奇跡の痕

作者: 丸虫52

「あなたのSFコンテスト」参加作品です。

「寂しい人(S)のためのファンタジー(F)」です。

 ゆったりと、漂う様に流れる時間。

 ぼんやりと何も考えず、羊水に浮かぶ胎児のようにただそこにいる。

 耳に届くのは点けっ放しのテレビから流れてくる意味をなさない声と、壁に掛かった時計の秒針の進む音だけ。

 今の自分にとって確かなものは、体を預けたバスタブのつるりとした表面と、左腕の肘先が浸かった水の冷たさだけ。それだけが今の自分に感じられる総ての感覚。

 それ以外は痛みも熱さも寒さも苦しみも悲しみも辛さも、もう何も感じられない。感じたくない。

 ――神様……。

 お願いです、神様。

 もし本当にあなたがいらっしゃるなら、このまま瞳を閉じることをお許し下さい。二度と目覚めない眠りにつくことをお許し下さい――声にならない呟きに唇が震えた。

 思考すら放棄した頭で考えたわけではない。ただ最後に見納めようと本能のように首を巡らせた。

 暗くなりつつある視界に、開け放した扉とその向こうに見えるテーブルの上のカクタスが映った。その白い花。ピンクのしべを持った清楚な花。

 独り暮らしを始めた日、通り掛かった店で見かけて視線が吸い寄せられ、思わず買った鉢植え。世話の仕方が判らず、慌てて園芸の本を買って読んだ。毎年少しづつ増えて、鉢も何度か買い替えた。

 花の少ない真冬にいつも溢れるように花をつける。

 デンマーク・カクタス。クリスマス・カクタス。シャコバサボテン。

 サボテンの仲間は言葉を理解するという話を聞いて、独り暮らしの間を埋めるように話しかけたりもした。いつの間にか愚痴になってしまったそれを、返事をしないのを幸いと口説き続けた。自分の精神安定剤だった。

 だけどそれももうすぐ終わる。

 ごめんね、もう世話してあげることはできない。

 せめて枯れてしまう前に誰かに見つけてもらって、世話好きな人に巡り合えるように祈っているから……。

 そっと笑いかけた。

 本当に笑えたのか、つもりだけだったのか、それは判らない。

 ふと、風もないのにカクタスが揺れたように見えた。まるで呟きに応えたように。

 闇に浸食され暗くなって行く視界に、最後に残ったのはカクタスの花の白…………。


 人は死の直前に自分の人生を見直すというけれど、それはきっと思考が勝手に過去を巻き戻してしまうのだろう。


 田舎の高校を卒業し、都会の大学へ進学し、夢に見た一人暮らし――思い描いていた通りの人生だった。未来には光しか見えなかった。大勢の友人と先輩後輩に囲まれて、側には自分を一番理解してくれる男性がいて、笑いが絶えない人生――それがずっと続くと思っていた。

 信じていたのに……誰よりも信じていた二人が私を裏切るなんて!

 幸せそうに寄り添って、笑っていた。私の恋人と、親友。

 一週間前に私達、結婚式場の場所を話していたよね? 誰を呼ぶとか呼ばないとか、どんなウエディングドレスにするとか、誰に何をしてもらうとか、親友の彼女にはスピーチをしてもらおうって言ってたよね? 彼女も快諾してくれたよね?

