「私って男っぽくてサバなのよね」誰なんだよ俺との見合いにサバを呼んだやつは

作者: quiet



「また見合いか? いい加減にしろ。何でもかんでも数を撃てば当たるというものではない」

 冷たく言い放ったのは、黒髪黒眼に著しく容貌整ったワイルド系の男――この国の若き皇帝。



「まあまあ。減るものではないではありませんか」

 そして言い放たれたのは銀の長髪に片眼鏡、怪しさを絵に描いたような男――この国の若き宰相。



 帝国の、宮殿の一室。

 ふたりは向き合って、こんな話をしていた。


「いいや、減る。俺の人生は有限だ。こんなつまらんことにいつまでも時間を費やすつもりはない」

「でしたらさっさと相手をお決めになってください」

「要らんと言っているのだ。後継者を血筋で選ぶ必要などない。俺が死んだら俺の次に優秀な者を皇帝に据えろ」


 そういう皇帝が死後一番国を荒らすんですよねえ、やれやれ。

 と言いたげに宰相は肩を竦めて、


「そうですね。陛下のお言葉、両親のよく言う『私が死んだら骨は海に撒いてね』と同じくらい心に留めさせていただきます」

「それ全然留めてないだろ」

「それはそれとして今回のお見合いについては諦めてください。もうセッティングしてしまいましたから」


 やれやれ、と肩を竦めるのは、今度は皇帝の番。


「お前はいつもそれだな……。で、それはいつだ」

「二分後です」

「お前はいつもそれだな!!!!!!!!!!」


 がばっ、と皇帝は立ち上がった。

 そしてものすごい勢いで走り出す――それに追従するように、宰相も走り出す。走りながら、彼らは会話する。


「馬鹿野郎! どうしていつもギリギリになるまで言わないんだ!!!」

「面白いかと思って」

「クソッ……追放だお前! 追放!!!!」

「任せてください。得意ですから」


 追放しても追放してもいつの間にかこの地位まで登り詰めている呪いの人形レベル100みたいな男を引き連れて、とにかく皇帝は急いだ。


 そして辿り着いた。

 プレートにはこう書かれている。『見合い室』。年に八十件を超える皇帝の見合いは、とうとう宮殿にこんな部屋を生み出していた。


 時間がない。皇帝はその見合い室の前で、大急ぎで身なりを整えて、手鏡を覗いて前髪を完璧な角度にして、


「釣り書きは!?」

「持ってるけど見せてあげません♪」

「追放!」


 いかにも皇帝らしい威厳を整えてから、もはやここにいるのは時間の無駄、と意を決して、彼は扉をがらりと開く(引き戸)。



 すると、中には誰もいなかった。



「…………遅れているのか?」

 不審に思いながら、皇帝は備え付けのソファに腰を下ろした。


 見合い室と言っても、そこまで特別な部屋ではない。

 ただ、他の部屋より少しインテリアに凝っているだけの空間だ。ソファがあって、もう一個ソファがあって、その間に挟み込まれるようにしてローテーブルがあって、あと絵とか壺とかが置いてある。そっちの値段はローではない。ハイ。そんな感じ。


 そして、強いて言うならもうひとつ。

 皇帝の正面の壁には、お洒落なアクアリウムが備え付けられている。


「……いや、遅れてくれて好都合か。こっちも準備を整える時間ができたからな」

 皇帝は立ち上がる。ついでに手鏡では見えない範囲に何か不備はないかと、水槽の前に立って自分の姿をチェックする。


 よし、どこにも変なところはない。

 もしうっかりこれから来る相手が自分の真実の愛の相手だったとしても大丈夫そうだ――ふう、と一息吐けば、そのときようやく、その水槽の中に一匹の魚が入っていることに気が付いた。


