note2 浮気は絶対にいけません
note2
突然だが、僕の同僚浪川は謎の多い男である。
年齢は頑として教えようとしないし、生年月日の記載された身分証などはトイレにまで携帯するほどの徹底ぶり。自称永遠の27歳であることと、最近老眼が始まったらしいこと、腰に爆弾を抱えていることなどを考慮し、とりあえず僕の中では中年ということにしている。
その他、家族構成や過去の経歴などの一切が謎だ。私服すら見たことがない。探偵というかスパイみたいな奴だ。
浪川は2年前に突然所長が拾ってきた人材だ。その時は僕と所長の二人きりで事務所を運営しており、まだ所長も比較的真面目に働いていたのだが、突如やってきた浪川の有能ぶりを目の当たりにし、堂々とサボるようになった。それを真似た速水君も早々に社内ニート化を決め込み、弊社は現在のこの惨状に至る。
世間ではブラック企業だなんだと騒がしいらしいが、ご覧あれ。ぱったりと依頼の途絶えた弊社は、この陽気な昼下がりに社員総出で事務所で呆けていたのだ。なんとアットホームな職場だろうか。
開いた漫画雑誌をアイマスクがわりに顔に被せて堂々と昼寝を決め込む速水君。恋とか愛とかわけのわからないことをわめく昼ドラを真剣に鑑賞する所長。することがなくて無意味にモップがけなどしてみる僕。
浪川が唯一仕事らしいことをしていた。今月の累計報酬額や必要経費などをPCソフトに黙々と打ち込んでいる。
「イケメンは数字に強い」という所長の謎の偏見で、僕から浪川に引き継がれた経理業務だが、どうやら適役だったらしい。
仕事のできる男ではあるが、ここで疑問がひとつ浮かび上がる。
こんなに何でもこなせて、気持ち悪いくらい顔面が整った高身長美形、おまけに性格も温和となると、女性が放っておくわけがない。事実、仕事の上でも浪川の顔面力に何度か助けられた場面があった。第一話参照。
この男、これだけのスペックを有してなぜ、女性の影を一切匂わせないのだろうか。
「………うん?」
いかん。じっと見過ぎた。ゾッとするほど優雅な微笑みを浮かべた浪川が、あざとく首を傾げてみせている。
僕が返答に詰まったその瞬間、机の上にあった浪川のスマホが振動し、ねっとりとしたメロディを吐き出した。
「もしもし? どうしたの? うん……あ、そうなんだ」
仕事の連絡ではなさそうだ。何だか電話の向こうが騒がしく、普段の浪川とは違う口調である。なんとなく、手持ち無沙汰にしていた所長も振り返って聞き耳を立てている。
「いや、気にしなくていいから、ちゃんとやるんだよ。いいね。じゃあ、すぐ僕が行くから……わかったわかった。今仕事中だから切るね。じゃあね」
浪川はいつも感情のよく見えないうすら笑いを浮かべているが、その電話をしているときはなんだかいつもと違う、熱のこもった微笑みのように見えて、違和感を覚えた。
なんだ、この感じ。
所長もその気配は感じ取っていたようで、TVの音量をやや下げながらにやにやと浪川の方を振り返る。
「ナミー、どうしたの? さては女だな」
「まあ、そんなとこです。すみません、ちょっと抜けさせてもらっていいですか? 女の子を迎えに行ってきます」
女?
おい、起きろ速水君。なんだか面白そうな展開が巻き起こっているぞ。
「いいよ、気にしないで。仕事終わるまで事務所にいてくれていいからね」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
連れてくるのか!?