 それが今一人で死を選ばなければならないなんて。どうしてそんな事になってしまったのか――。

 いきなり恋人から結婚式の中止と、別れ話を貰った三日前。キャンセルされたはずの式場から昨日届いた日取りの確認。私の名前が彼女に変わっていた。

 いつから? 彼女があなたを私に紹介してくれたのに、どうしてこうなってしまったの? 最悪のクリスマスプレゼントに、私は泣く事も笑う事も出来なかった。

 もう、辛い事は思い出したくない。二度と思い出したくない――。


「だめだよ」

 声が聞こえた気がした。小さな子供の少し高めの、舌っ足らずの声。聞いた事の無い声だ。

 暗い視界のなかに、ぽつんと灯りが点った。それがぼんやりと光っている小さな男の子だという事に気がついたのは、その子が触れそうなほど近くに来てからだった。

 真っ白い子だった。髪も肌も着ている服も白、ただその瞳だけがピンクサファイアのような赤だった。

「だめだよ」

 その子はもう一度言った。

「死んじゃダメだよ。これからあなたは幸せになるのに、今死んじゃ幸せになれないよ」

「放っておいてちょうだい、あなたには関係ないでしょう」

 私はそう言って、首を横に振った――つもりだった。実際には声を出す事も、体を動かす事も出来なかった。

 その子は私の傍にしゃがみ込むと、バスタブの中に入っている左手を引き上げ、血を流している手首に小さな唇を当てた。

「あなたにはとてもお世話になったから、僕の命を分けてあげる。だから、もう死ぬなんて言わないで。僕はあなたの笑顔が好きなんだ。あなたにはずっと笑っていてほしいんだ」

 左手首から何か温かいものが流れ込んできた。それは冷え切った体を一回りして、入って来たところへ戻った。左手首がジンジンと脈打ち出した。


 感覚が戻って来た。バスルームの床の冷たさ、肘から先が浸かっている水の冷たさ、手首の傷の鈍い痛み。

 頭の芯が重く、こめかみがズキズキと脈打っている。自分が何をして、どうしてバスルームに座り込んでいるのか、思い出すまでにかなりの時間を要した。

 そうだ。恋人と親友に裏切られ、人生に絶望して自殺しようとしたのだ。視界の隅に見えたバスタブは私の手首からから流れ出した血で、真っ赤に染まっていた。おそらくかなりの量が流れ出したはずだ。なのに、私は死ねなかったのだ。

 何か温かい物が頬を伝った。それは、顎の先から落ちるころには冷たくなっていた。その感触が鬱陶しくて、私は無造作に右手の甲で拭った。透明な液体がついていた。それが自分の涙だと気付くまでにも時間がかかった。

 私は泣いているのだ。自分を憐れんでいるのだろうか? それとも死ぬ事ができずに悔しいのだろうか? 自分の感情すらわからなくなって、ただ壊れた蛇口のように涙を溢れ続けさせていた。

 どのくらいそうしていたのか、わからない。涙と一緒に感情という感情が全て流れていってしまったように感じられた。何も感じられず、何も考えられなくなった。生きているのに死んでいるようだった。

 のろのろとバスタブに凭れさせていた体を起こした私は、水の中から出て来た自分の左手を見てぎょっとして目を見開いた。

 左手首の丁度切り込みの上に、緑色の小さな手のような物が何枚か張り付いていたのだ。

 穴の開くほどそれを見詰めた後、そうっと反対の指で触れてみた。つるりとした感触には覚えがあった。まさか――!

 私は立ち上がろうとした。しかし長時間寒いバスルームに座り込み、冷え切った体は思うようには動いてくれない。這うようにしてバスルームを出た私の目に、廊下に転々と落ちている緑色が飛び込んできた。

 悲鳴を上げたと思う。その緑色がなんなのか、私には判ってしまったから。

 私は泣きながら、這ってリビングへ急いだ。そして、そこにバラバラになった鉢植えのカクタスを見つけた。さっきまで白い花を付けていたカクタスは、小さな葉をバラバラにして散らばっていた。葉はすでに水分が抜けてしわしわに萎れていた。

「……どうして」

 私は散らばったカクタスを集めながら、声にならない声で呟いた。

「あなたが、なぜ私の身代わりになるの? あなたには死にたくなるような事は無かったはずでしょう?」

 集めたカクタスに顔を埋め、私は声を出して泣いた。いつまでも、いつまでも、泣いた。


 私の手首に張り付いていたカクタスの葉は、傷が癒えると体に吸い込まれるように消えた。ただ、その痕は他の部分より緑っぽい色が残っていて、緑のテープを張り付けてあるようだ。

 哀しい事があったり、辛いと感じるような事があると、私はその痕を撫ぜる。するとあの時の真っ白い子供が、私の心の中から悲しみを追い払ってくれる。クリスマスにカクタスが私にくれた奇跡、その証明が緑色の痕なのだ。