「…………何の魚だったかな。確か――」

「サバです」

「そうだ、サバだ。詳しいな」

「ええ。自分のことですから」


 自分のことですから。

 その言葉で、ちょっと皇帝は止まった。


 周囲をぐるりと見回した。

 他に誰もいなかった。


 すると必然、辿り着くべき結論はたったひとつなので。

 皇帝は、こんな風に叫ぶことになる。




「――――サバが喋ってる!!!!!!」




 バァン、と次には音がした。

 それはすなわち、皇帝がものすごい勢いで見合い室をがらりと脱出して(引き戸)、部屋のすぐ傍に控えていた宰相の襟を引っ掴んで壁に寄せ、それから壁ドンした音である。


「お前、これはどういうことだ……! 腹話術か、これが今日のドッキリか……!?」

「いえ。普通にサバが喋っているだけです」

「どこが普通なんだ!!!! そこを百歩譲って認めたとして、なぜ見合い室に喋るサバがいるんだ!!」

「今日の見合いのお相手がそのサバだからです」


 すっ、と皇帝が宰相から手を離した。

 彼は踵を返し、再びがらりと戸を開けて(引き戸)見合い室に入場。水槽の前に立ち、穏やかな声音でこう訊ねる。


「失礼。こちらの伝達に行き違いがあって……あなたが今日の私との見合いの相手ということで、相違ないだろうか」

「はい。そうです」

「そうか。大変失礼した。重ねて申し訳ないんだが、もう少し待っていただいてもよろしいだろうか」

「はい。構いません」


 ありがとう、と皇帝は再びがらりと戸を開ける(引き戸)。

 そして宰相の胸倉を掴んで、さっきと完全に同じポーズになる。バァン!


「何をどうしたら俺の見合いの相手にサバが来るんだ、サバが……!!!」

「よかれと思って……」

「せめて面白いと思ってやれ! 馬鹿が!!!」


 いや待ってください、とものすごく胡散臭い顔で宰相は言う。


「日頃から陛下は仰っているではありませんか。姿かたちは問題ではないと」

「限度があるだろ、限度が!! 種族が違うわ!!!!」

「契約結婚でいいと仰るならこういうのもアリかなと……」

「サバに契約締結能力があるか!!!」

「ありますよ。会話可能な知性があるんですから」

「………………」


 法的にはともかくとして、確かにそういう考え方もあるか。

 そう思い、皇帝は宰相から手を離した。皇帝は非常に柔軟な考えを持っている。そのせいで毎回宰相の頭に硬いものをぶつけて脅威を排除するというシンプルな解決法を取らずに終わる。


 彼はふたたび(引き戸)。

 席に着き、会話を始めた。


「お待たせして申し訳ない」

「いえいえ」

「それでは、見合いということで……」


 そして見合いも始まる。

 どうも、と皇帝はまず自分の名を述べて、


「帝国で皇帝をやっています」

「まあ、これはどうもご丁寧に。わたくしは――」


 サバもまた、自分の名を述べて、


「統一海洋帝国で姫をしています」

「テクニカルタイムアウト」

「どうぞ」


(引き戸)。

 バァン!


「なんだその統一海洋帝国とかいう謎の国は……!!」

「海の中にある国ですね」

「なんだその新しい概念は……! 相対化されたら俺は陸の上にある国の皇帝か……!?」

「そうなります」


 そうなるのか、と皇帝は納得した(引き戸)。

 宰相は本当のことを黙っていることが多いが、嘘は言わない。そういう制約のある悪魔なのではないかともっぱらの評判である。


「失礼。幾度も行ったり来たり……」

「いえ。一国の皇帝ともなれば、お忙しいでしょうから。わざわざわたくしのためにお時間を取ってくださり、ありがとうございます」

「いえ。こちらこそわざわざ御足労頂いて、しかもそのように狭苦しいところに……」

「ふふ。お気遣いいただきありがとうございます。評判とは違って、お優しい方なんですね」


 ここで、皇帝は気が付いた。

 この姫、めちゃくちゃまともな性格をしている、と。


 海の中で一体自分にどういう評判があるのかはよくわからないし逆にじゃあなぜ俺は海の世界の評判をまるで知らんのだそしてあのたわけ片眼鏡はなぜそのあたりの垣根を越えていきなりその国の姫を見合いの場に連れ出してくることができたのだということはともかくとして。