浪川の彼女……あの顔面力に釣り合う相当な美人なのだろうか。同年代なのか若い子なのか、キレイ系なのかカワイイ系なのか、猫派なのか犬派なのか。色々想像が膨らんで、とても気になる。特に最後とか。犬派の彼女なら浪川のことをこれからちょっと見下して生きようと思う。
だらしなく口を開けてそんなことを考えている僕の横顔を眺めて、所長がそれはそれはいやらしい笑みを浮かべた。
いつも人をからかうときに浮かべる表情である。
かくして20分ほど過ぎた頃、徒歩で出かけた浪川が、例のお客を連れて事務所に帰還した。入り口のドアが開いて、ドアプレートが揺れる。浪川が来客の手をひいているのが見える。そして響き渡るのは、実に無邪気で元気な声。
「ほら優佳、『こんにちは』は?」
「こんにちはー!」
うん、まあ、女の子だし……どちらかと言えば可愛い系で元気系だけども……
「守屋優佳、ひまわり組です! 3歳です!」
うん、よくできました。
「とりあえず、色々言いたいことはあるけども……説明してくれないか」
「え? 説明って何を?」
わざとらしくとぼけてみせる浪川氏。どうしてこんなに人をイラつかせる笑顔が作れるんだろうか。
優佳ちゃんは現在、ようやく昼寝から起きた速水君や所長と一緒に、コピー用紙を使った工作遊びに夢中だ。意外に子煩悩だったんだな、こいつら。
浪川がその様子を横目で眺めながら、何事もなかったかのように会計業務に戻ろうとしていたので、流石に僕が突っ込んだというわけだ。
「ご覧の通り優佳は僕の娘だよ。保育園のお迎えの時間に遅れそうだから、代わりに行ってくれって、家族に頼まれてね」
「娘、いたのか……というか、結婚してたのか」
「いや、妻さんとは2年前に事情あって離婚することになってね。親権は元妻だから娘とは別居中なんだけど、時々保育園のお迎え行ったり週末に預かったりしてるわけ」
「それで苗字が別なのか……」
言われてみれば、納得がいく。浪川は週末、所長に飲みに誘われても滅多に顔を見せなかったし、突然早退けすることもあったので、何か事情があるのだとは思っていたが、まさか子供がいたとは。
よく見ると優佳ちゃん、なかなか父親似なようで、幼児ながらなかなかの美形遺伝子を発動させている。大きな目やサラサラの黒髪なんかそっくりだ。紛れもなく浪川の娘……っぽい。
「まだ小さいからしょっちゅう熱を出したりぐずったりしてね。元妻も働いてるから、比較的融通のきく仕事の僕が迎えに行ったりしてたんだよ」
「そうだったのか……所長はこのこと知ってたんですか?」
すると所長は、コピー用紙をウサギの形に切り取りながら、
「んー……知ってたも何も『うちならイクメンパパも働きやすい職場だよ!暇だよ!』って言ってスカウトしたからね。でも別に言う必要ないかなって思ってたっていうか……正直子持ちなの忘れてたっていうか……わあ! 優佳ちゃんクマさん描くの上手!」
とまあ、このようにすっとぼけてみせる。
……絶対、僕をからかってやろうと黙っていたに違いないけど、まあ、子供の前だし黙っておこう。
「……まあ、知らなかったとはいえ悪かったな。今まで細々した仕事押し付けてしまって。これから何か外せない用があったら、僕にも遠慮なく言ってくれていいから」
「ありがとう。でも、他に協力者もいるから、そんなに大変じゃないよ。もうそろそろ来る頃だろうし……」
協力者? 来る?
また何か隠されている雰囲気だ。どういうことだ? そう口を開きかけた瞬間、入り口のドアが再び勢いよく開いた。
飛び込んできたのは、ブレザーの制服に身を包んだ、細身の女の子。全速力で走ってきたようで、膝に手をついて肩で息をしている。
「お、遅くなってごめんなさい! 妹を迎えに来ました!」
妹?
息を整えて、ちょうど近くに立っていた僕の顔を見上げ、あらわになった彼女の顔は、なんというか、美少女そのものだった。
ふわふわした栗色のショートヘア、細身な上に高身長で抜群のスタイル、そして何より目鼻立ちのはっきりした、常識はずれの美形。恐らく、街ですれ違えば10人が10人とも振り返る。そんなレベルの美少女だ。
この感覚は、初めて浪川の顔面を目の当たりにしたとき感じたものに似ている。常人とはオーラが違いすぎるのだ。
恐る恐る浪川を振り返る。
すると奴はまたいつものうすら笑いを浮かべて、肘をつきながらさらりと言った。
「じゃあ、続けて紹介するね。僕の長女、千晴だよ。優佳のお姉ちゃん。高校2年生」
「父がいつもお世話になってます」
……お前、いったいいくつなんだよ!?
