86 面白い男
「最高です。クライさん。軽く確かめましたが目立った故障もありませんし、すぐにでも使えるくらいです」
「へー、良かったね」
数日ぶりにクランマスター室を訪れたシトリーは稀に見る機嫌の良さだった。いつも概ね笑顔だが、今の彼女は内心の喜びを隠し切れていない。
身体の線を隠すようなゆったりとしたカーキ色のローブはいつも通りだが、表情の質が違う。
「さっさと会場から退出したおかげで無事回収することができました。ご存知かもしれませんが、オークションの倉庫に侵入の形跡があったようです。何も盗られていなかったので公にはなっていませんが……」
「侵入……? ……リィズじゃないだろうね?」
オークションの品物がどこに保管されているのかはわからないが、ゼブルディアオークションは国主導のイベントだ。警備も相応だろうし、帝国の威信をかけている。そこに侵入だなんて頭がイかれてるとしか思えない。
僕の半ば冗談、半ば本気の問いにシトリーがキラキラした眼で言う。
「お姉ちゃんじゃありません。クライさん、ノト・コクレアは潰しましたが、彼は一研究部門の長でしかありません。つまり、まだこの国にはその根っこが残っている。アカシャは組織形態として、各研究部門は独立していて、一つ崩れたところで何の影響も出ないようになっています。私も他の研究室の事は噂でしか聞いたことがありません。ですが、ノト・コクレアは優秀な導師でした。かの研究部門が潰れたことで、その遺産を巡った動きが現れているんですッ! この隙に他の研究室についての情報を取得できるかもしれませんッ!」
正直、興味ないな。どうでもいい。
興奮したように話すシトリーに適当に相槌を打ちながら、待ち合わせのラウンジに向かう。
シトリーが嬉しそうな点については僕も嬉しいが、今僕の頭の中にあるのはいかにして仮面を手に入れるかだ。
エヴァは僕の指示通り、なんとかアークに言付けを届けてくれた。
集合場所はラウンジ。此処から先は僕の手腕にかかっている。
シトリーが隣を歩きながら一回転し、僕の右腕に抱きつき艶のある声をあげる。
テンションおかしくなってない? 今から交渉だって言うのに、気が散るんだけど?
「全てクライさんのおかげですッ! 研究室の金食い虫だったアカシャがたった十億で手に入ったばかりか、新たな道まで開いてくれるなんて――ああ、もう一度潜入を試みるか、あるいは叩き潰して成果だけ奪い取るべきか――――しかし相手は巨大組織、次はクライさんの事を警戒しているし、帝国も目を光らせている。本業もありますし、とっても悩ましいです」
どうやらシトリーは指名手配までされている秘密結社を相手にやる気満々のようだ。
もともとシトリーはアカシャを追っていたようだし、ハンターっていうのは皆こういうものなのだろうか。まったく気が知れない。
歩きづらそうにしているのに気づいたのか、シトリーが身体を離してくれる。
僕の個人的な意見としては……シトリーには余り危険な事はして欲しくない。彼女は戦闘職ではないのだ。
「まぁ落ち着きなよ、シトリー。目的の物も手に入ったんだし、取り敢えず時間を置いた方がいい」
相手は秘密結社で、こちらは大きなクランだ。迂闊に手を出してきたりはしないだろう。
そしてできれば、そのままアカシャの事は忘れてしまってください……。
シトリーは僕の言葉に、冷静さを取り戻したように小さく咳払いをした。
「なるほど……間を開けて相手を焦らすんですね。一気に攻めれば崩せそうですが、同時に攻撃時には守りも甘くなりかねない。少し慎重すぎる気もしますが……クライさんもいますし」
ちらりと上目遣いで見てくるシトリー。なんか僕の言いたいことが半分も伝わっていない気もするが、僕はもっともらしく頷いた。
「ハンターなら慎重すぎるくらいがちょうどいいと思うよ。それより、こっちを手伝って欲しいな。まぁ、手伝ってって言っても、もう金策くらいしかやることはないけどね」