 今までの見合いの相手と比べると、すでに上位一割のまともさに入るぞ、と皇帝は思っていた。


 なにせ今までは『そのへんにあったネジを適当に頭に刺して暮らしています』『たのし~』『しまった! 爆発する!』みたいな人間が代わる代わる現れていたのだ。最近は我が国のあまりの層の厚さにドン引きもしていたところだったので、こんな風に会話が成立してくれるなら、と思う気持ちがある。


 契約結婚なら、と。


 皇帝は非常に柔軟な考え方を持っている。実はその頭脳は地下施設に収容された秘密の液体コンピュータなのではともっぱらの評判である。


「はは……折角お褒め頂いたのに優しくない話題で申し訳ないが、まずは政略的な部分について詰めたいと思っています。どうでしょう」

「はい。それはもちろん。わたくしも今回の件については全権大使としての権限も同時に付与されておりますから。ぜひ、とことんお付き合いさせてください」


 そうして、姫は語った。

 まず、陸の住人が海の住人のことをそれほど知らないということを理解している。まずは相互理解から、そしてそのためにはまず、陸の最大国家であるあなたの国と関係を築きたい。この結婚を機に、陸海最初の条約を結び、国際秩序の形成を進めていければ、というようなことを。


 姫がメリットを提示する。

 皇帝はそれを受け入れながら、ときにその場合に発生しうるデメリットを、あるいはそのメリット以上に受け取れるものがあることを、誠実に指摘していく。


 そしてそれを姫が受け入れれば、新たな展望が生まれ、再び皇帝との話し合いがあり――。


 一段落する頃には、七時間が経ち。


 皇帝は。


「――――はっきり言って、私は今、己の不明を恥じています」

「と、仰いますのは?」

「海の中にこれほど広い視野と深い考えをお持ちの方がいるとは、思いもしなかった。あなたは素晴らしい」



 めちゃくちゃ姫を気に入っていた。



 元来、容姿に頓着しない男である――相手から自分がどう見えるかは結構気にする性質なので身なりは良いが、反対に相手がどんな格好をしていようと全く気にしない。


 見合いにサバが来たときは流石に動揺した……が、すでに柔軟な思考で彼は何か色々なことを持ち直している。一体元々何を持っていれば持ち直しでこの状態になるのかはおよそ余人の知るところではないが、次のようなことを言い出すコンディションにまで回復している。


「婚姻のお話、ぜひ。あなたと私が揃えば、この世界はもっと美しくなる」

「まあ……」

 ラスボスみたいなことを定期的に言うことで、彼は皇帝としての格を保っているのだ。


 もうよかろう、と満足する気持ちで皇帝は思っていた。

 これだけの視野と展望がある相手であれば、自分は何の不満もない。陸海統一国際秩序の形成。結構ではないか。己の一生をかけてでも達成する価値がある。これまでの異常お見合い百連弾もここに至るまでの前置きだったと思えば……思ったところでどうにかなるものでもないが。


「早速になるが、その旨正式な書面で――」

「あの、」


 前のめりになる皇帝。

 しかしそれを遮るように、姫は言った。


「申し訳ありません。ここまで進めていただいて、その、何を馬鹿なことをとお思いになるでしょうが……」

「…………? 何か、御懸念がありますか。こちらでも出来得る限り対処に努めますが」


 もじもじと――いやサバのその動きが果たして『もじもじ』に当たるのか皇帝にはさっぱり確信が持てないが、しかしそんな感じだろという動きを姫はして、




「――――あ、あのっ! 恋愛結婚について、どうお考えでしょうかっ!」


 皇帝はすごい勢いで頭を抱えた。




 それはもうすごい勢いだった。下がった頭が膝にぶつかって凄い音を立てて、「だ、大丈夫ですかっ?」と姫に心配されるくらいの有様だった。


 平気です、頑丈なので、と皇帝は頭を上げる――そして上げた頭を使ってこういうことばかりを考えている。


 ヤバイ。

 そう来たか。


「その、馬鹿らしいとお笑いになってください。王族に生まれておいて恋愛結婚など、愚かしい言いざまでしょう」

「いえ、そんなことは……」

「いいのです。自分に魅力がないことはわかっていますから。だって私って……」


 こんなことを言わせるべきではない、と皇帝は思う。

 思うが、しかし何も言えず、


「男っぽくて……」

 いや知らん、と思う。


「サバなのよね」

 そうだね、と思う。


 恋とは心でするものです、という言説に対して彼は思うところがある。まあ実際そういうものだろう、と。いくら外見が美しく整ったところで性格が壊滅していたらどうしようもない。そういう過酷なお見合いをいくつも潜り抜けてきたから、実感としてそう思う。