浪川の長女こと千晴さんは『まあまあお茶でも』という所長の言葉を一度断り、二度目に承諾したため、現在来客用ソファに腰掛けて僕の出す飲み物を待っている。
優佳ちゃんはお姉ちゃんにべったりなようで、コピー用紙で作り上げた作品を「ねぇね、見て見て!」と褒めて欲しそうに見せびらかしていた。
たいへん和む光景なのだが、二人分のオレンジジュースを入れながら僕の頭はパニックになっていた。
浪川は自称永遠の27歳。見た目はその通り、二十代後半から30代前半にしか見えない。というか、映画俳優のようにオーラがありすぎて年齢を推測しにくい。だが、それでも17歳の子供がいるようには到底見えない。
移動中の車内BGMの選曲が古過ぎて10代の速水君を置いてけぼりにしていたり、所長と一緒に『ポケベル懐かしいトーク』で盛り上がっていたり、3回に1回はJRを国鉄と呼んだり、まあ違和感を覚えることは今まで何度かあったのだが、ここまで強烈な打撃をくらったのは初めてだ。
正直、同僚が怖い。急に妖怪に見えてきた。身震いしながら、給湯室から事務所に戻る。
「ジュースと、良かったらお菓子もどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「わー! 潤君お手製のパウンドケーキだ! ほんと料理上手いよね〜。ねえねえ美和タンのは!?」
無視した。妖怪は1匹で十分だ。妖怪5歳児脳みそにかまっていたら胃に穴が開く。
そんなはしゃぐ中年を目の当たりにしても、千晴さんは引くこともなく、僕に向かって申し訳なさそうな顔を見せた。
「すみません、妹と遊んでもらった上にこんな……お忙しいのに、ご迷惑をおかけしました」
……本当に忙しかったならどんなによかったか。
「私、いつもは両親に代わって、学校帰りに妹を迎えに行ってるんですけど、今日は提出物が遅れたせいで居残りさせられちゃって。だから父に代わりに……」
「千晴は本当勉強苦手だよね〜お父さんもお母さんもそんなことなかったけどなあ。誰に似たんだか」
「ほっといてよ……」
ちょっとふてくされて頬を膨らませる仕草がまた可愛らしい。ちなみに千晴さんは見た目だけでなく声も可愛らしい。聞く者の内耳が液状化しそうな、甘ったるくて個性的な声をしている。その美少女っぷりは、未成年に興味などない健全嗜好の僕でも、一瞬どきりとさせられるくらいだ。
学校で死ぬほどモテるんだろうなあ、なんてぼんやり思っていると、浪川が一通りの仕事を終わらせたらしく、PCをシャットダウンしながら立ち上がった。
「さて、と……定時になったし、仕事もひと段落ついたから……優佳、千晴、帰ろうか。今日はお母さんちで僕が何か晩御飯作るよ」
やったーと飛び跳ねて喜ぶ優佳ちゃん。可愛い。無邪気だ。というか、普段僕に昼食を作らせておいてこいつ料理できたのか。ますます隙がない。
だが、千晴さんはなんだか浮かない表情で、何やら口籠もりながら俯いている。
「千晴、どうしたの?」
「あ、えっと……せっかくお菓子出してくださったし、所長さんたちにきちんとご挨拶しておきたいから、私はもう少し残っていい? すぐ帰るから、優佳と二人で帰ってて」
「えっ……そう? じゃあ、先に帰るけど門限までには帰ってくるんだよ。寄り道しないこと」
「うん、わかってる」
「じゃあすみません、お先失礼しますね。娘をお願いします」
不思議そうな顔をしながらも、浪川は千晴さんの申し出をあっさり受け入れ、優佳ちゃんの手を引きながら帰宅して行った。
ばいばーいと無邪気に手をぶんぶん振る優佳ちゃんを3人で見送った後、視線は自然と千晴さんに集まる。
僕たちは探偵だ。職業柄、嘘には敏感である。依頼人が嘘をついていることなんてざらだから、探偵はそれを見抜く能力がなくてはならない。
だが、そんな能力がなくても、千晴さんの先程の言葉は嘘で、単なる口実であることは明白だった。
「えーっと、千晴ちゃん……ちーちゃんでいいかな。どうして私らと残ろうとしたの?」
こういうとき、コミュニケーション能力の高い所長は心強い。萎縮させないよう、俯いた千晴さんの顔を覗き込み、きちんと目を見つめている。
「じ、実は、皆さんに相談したいことがあって、来たんです……」
今にも泣き出しそうな表情で、千晴さんはぽつぽつと語り始めた。
父と母は2年前、私が中学3年生の時に離婚しています。でも、それ以前は本当に仲が良くて、家にいる時間のほとんどは二人でくっついているような状態で、私はよく「いい歳していつまでもイチャイチャしないで」なんて言って、呆れていました。
その頃、母は出版社で編集者として働いていて、父はパートで在宅仕事を少しだけしながら専業主夫をしていました。そんな日常が変わったのは、3年前、妹の優佳が生まれてからなんです。
