞いてたってことか?」

「うん、note1からnote3までずっといたよ」

 連載第一回から!? 怖っ!


「代永さん、事務所の移転っていうのは?」

「ああ、それね。俺の経営する会社は、隣町の雑居ビルに入ってたんだけど、そこのビルが地上げされることになっちゃってさ。管理会社から出ていくよう言われちゃったんだよね。だから、移転先を探してバタバタしてたんだけど……先週ようやくこのビルの向かいに決まったから、そのことを美和ちゃんに報告しようと、今日は押入に侵入してたんだ。お肉もう煮えたよ」


 三ヶ島探偵社は学習塾や歯医者などが入る雑居ビルの2階の片隅にあり、道路を挟んだ向かい側には喫茶店がある。その喫茶店のオーナーが、空室となっている2階のテナントを募集していたのはぼんやりと記憶にあるが、まさかそんな目と鼻の先に、同業他社が進出してくるなんて……今まで以上に暇になるかもしれない。


「……あ、六木君今、ライバルにあたる同業他社が目の前に来ちゃ困るなあって思ったでしょ」

「……まあ、少ない顧客を取り合うことになりますからね」

「心配いらないよ。それについては考えてあるから」


 そこまで言って、お茶碗に残っていた白米を口にかき込むと、代永さんは懐から書類の束をひとつ取り出し、食卓の隅に広げてみせた。

 それは、喫茶店の2階にある、代永探偵事務所が移転予定のオフィスの内装だった。リノベーションされているのか、うちより断然綺麗で、広々している。


「ここにデスクをいくつか置いて、このガラスで仕切られた小部屋を面談室にしようと思うんだ。で、ここに事務棚と、ゲームする用のテレビを置くつもり」

 ゲームするんかい。


「……確かに、うちと違ってワンフロア丸々使えるわけですから、広いですね」

「だろ? ここなら8人の社員も広々働けるかなって」

 ……8人?


「代永さんとこ、8人も社員がいるんですか」

 なんだか嫌な予感がして、確かめるようにゆっくりと発音する。

 その嫌な予感が的中していることを、僕は代永さんの笑顔で察してしまった。


「うちは俺含めて4人だよ。三ヶ島探偵社の君たち4人を足して、8人。いい機会だから、合併しようよってさっき美和ちゃんに言ってきたんだ!」

 は?


 目の前が暗くなる。沈黙が場を支配する。鍋がぐつぐつと沸騰する音だけが響く。

 放たれたその言葉を咀嚼して飲み込むまでに、実に数十秒ほどの時間を要した。

 自分でもわかるくらい震えた声を、なんとか絞り出せたのは、その後だった。


「それって、三ヶ島探偵社がなくなるってことですか……?」




【探偵ファイルNo.4】藤野美和

三ヶ島探偵社の所長兼藤野司法書士事務所代表

常にハイテンションでイケメン大好きの脳内5歳児

基本的に事務所からは出ずTVを観ながらゴロゴロしている

【年齢(生年月日)】45歳(11月20日)

【趣味】昼ドラ鑑賞、イケメン観察、甘いもの

【特技】パズル、人の顔と名前を覚えること

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