 しかし、かと言って。

 自分がそれをできたとして、目の前の人物がそういう『心だけでする恋』を求めているのかと言えば、


「その……今回、婚姻の話は上手くいかないと思っていたのです。全権大使として外交の話を纏めるのが基本目標で。……だから、あなたがこうして婚姻を受けてくれるというだけで、願ってもないことなのですけど」

「え、ええ……」

「……あなたがあまりにも素敵な方だから、欲張りになってしまって。愛のある結婚について、どうお思いでしょうか……?」


 たぶんそういうのではないんだろうな、と皇帝はわかる。

 周囲の空気に結構敏感な男なのだ。


「……素晴らしいことかと。ただ、やはりそれには……」

「私の魅力が、足りませんよね……」

「い、いや! そんなことは、決して……!」


 ええい、としかし皇帝は思う。

 これほどの相手に、己を卑下させるようなことを言わせて何が皇帝か、と。



「あなたはこれ以上ないくらいに魅力的な方だ!!!!」

 というわけで、そう宣言した。



 一瞬、姫の方が戸惑った。

 時が止まったように固まって、しかしそれから自信なさげに目を伏せて。


「いえ、わかっているのです。姫らしくないと、周囲からも散々言われていますから」

「そんなことはありません」

「いえ、本当に姫らしくないのです。自分でわかっています。男っぽいところがありますし……」

「ご安心を。私は全くそうは思いません」

「でも私、趣味が……」


 どうだっていい、と皇帝は思っていた。

 サバであることに比べれば、男っぽいだのなんだの、そんなことは――




「冬山ガチキャンプなんです」

「冬山ガチキャンプ!?!?!?!??!!!?」




 と思っていたので、不意打ちで凄まじい声が出た。


「やっぱり、姫らしくありませんよね……。陸に来てからというもの、ハマってしまって……」

「いやそういう次元じゃ――冬山ガチキャンプ!?!?!?」

「どうして二回言ったんですか?」


 二回と言わず、三回四回千回と皇帝は言いたかった。

 ので、まずは三回目から。


「し、しているんですか!? 冬山ガチキャンプを!?」

「しています」

「冬山をえっほえっほと登りに登ってテントのペグをカチンコチン打ち込んで色んなものを凍らせながら四苦八苦しつつ煮込み料理を堪能しているんですか!?」

「しています」


 お恥ずかしい、と姫は目を伏せて、


「姫らしくありませんよね……。周りからもよく……」

「いやそこは全然関係ない! 言わせておけそんなものは有象無象に!!」

「まあ……! 象さんにも、象さんでないものにも!」


 えぇっ、と皇帝は動揺し続けている。

 実は私、海にいた頃は海溝も攻めておりまして……とか何とか姫が言うのに、そんなことは全く問題ではありません俺だって好きなアーティストの新曲が出るたびにお気に入りの文房具でノートに歌詞を写経したり好きなキャラクターのイメージソングアルバムを勝手に作成したりしていますし、皇帝らしくないなどという言葉は全て無視してHPの注意書きの下に置いてある『Enter』のリンクは毎回ダミーにしています、と返しつつ。