元々母は中毒と言ってもいいくらい仕事が大好きで、家にいても仕事をしているくらいだったので、妊娠中も仕事をセーブしようとはしませんでした。出産直後も病室でPCを開いたり、育児休暇中なのに常に職場と連絡を取っていたり……。
いつも優しい父も、流石に呆れて母を注意しました。子供が生まれたのにちっともかまおうとしない、体も休めないまま仕事仕事で、家族との会話もない、そんなのはおかしい、もっと自分と家族を大事にするべきだって……。
母はそれに反論して、その内二人はすれ違うようになったんです。他にもちょっと色々あって、それで一旦離婚という形に……でも、嫌いになったわけじゃなくて、このままだとお互いにいがみあってしまって、子供のためにも良くないから、一旦距離を置こうってことらしいんです。
父は、いつか必ず帰ってくるからと言って家を出ました。母も父のことはまだ好きで、週末になると二人きりで出かけることもあります。夫婦から恋人に一旦格下げされた関係を、二人とも修復しようとしているんです。
私はそんな、変わってるけど一途な両親の関係を応援していたんです。いつかまた再婚して、家族4人で暮らせるように。
でも、それなのに最近父の様子がおかしくて……前みたいに母と週末にデートすることもなくなったし、なんだかよそよそしいんです。
嫌な予感がしたので、いけないこととは思っていたんですが、私、耐えられなくて父の携帯を見ました。すると、母以外の女性と……ユウコさんっていう人とメッセージのやりとりをしていて……毎週末に会っているみたいなんです。
「……それを見てしまったとき、とてもショックで、悲しくて、誰にも相談できなくて、辛かった……私、父が母以外の人と再婚するなんて嫌なんです! 無茶なお願いだとはわかっています。でも、父をよく知る同僚の皆さんなら、探偵さんなら……何かヒントを頂けるんじゃないかって思って……お願いします。父の心を取り戻せるよう、お力を貸していただけませんか?」
千晴さんは長い長い独白の途中、声を詰まらせながら我慢していた涙を、とうとう決壊させた。所長が背中を叩いて慰め、速水君が近くにあった箱ティッシュを無造作にテーブルに置く。普段チャランポランな二人がこんな気遣いを見せるほど、千晴さんは真剣だった。
「うーん……と言っても、僕たちでお力になれることがあるかどうか」
「家庭の事情っつうか、浪川先輩個人の気持ちの問題だしなあ」
相談のあまりのヘビーさに、僕も速水君もそう後ろ向きな言葉をついこぼしてしまう。
しかし、向こう見ずな所長は違った。
「なに言ってんの潤君、ハヤミン! あたしらは探偵だよ? 真実を探して、確かめることが仕事なの! まだナミーが本当に心変わりしてるなんてわからないじゃん! 調べてあげようよ! どうせ暇だし! 面白そうだし!」
この人、年に一回くらいはこういういいことを言うんだよな。最後の余計な一言はともかく。
ここで渋ったら僕たちが悪人みたいだ。美少女の涙の前にはなすすべがない。
「……わかりました。僕も協力します」
「じゃ、ついでに俺も」
かくして僕たちは、史上初、同僚の浮気?調査を開始することと相成った。
note1のプロフィールに書き忘れていたが、僕は変装が得意だ。
探偵として、様々なところに潜入することがある。調査対象が土木作業員なら金髪でチャラめの若いアルバイトに扮して接近することもあるし、キャバクラ嬢の売上金着服疑惑があったときは、ボーイに扮して潜入した。
ヘアメイクなどはなぜか得意な所長にやってもらうことが多いが、自前でも最低限のことはできる。
今日は見知った仲の同僚を尾行する日なので、普段の僕の印象となるべく乖離するよう、街を歩けば掃いて捨てるほどいる量産型大学生に扮することにした。オーバーサイズの流行服に身を包み、茶髪ストレートヘアのウィッグを被って、馬鹿でかい黒縁のスクエアメガネをかけて完成だ。
「すっごい……本当に六木さんですか?」
私服で事務所にやってきた千晴さんは、あまりの変貌ぶりに驚いて、僕の全身をくまなく眺めて丸い目を更に丸くした。
「ああ。六木先輩は顔がフリー素材並みにプレーンだからどんな人物にも化けられんだよ。天パさえ隠せば誰かわからねえ」
「この仕事が終わったら殺す」
まあまあ、と苦笑いしながら口喧嘩を制する千晴さん。その手をちょいちょいと引っ張ったのは、所長だった。
「何ですか? 所長さん」
所長は事務所奥の給湯室に住みついているため、日曜日の今日だろうと、基本的にずっといる。ふざけたことにまだパジャマ姿だ。
そんな所長は千晴さんの腕を引いて、住処である給湯室にずるずると無言で引っ張っていった。
「え、えぇ!? ちょ、所長さん! 何するんですか! 何で無言なんですか! 怖いです! いやあ!」
とまあ、そんなあられもない声が響き渡り、僕と速水君はそれを棒立ちで聞かされるという謎の時間が約10分ほど流れた。