お嬢様からアークに仮面が渡ったとして、アークもただで僕にそれをくれたりはしないだろう。
ハンターの基本は等価交換である。もしもただでくれたとしたらそれは――相当に大きな借りを作ったことになってしまう。
もう多方面に借りを作りまくっておいて何だが、それは避けたい。
シトリーは僕の完全にやる気のない声に、嫌な顔ひとつせずに言った。
「はい。喜んで。お金については、クライさんから伝えられなくても動くつもりでした」
そうだよね……結婚資金まで使っちゃったもんね。
今貧乏なのは僕もシトリーも同じだ。僕が借金してなければもっとマシだったのに、本当に申し訳ない。
いつか絶対返すから許してください。
シトリーがすっと腕を差し出し、僕の手を握る。まるで芸術品でも触るかのような丁寧な触り方だ。
熱い吐息を漏らし、頬を紅潮させて僕を見上げる。
「それで……クライさん。今回のお礼なんですが――少し考えたんですが、私の家に泊まりに来ませんか? 私にも時間がありますし、おもてなし、させてください」
「うーん…………また今度で」
「…………残念です」
シトリーが心底残念そうに瞳を伏せた。蕩けるような笑みで出されたお誘いを断るのは非常に心苦しいが、シトリーの誘いに乗るとダメ人間になってしまうのでしょうがない。
僕はクランハウスに住んでいるが、嘆きの亡霊の面々は皆、帝都に拠点を持っている。
姉のリィズは根無し草だが、シトリーは帝都の端の方にまぁまぁ大きな一軒家を持っていた。研究室兼住居のようだが、飛び抜けて豪華なわけでも広いわけでもなく、落ち着いた雰囲気で居心地のいいシトリー自慢の家だ。
そして、今まで数回ご招待に与った事があるが、シトリーの『おもてなし』は完全なダメ人間製造機だった。
そこで僕は何もする必要がない。あらゆる義務や責任から解放され、身の回りの事も全てシトリーがやってくれる。あらゆる欲求はくまなく満たされ時間の感覚は完全に麻痺し、僕は何かを考えたり我慢したりする必要すらない。
一番最初。もしも途中で異変に気づいたリィズが引っ張りに来なかったら、僕は今もその地獄のような天国で幸せに暮らしていた事だろう。意思の弱い人間にとってそれは、底なし沼のようなものだ。
うん。こういうとシトリーが悪いみたいに聞こえるけど、完全に僕が悪いね。彼女に悪気は一切ないね。
今では僕はそんな彼女のおもてなしを一種の精神の鍛錬のように認識していた。ただでさえここ数日はごろごろしていたのに、そんなところにいたら今度こそ廃人になってしまう。
ラウンジには、既にアークとその仲間たちが待っていた。
奥ゆかしくしかしそれに同時に芯の強さを持つ
やや僕に対する当たりが強い、遥か北方の地からやってきた
武者、レベル6のアルメル・ヘルストレムに、リィズからいつも絡まれていてこちらに苦手意識を持っているレベル6の盗賊のベネッタ。
そして華々しいパーティメンバーの中の黒一点――帝都最強の一人。《
整った容貌に明るい性格。そして力。全てを生まれ持った、勇者になるべくしてなるであろう男。
いつもの冒険者スタイルとも《足跡》の制服とも異なり、今日のアークは私服だった。だが、その佇まいには隙のようなものはない。表情は朗らかな笑顔だが、なんとも言えない威厳がある。忙しいはずだがその表情には疲労のようなものは浮かんでいない。
そして、対面には呼んだ記憶のないリィズが偉そうにふんぞり返っていた。僕を見つけると身を起こし、満面の笑みで大きく手を振る。
「クライちゃーん、こっちこっち。こんな楽しそうなことに呼んでくれないなんて、酷くない?」
アークはともかく、その仲間の目つきは余り好意的なものではない。予定もあっただろうに、突然呼びつけられおまけにコミュ障のリィズと対面する羽目になったのだからそれもまたやむなしか。