 思う。

 物理的に可能なのか、と。


「そうですよね、好きなものは好きなんですもの! 誰に何を言われることもないわ!」

「そうです。俺もいまだに隠しページは黒背景にしていますが、とうとうダークモードの流行で時代も追い付いてきました」

「まあ! あのダークモードの既視感はそういうことでしたのね!」

「ええ。遅れてやってきたシンクロニシティです」

「それはシンクロニシティじゃありませんわ!」


 サバが冬山ガチキャンプ。

 そんなことが物理的に可能なのか、と。


「……あ。申し訳ありません、話が逸れてしまいましたね」


 我に返ったのは、姫が先だった。


「その……これだけのことを言っていただいて、なおあなたからの言葉を求めるのは、卑怯かもしれませんが」

「…………いえ」

「い、言ってくださいますか。その、あの……言葉を」


 そうなるだろうな、という流れのこと。

 そして皇帝はわかっている。サバでなくともこの流れは読めるから、求められている言葉が何なのかを、わかっている。


 だから、彼は。


「テクニカルタイムアウト」

「どうぞ」


(引き戸)。


「おや陛下。すっかり盛り上がっていたみたいですね」

 宰相は部屋の外にこたつを置いて、そこでぬくぬくしながら一人鍋を食べている。


 すっ、と皇帝はその向かいから炬燵に足を入れた。


「どうですか、お相手とは」

「結婚することにした」

「すごいな、うちの皇帝は……」

「そこで、物は相談なんだが」


 皇帝は自ら酒瓶を手に取り、宰相の空いたグラスに注ぐ。おっとっと、と宰相が言うのに、お前はいつもそれだな、と苦笑して、


「惚れ薬に心当たりはあるか」

「それはつまり、『どれだけ努力しても魚に対してプラトニックでない形の愛を注ぐのは難しそうなのでそれを解決できる薬はあるか』ということですか?」

「そうなる」

「ありますよ」


 ごそごそ、と宰相は炬燵の中を探って、ふたつの壜を取り出した。


「お前それ常温で保存して大丈夫なやつなのか」

「ダメになったら作り直します。で、こっちのピンク色の方が陛下の言う惚れ薬ですね。ソフトを弄るやつです」

「よし。……こっちの青い方は?」

「魚になる薬です」


 魚になる薬、と皇帝が復唱すると、魚になる薬です、とさらに宰相は復唱して、


「こっちはソフトだけじゃなく、ハードから弄ってその影響でソフトも変わる、というコンセプトです」

「……なるほど。己も魚の姿になれば、サバに恋することも可能ということか」

「ええ。流石は陛下、理解が超速ですね。あ、もちろん人間の姿とも可換ですよ。ハードは別々に名前を付けて保存しますし、もし上書きで消してしまっても、」


 宰相は三つ目の壜を取り出して、


「人間の姿になる薬も用意してありますから」

「お前が定期的に服用してるやつだな」

「まさか。要りませんよ、私には」


 ははは、と皇帝は笑う。お前がそう言うならそうなんだろうな、と。

 ははは、と宰相も笑う。陛下も一杯どうです、と酒瓶を手に取る。


 いや結構、と皇帝はそれを断った。

 素面で言わねば意味がない。


「宰相よ」

「はい」

「今日この時ほどお前が我が臣下でよかったと思ったことはない」

「光栄です」

「というか今日この時以外にない」

「酷くない?」


 皇帝は強靭な意志力を以て炬燵から足を引き抜いた(ファイナル引き戸)。


「お待たせした」

「もうよろしいのですか? セットが変わればまだテクニカルタイムアウトも取れますが」

「いえ、もう必要ありません」


 そしてこちらをじっと見つめる姫に向き合って。


 覚悟を決めて、言ってのける。



「――――俺には、あなたを愛する準備がある。結婚してほしい」



 少しの沈黙が流れて。

 こぽぽ、と水槽の中に、酸素が注がれる音がして。


「…………キャンプにも、一緒に行ってくれますか?」

「ええ、もちろん。海溝を攻めるのだって一緒に行きましょう」

「え? いえ、しかし……」

「魚になれる薬があるのです」


 ぱちり、と皇帝は片目を閉じて、ウインクを。


「どうせ海溝に行くなら、深海魚になりましょうか。それとも姫と同じサバになってみるか……あまり海洋の美的感覚に詳しくありませんが、俺の好きな古代魚は、姫としてはどうですか?」