その後、物音が止んで給湯室の襖が開き、恐る恐る登場したのは、別人と化した千晴さんだった。
あのゆるふわ感はすっかり影を潜め、所長のような黒髪のロングヘアにセーラー服という、清楚感満載の女子高生に変身している。一応、顔を隠すために大きな丸めがねをかけているが、美少女オーラダダ漏れである。
「いやあ、親子だから並みの変装じゃ見破られやすいんだけど、別の学校の制服で髪型もガラっと変えれば流石に気づかれにくいでしょ。だよね?」
そう言いながらひょっこり出てきた所長も、着替えてきたようだ。髪をお団子に束ね、Tシャツにジーンズというこれまたプレーンないでたちである。
「ハヤミンは寝癖ついたままだし、いつもと違って私服だし、マスクするくらいでまあいいでしょ」
「俺のターンで飽きるのやめてください」
それにしてもこの所長、ノリノリである。
絶対個人的趣味で楽しんでるだけだろ、とひとしきり呆れた僕は、疑問をひとつ投げかける。
「所長、僕はともかく千晴さんまで尾行する必要はないんじゃないんですか。尾行は一人が鉄則ですし、その……見たくないものを見てしまうこともありえるので」
千晴さんもそのことについては想像していたようで、不安感からまたうつむいてしまう。
千晴さんはまだ高校生だ。いくら自分で覚悟を決めて僕たちに依頼してきたとはいえ、いざとなれば傷ついてしまうこともあるかもしれない。
「そうだね。そうだよ……でもね、どんな結果になっても、ちーちゃんはきちんと自分の目で見届けなくちゃいけないと思うんだ。私たちからこうでしたって後から聞かされても、実感がわかないでしょ。そんなんじゃ、これからの家族の将来を想像することなんてできないよ。だから、辛いとは思うけど……潤君と一緒に行ってくれるかな。私とハヤミンはその後ろをこっそりついてくから」
丸くて大きな瞳をまた潤ませながら、震えた声で「……はい」と頷く千晴さん。
これで、見た目の準備も心の準備も整った。あとは、とにかく調査あるのみだ。
千晴さんは昨晩、浪川が優佳ちゃんをお風呂に入れている間に、父のスマホを見ることに成功した。暗証番号は結婚記念日の0715。そうして目撃したのが以下のメッセージである。
『浪川さん、お疲れ様です。優子です。以前の続きなんですけど、今度の日曜日はいかがでしょう?』
『問題ありません。では、いつもの駅前の喫茶店でお会いしましょう。何時ごろにしましょうか』
『喫茶レーヴですね。じゃあ、14時に落ち合いましょう』
……限りなく黒に近いグレーというか、もはやダークブラウンだ。やや他人行儀なことと「以前の続き」という言葉が引っかかるが、まあ千晴さんの前では言うまい。
「父は待ち合わせの時、いつも早めに行って近くで時間を潰していることが多いんです。もっと早めに行動するかもしれません」
という千晴さんの言葉を聞いて、僕たちはその13時20分、待ち合わせ場所である喫茶レーヴの近くにある駅で念のため張り込んでいた。
僕と千晴さん、速水君と所長の二手に分かれ、それぞれ離れたところで浪川が出てこないかそれとなく見張ってみる。
浪川はとにかく目立つ。オーラと顔面偏差値が強すぎて、その顔を見ずとも、道ゆく人々の多数がある方向を振り返っていれば、その中心に奴がいることは明白だ。
ほらいた。男も女も注目しているからすぐにわかった。初めて見る私服姿で駅前に降臨した浪川は、今日も今日とて背景に薔薇とキラキラを飛び散らせながら、自動改札を広い歩幅ですたすた通り過ぎ、立ち止まることなく雑踏の中に身を投げた。
「来た来た。相変わらず芸能人みたいに目立つ奴だな」
「我が父ながら恥ずかしいです……」
聞けば浪川が子供の学校行事に顔を出すと、友達にキャーキャー騒がれるのが恥ずかしくて、もう来ないでと言ったら謝るまでずっと落ち込んだままだったらしい。めんどくさい奴だ。
……でも、そんな子煩悩な浪川が、娘を悲しませるような過ちを犯すだろうか。
「あっ、お父さんお店に入る……」
考え事をしながら物陰に身を隠して尾行していると、突如千晴さんが前方を指差し呟いた。
見れば、少々敷居の高そうな宝飾店に迷いのない足取りで踏み込む浪川の姿が目に飛び込んできた。
「……………」
後方を離れてついてくる速水君・所長ペアを振り返る。勢いよく振り返りすぎて首が鳴った。なんだかよくわからないオーバーなジェスチャーで何かを伝えようとする所長と、早速飽きたのかスマホをいじる速水君の姿が見える。何を言いたいのかわからないが、その場にとどまれということで良いのだろうか。
確かに、狭い店内で顔を見られたら流石に気付かれそうなので、大人しく店の前で浪川が出てくるのを待機する。千晴さんの表情は今にも崩れそうだ。なに娘が見ている前で女への貢物を買おうとしているんだ、あいつ。