「これは……荒れそうだな。別に楽しい事とかないんだけど」
「私に、お任せください」
「交渉くらい一人で出来るよ。相手はアークだし、なんとかなる」
待たせないように早めに来たのに、アーク達の几帳面さが裏目に出てしまった形だ。
うちのパーティならば時間どおりには半分来ていればいいほうなのに、《
僕はせめて笑顔を作って手をあげる。アークもまた、いつもどおり朗らかに笑った。
「突然呼び出して悪かったね、アーク。許してくれ、緊急事態だったんだ。アークにとっても悪い話じゃないはずだ」
§ § §
面白い男。
アーク・ロダンにとって、《千変万化》を一言で表現するのならばそうなる。
トレジャーハンターの聖地である帝都ゼブルディアには毎年、外部から多数のハンターやハンター志望者が来訪する。
そして、それらの大部分は大成する前に引退することになる。宝物殿の探索に失敗し死亡する者もいれば、ハンター活動に支障をきたすような大怪我を負ったり、精神的な傷により二度と街から出られなくなった者もいる。
そして、それらを免れた幸運な者でも、そのほとんどが実力不足により帝都でやっていけなくなり拠点を他の都市に変える。
クライ・アンドリヒも、そんなごくありふれた田舎者の一人でしかなかった。
それも、もともと外でトレジャーハンターをやっていた経験者ではなく、この帝都にくるまで宝物殿の探索に従事したことのなかったハンター志望者だ。
帝都のトレジャーハンターの質はかなり高い。そんな帝都でトレジャーハンターになって成り上がれる者は本当に才能のある極一握りだけだ。
事前に多少の訓練をしていた所で、やっていける程、帝都の環境は甘くない。
多すぎるほどに存在する宝物殿。それらに揉まれ精錬された大勢のライバル達に、心の折れたハンター達を食い物にしようと虎視眈々と狙っている無頼漢。
物資も人も多ければ、それを狙った悪党も増える。帝都が住みやすいのは、ある程度の腕前を持ちそういった外敵を撃退できるハンターにとってのみなのだ。
それは、甘い幻想に惹かれて帝都にやってきたハンター達に対する洗礼と言えた。
だが、《嘆きの亡霊》はその尽くを退けた。宝物殿を、才能ある若者を目の敵にする大人気のない先輩ハンター達を、新人ハンターを好んで狙う犯罪者パーティ達を打ち破り凄まじい速度でその名声を高めていった。
その姿がアークの眼に止まったのは半ば必然だった。
《嘆きの亡霊》は常に血に塗れていた。
ハンターにとって、その力の根幹をなす要素はマナ・マテリアルだ。百年に一人の才能を持つハンター歴一年の男よりも、数十年、こつこつとマナ・マテリアルを蓄えた凡才の男の方が強い。
そして、その事実が、才能ある新人の芽を摘み取ろうとする者の動きに拍車を掛けている。
《嘆きの亡霊》の面々は皆、輝かんばかりの才能に満ちていた。それが、周囲の嫉妬を買った。
多数の妨害があった。命も狙われたし、嫌な噂もいくつも聞いた。しかし、それがパーティを著しく強化した。
いつの間にか食われる側から食う側になっていた。
不相応の夢を抱いた田舎者から、悍ましいまでの才能を持ち、あらゆる敵に容赦しない畏怖すべきパーティに変わっていた。
アーク・ロダンも帝都でハンターになった男だが、地盤は違った。
ロダン家にはノウハウがあった。名声があった。昔からハンターになるべくして厳しい鍛錬をこなし、ハンターになる前からいくつもの宝物殿を攻略していた。貴族の協力もあったし、仲間を集めるのも簡単だった。
まさしく――正反対だ。少なくとも、アークは《嘆きの亡霊》と自分のパーティを正反対だと思っている。
――そして、リーダーである者の質もまた。
相変わらず、面白い男だ。
対面に腰を下ろした黒髪の男は、数年前に最初に出会った時と何一つ変わらず、『最弱』だった。
神算鬼謀と呼ばれている事は知っている。そして、その言葉が未来視とすら呼べる程の的中率と範囲を誇っている事も。