 あなたのお気に召すままに、と。

 騎士のように膝をついて、礼をすれば。


 まあ、と。

 茫然としたように、姫は呟いた。


「てっきり、陸の方は魚の姿に抵抗があるものと……」

「ない、と言えば嘘になります。ですが、何事も慣れていくものです」


 ん?とちょっとだけ皇帝は思った。

 が、そのまま話は進んだ。


「……評判通り、柔軟な考えをお持ちなんですね」

「そう思っていただけるなら、柔らかくしてきた甲斐があるというものです」

「それに、魚になる技術があるだなんて……陸の方には、できないことだと思っていました」

「はは。海のものだか山のものだかわからない臣下の手助けあってのことですが」


 んん?とかなり皇帝は思った。

 が、そのまま話は進んだ。



「結婚のお話、ぜひ。これからきっと、驚くくらいにあなたを愛してしまうと思いますが……受け止めてくださいね?」

「ええ。お任せください」



 そして、結婚は成立した。


 ふふ、と姫は笑う。

 この声が引き出せるなら、自分のしたことも大したものだ、と皇帝は満足を覚える。


 すると彼女は、さっきまでの緊張から解き放たれたのだろうか、そのまま透き通るような明るい声で、


「何の魚になるかですが、もちろん、あなたがお好きなものが一番ですよ。と言っても、それほど海のものにはお詳しくないでしょうから……ふふ。まずは、船に乗って、私の故郷の皆を見るところから始めてみませんか?」

「光栄です。……そうだ。俺が海の生き物に詳しくないように、姫も陸の生き物には詳しくないのではありませんか?」


 実は、と皇帝は言う。


「この近くには自然公園があるのです。住みよい場所なのか、たくさんの動物が暮らしていて。よろしければ、これから一緒にどうですか」

「まあ! 象さんもですか?」

「ええ。象さんではないものも」


 ぜひ、と姫が言う。

 ようし、と皇帝は張り切る。


 そして、「それなら」と彼は水槽を見て、


「まずは移動ですか。こういうものに詳しい者がいますから、呼んできましょう」

「あ、いえ。自分ひとりで平気ですから、お構いなく」


 ざばり、と姫が人間の姿になって、水槽から出てきた。


「………………」

「あっ、ごめんなさい。靴だけは汚してしまうかと思って別のところに……片眼鏡の方に預けてしまったんですが」


 念のため、もう一度言っておくと。

 ざばり、と姫が人間の姿になって、水槽から出てきた。


「………………」

「……? あの、靴がないと、すみません、ちょっと足が……」


 するり、と皇帝は姫を抱き上げた。

 きゃっ、と彼女が言うのに、嫌ですか、と訊ね、


「い、嫌ではありません! ただ、ちょっと驚いただけで……」

「そうですか。驚きましたか」


 俺も驚きました、という目で皇帝は姫を見る。

 青と白、銀の入り混じった鮮やかな髪と服。冬山ガチキャンプのおかげか、四肢しなやかなる彼女の姿を。


「…………」

「…………あの? 何か……あっ」


 あまりにもじっと見つめていたから。

 それで、姫も気付いたのだと思う。


「……もしかして私、言っていませんでしたか」

「ええ。全く」

「………………言っていませんでしたか」

「ええ。全く」


 なるほど、と。

 複雑な表情で、姫は頷いて。


 抱きかかえられたまま、彼を見上げて、こう名乗った。




「改めまして。わたくしは、統一海洋帝国の『人魚姫』です。

 ――――す、すみません。夢中になって、そのあたりの説明がすっぽりと……」


 


 でも、と彼女は。

 ちょっと笑うような、戸惑うような、しかし幸せそうな表情で、こう続けた。


「その――すごいですね。陸の方が、サバそのものと結婚する気になる、って」

「……ええ」


 姫が言うのは、全くもっともな、ぐうの音も出ないくらいのことで。


 だから皇帝もまた、複雑な表情で――喜びと安心と、あるいは肩透かしと戸惑いと、諦めと恥じらいが混ざり合った――つまり。



 どこにでもいる。

 結婚相手の意外な一面を知った人間のような顔で。



 こんな風に、笑って言った。




「あなたの魅力の為せる業です」




(了)