待つこと数分、意外にも早く浪川は店を後にした。左手に小さな紙袋を引っ掛けている。
「あ、あれ、優子さんっていう方へのプレゼントでしょうか……」
「………ど、どうでしょう」
僕はどうして、こんなとき気の利いたことの一つも言えないんだろう。自分が嫌になる。千晴さんの表情はどんどん崩れていき、とうとうたまらなくなったのか、踵を返して走り出した。
「あ、千晴さん!」
咄嗟に後を追いかける。速水君も僕の後に続いた。それを見た所長が「私、ちゃんと見とくから」とすれ違いざまに囁いたので、躊躇わず加速する。
いや……ちょっ……千晴さん意外と足速いな!? 足が長いからなのか10代だからなのか、20代の僕はなかなか追いつけない。
その内後ろから追い上げてきた速水君が僕をあっさり追い抜かして、みるみる内に千晴さんと距離を詰め、その首根っこを躊躇なく掴んだ。
「いや……やめて……離してください!」
「逃げんな!」
ぼんやりしていて、基本ずっと寝ていて、人をからかうようなことしか口に出さない速水君が、珍しく大声を上げた。そんな彼を涙目になりながら振り返り、少し睨むと、千晴さんはその場にしゃがみこんでしまった。
「もう……もう……耐えられないんです。所長さんはああ言ってくれたけど、私はやっぱり……」
「お前がこの場を逃げ出しても、どっちみち、俺らの口から真実は聞かなきゃいけない。自分の目で見るのと、人伝に耳で聞くのとどっちがいいと思ってんだよ」
「そんなの知らない! 関係ない! 速水さんには、わからないんです……」
下を向いて、時々嗚咽を漏らしながら、千晴さんは訥々と語る。
「お父さんとお母さん、本当に仲が良くて……結婚記念日になるといつも家族で食事に出かけたり、しょっちゅうアルバムを開いたり……芽衣子さん芽衣子さんって、いつもお母さんの名前を幸せそうに呼んでて、私、そんな二人が大好きだったのに……」
涙の粒が数滴零れ落ちて、アスファルトに染みを作る。僕はそれをただ無言で見つめることしかできなかった。でも、奴だけは違った。
俯いた千晴さんの両頬を右手で掴み、泣いていた顔をタコのように変化させる速水君。その目は真剣そのものだった。
「さっきから聞いてりゃいつまでもびーびー泣き喚きやがって……知るかよ! お前の家のことなんか! でもこれだけは言っとくぞ、あの人は……浪川先輩はそんな奴じゃねえよ! 一昨日見つけたんだ! あの人、デスクの引き出しにお前ら家族の写真を大事にしまってるんだぞ!」
「えっ……」
「お前が信じてやらなくて誰が信じるんだよ! めそめそ泣いてる暇があるなら、目ん玉ひんむいて親父が潔白かどうかよく見てこいブス!」
絶世の美少女を大声でブス呼ばわりした上に、千晴さんの顔を片手で歪めたまま持ち上げ、無理やり立ち上がらせた速水君。そこで目が覚めた千晴さんはようやく涙を引っ込めて、スカートの裾をはらいながらきちんと前を向いた。
「………はい」
と、少し掠れた声を絞り出す千春さんの手を、速水君はぎゅっと握りしめ、
「行くぞ」と短く言った。
歩き出した瞬間、タイミングよく所長からメールが届いた。
『目標、喫茶店に入店し、着席した模様! 潤君、ちーちゃんと一緒に隣に座って聞き耳立ててきて! byあなたの美和ちゃん♡』
なんという無茶振り。
だがまあ、妥当な判断かもしれない。速水君は外で待機させ、がっつり変装済みの僕たち二人で戦場に赴くとしよう。
「……千晴さん、もう大丈夫ですね?」
「はい!」
力強いお返事、よくできました。
優雅に窓際の席でアイスコーヒーを舐めるように飲む浪川の姿は、映画のワンシーンさながらだ。店中から注目の視線を浴びているが、慣れているのか少しも気にする様子がない。
こういう時、ビクビクしすぎていては怪しまれるので、堂々と店内に入り、何の遠慮もなく浪川が座る席より一つ手前に座る。
約束の時間まで残り10分。そろそろ現れてもおかしくない頃合いだ。
向かいに座る千晴さんが、そわそわした様子でどうも落ち着かない。ここで喋ってしまっては声でバレるかもしれないので、紙ナプキンにアンケート用に置かれていたボールペンで『大丈夫ですか?』と書いた。すると、首が折れそうなほどの勢いで頷かれたので、まあ大丈夫と判断した。
『ちゃんと話を聞いて、何が真実か判断しましょう』
と書き足したところで、入り口のドアベルが鳴り「待ち合わせです」という女性の声が聞こえた。
見れば、大きな丸メガネをかけた、40代くらいの少々地味目な女性が小さく手を振っていた。
「浪川さん!」
僕と千晴さんのテーブルに緊張が走る。恐らく、店の向かいの道路から覗いている二人も同じだろう。
浪川が「こっちです」と手招きする彼女は、長い黒髪を後ろ一本にまとめて、テーブルクロスのような柄の長いスカートを履いた、なんというか……ごく普通の中年女性だったのだから。
う、浮気相手意外すぎる……!!
僕は浪川の(元)奥さんの顔を見たことはないので、奴がどんな女性を好むのかは知らないが、浪川の顔面レベルならモデルや女優を取っ替え引っ替えできそうなのに、なぜ……。
と、若干失礼なことを考えていた僕の手を、突然千晴さんの指先がトントンとつついた。
見れば、なにやら深刻そうな表情で紙ナプキンに文字を書き殴っている。
そうしてすっと差し出されたその一文を見て、思わず声が出そうになった。
『あの人、優佳の保育園の担任です。ユウコ先生』
あ、あ、ありそう〜〜!!!
リアルだ……しょっちゅう保育園にお迎えに行くうちに、子供の話を通じて何となく距離が縮まって……とかありがちな話に思える。所長が大好きな昼ドラも先週あたりこんな展開になっていた。
ど、どうしよう……速水君はああ言ったけど、なんか黒っぽいぞ……。
血の気が引いていく。この後、千晴さんになんて声をかけたらいいか考える。その間も、二人の会話は止めどなく続いていった。
「すみません、先生。せっかくのお休みなのに、お呼び立てしてしまって……」
「いえ、いいんです。やっぱり、迷っているんですよね」
「はい……正直、僕には決められなくて」
き、決められない? もしや、芽衣子さんという元奥さん現恋人と、この先生を天秤にかけて……?
「でも、優佳ちゃんの気持ちが一番大事ですからね……」
「そうですよね……じゃあユウコ先生、この前の続きからお願いできますか」
「まかせてください! 優佳ちゃんのために、可愛いシューズバッグ作りましょうね!」
…………シューズバッグ??
はっと千晴さんと目を合わせて、思わず浪川の席を振り返ってしまった。
見れば、浪川の手元には裁縫セットと、ピンク色の可愛らしい布切れ。
「ええぇーーーーー!?」
思わず立ち上がって叫んでしまった千晴さんの顔を見上げた浪川は「やっぱり」とでも言いたげな、意味深な表情をしていた。
「えーと、つまり、優佳ちゃんの通園グッズの作り方がわからなくて、ユウコ先生に教わっていたと……」
尾行していたことが露呈してしまい、僕と千晴さんは観念して今回の経緯を全てを打ち明けた。二人のテーブルと席を同じにし、続いて浪川への事情聴取を開始した。
「ええ……うちの園、本当はシューズバッグとかコップ入れとか、全部手作りが原則なんです。でも、優佳ちゃんのお母さんはお忙しいから、知らずに既製品を持たせていらっしゃって……他の保護者の方から苦情が来てもアレなので、浪川さん……優佳ちゃんパパにこっそりお伝えしたんです。『手作りのものを持ってくることは可能ですか』って」
「でも、僕裁縫が苦手で……ネット見ながらなんとか作ったんだけど、不恰好すぎて優佳が大泣きしちゃって」
「あ! そう言えば優佳、この前すごくぐずってた……それで?」
心当たりはあったのか。
「そんな有様だから、ユウコ先生が見るに見かねて僕に作り方を教えてくれることになったんだよ」
「本当は保護者の方とこんなことしたらいけないんですけど、優佳ちゃんちは家庭も複雑で、私、ほっとけなくて……内緒でお教えすることになったんです」
「でも迷ってるんだよねえ。クマさんとウサギさん、どっちのアップリケにしようか」
「で、でも! 途中でアクセサリー買いに寄ったじゃない! てっきり、プレゼントかと……」
「ん? ああ、あれ? あれは芽衣子さん……お母さんへのプレゼントだよ。もうすぐ結婚記念日でしょ? 今度食事しに行くんだ」
「あぁあーーーー!!! 7月15日!!」
……忘れてたのか、千晴さん……。
それにしてもなんだろう、この感じ。勝手に勘違いしたのはこっちなのに、どうしてか無性に腹が立つ。というかこいつ、僕たちが後をつけていると知ってて、わざと誤解させるような言い回しをしていた気がする。
「あーあー、僕は優佳のために一生懸命縫い物の練習していただけなのに、千晴に浮気を疑われてたなんてなー。お父さんショックだなー。同僚の六木君にも疑われてたなんて、傷つくなー」
僕と千晴さんに突き刺さるような視線を感じ、閉口。こいつ、知っててあえて尾行させてたな……。
仕方ない、ここは。
「わかった。そこまで言うなら僕なりにお詫びをするよ……ユウコ先生、もうこいつに指導は不要です」
「えっ?」
皆さん、今一度note1記載の僕のプロフィールを思い出して欲しい。
僕はわけあって「家事全般」が大変に得意なのだ。
自宅から持ってきた持ち運びのできるコンパクトタイプのミシンが、事務所のテーブルでうなりをあげる。取り囲むようにして僕の手元を覗き込む、所長、千晴さん、浪川。
あまり見られちゃやりにくい、なんて心中でぼやきながら、あっという間に出来上がった。
「よし、完成」
「おぉーーー!」
誰からともなくパラパラと小さな拍手が巻き起こった。
完成したのは、優佳ちゃんの絵本バッグ、シューズバッグ、歯磨きセット用の巾着、お昼寝用の布団バッグなどなど。優佳ちゃんはピンクや白が好きと言うので、その色を使って制作。作っているうちに楽しくなって、レースやフリル、ポケットまでふんだんにつけてしまった。時間があれば刺繍でお花とかもつけたかったが、きりがないので断念。
早速、速水君に肩車してもらってキャッキャしていた優佳ちゃんが食いついた。
「パパ! なにそれなにそれ! 可愛い! 優佳の? 優佳の?」
「そうだよ。このおじさんが作ってくれたんだ。ありがとう言おうね」
お前にだけはおじさんと言われたくない。
「ちゃんとお名前つけておいたよ。あとこれ、余った布でワンピースとポシェット、おそろいで作ってみたんだ。どう?」
「わあ可愛い!」
黒髪の優佳ちゃんに似合うよう白地をチョイスし、全体にティアードと、裾にレースもつけてみた。この上ない達成感。
「すごい! すごいよ潤君! お店で売ってるみたい!」
「幼児用なら型紙なしで作れるんで簡単ですよ。というか浪川、お前この量を手縫いで作ろうとしてたのか? 無謀すぎだろ」
「ハハ、うちミシンないから……針と糸でなんとかならないかなと思って」
「今度から何か繕い物があったら遠慮なく言ってくれていいから。靴下の穴でも何でも。あ、ちなみに今日作ったワンピース、サイズが小さくなったらスカートにリメイクするからまた持ってきてくれ」
「頼りがいありすぎだよ」
そりゃどうも。久しぶりにがっつり手芸をしたのでこちらも楽しかったが。
嬉しそうにワンピースを抱えて飛び跳ねる優佳ちゃんを見て、千晴さんはまた泣きそうな顔をする。
「ご、ごめんなさいお父さん。優佳のために頑張ってくれてたのに、私、お父さんのこと疑ったりして……」
「いいんだよ。僕の方こそ、千晴には苦労をかけっぱなしだしね」
父の大きな手で頭を撫でられて、千晴さんの目からまた一粒の涙が溢れ出そうとする。
床にこぼれ落ちる前にそれをせきとめたのは、速水君の細い指先だった。
「もう泣くことねえだろ。お前のブサイクな泣き顔、嫌いなんだよ」
「は、はい……! ごめんなさい……!」
「だから、泣くなっつうの!」
事務所に響き渡る、笑い声や泣き声や、よくわからない声が混ざり合って耳に心地よい。全員でひとしきり泣いたり笑ったりした後、見えた千晴さんの笑顔はとても晴れやかなものだった。
これが、ファイル棚の「事件ノート」には記されない、なんてことのない三ヶ島探偵社の1日。
かくして、三ヶ島探偵社の波乱に満ちた浮気調査は、こうして大団円を迎えたのである。
………が、後日談をば少々。
「すみません、速水さんはいますか?」
あれから数日、千晴さんは学校帰りに突然事務所を訪れた。その時、タイミング悪く浪川と速水君は備品の買い出しのため席を外していたので、それを伝えた。
「そ、そうですか………あ、あの、六木さん! これ、あの時のお礼にと思って、クッキー……焼いたんですけど、お、お父さんに内緒で、速水さんに渡してもらえますか?」
「…………え」
「そ、それから! 速水さんって……彼女、とかいますか……?」
「……………」
恥ずかしそうに頬を赤く染める、なんともピュアな美少女。
こんなときどうすればいいのかなんてマニュアルは僕の脳に搭載されていないので、自分でも驚くほど棒読みな声で「イ、イナインジャナイデスカネー」と答えることしかできない。
は、速水君だけはやめとけ……あいつ、顔以外いいところないから。なんて、口が裂けても言えないが。
浪川さん、娘さんが悪い虫に自ら引っ掛かりに行こうとなさっていますよ。
【探偵ファイルNo.2】
浪川大助
三ヶ島探偵社に所属する探偵兼会計係
CGかと見紛うほどの人間離れした超絶美形のため、街の風景から完全に浮いている
娘に近づく男は絶対抹殺するマン
老眼と腰痛と長女の成績が目下の悩み
【年齢(生年月日)】ヒミツ♡(4/12)
【趣味】芽衣子さんとデート、舞台・映画鑑賞、ドライブ
【特技】各種PC業務、暗記、車庫入れ