だが、その要素を考慮しても――余りにも無さすぎる。
アークは自分よりも高レベルのハンターを何人か知っている。その中には《千変万化》同様、戦闘能力に限って言えば、アークよりも遥か下の者もいる。
だが、違う。高レベルハンター達には見て納得できるだけの力が、強さがあった。
だが、目の前の、確かに自分よりもレベルが高いはずの男には、実績を残しているはずの男には、それがない。
面白い男だ。余りにも強すぎるパーティのリーダーを担う余りにも弱すぎる男。
強い好奇心を刺激した。老舗や強豪のクランから多数のスカウトがあったアークのパーティが《始まりの足跡》に参加することになったのも、それが理由だ。
そして、未だその本質は見通せていない。
アークはよく、千変万化と比較されることがあるが、そもそも比較すること自体が誤りだ。
数値で比較することに意味はない。《銀星万雷》と《千変万化》は単純に比較出来る物ではない。
例えば、力を足したり引いたりしたところでその両者がイコールになることは決してないだろう。
恐らくは『格』ではなく、歩んでいる道――次元が違うのだ。
周りはその存在に嫉妬している。憧憬を抱いている者もいるし、敵視している者もいる。
アーク・ロダンは勝つべくして生まれてきた。一人で歩むべくして生まれてきた。故に、嫉妬を抱いたりしない。
あるのは初代ロダンから受け継がれてきた飽くなき探究心だけだ。
故に、アーク・ロダンとクライ・アンドリヒとの関係を言葉で示すのならば――『ライバル』でも『強敵』でもなく、『友人』という言葉に落ち着くのだろう。
ロダン家の用事で飛び回っていたアークをいきなり呼び出した男は、微塵も申し訳なさそうな表情を浮かべず、偉そうに腕を組んでいた。
いつもどおりの黒を基調とした洋服に、全ての指に嵌められた宝具の指輪。アークのパーティメンバー達が機嫌悪そうに向ける視線を意に介することもない。
「単刀直入に言うよ。今すぐエクレール嬢の所に行ってほしい。行けば全てわかる。僕とエクレール嬢が宝具の落札で競い合っていて、エクレール嬢が打ち勝った事は知っているよね?」
「ああ、ここ数日は忙しかったけど、聞いているよ。一応誤解のないよう言っておくが、あれはエクレール様が勝手にやったことで、私とは何も関係ない。彼女は年齢にしては聡明だし、悪い人間ではないんだが、暴走しがちな所があるようだ」
アークは暇ではない。ロダン家の一員として宝物殿を探索していない時にもやることは腐るほどある。
帝都がオークションで湧いている間もそれに関わる暇もなくずっとあちこちに呼ばれて出ていた。
《千変万化》が望んだ宝具がそれを理由で値上がりしているという話を聞いた時には思わず笑ってしまったし、何故かエクレール嬢がその競争に割って入ったと聞いた時には驚いたが、それだけだ。
クライの隣で背筋を伸ばし足を組んでいたリィズが、甲高い声で抗議する。
「えぇ!? 私が行こうと思っていたのに、アークちゃんに行かせるのぉ?」
「はぁ!? またアークさんをパシリにするつもり!? ただでさえアークさんも忙しいのに、自分で行きなさいよッ!」
即座に噛み付くパーティメンバーのイザベラに、アークは深々とため息をつく。
イザベラは優秀な魔導師だ。よくやってくれているが、挑発に弱いのとアークを軽んじられると我慢ならないことだけが玉に瑕だった。
「あぁっ!? てめえ、ただのアークちゃんの腰巾着のくせに、クライちゃんに舐めた口利いてんじゃねえ、ぶち殺すぞッ! てめえらに許された言葉は、『YES』だけだッ!」
「腰巾ッ!? ッ……上ッ等ッ……」
立ち上がりかける二人に、シトリーがにこにこしながら手を叩いた。
「まぁまぁ、お姉ちゃんもイザベラさんも落ち着いて。アークさんとクライさんが困ってますよ?」
「……チッ」
《嘆きの亡霊》と《聖霊の御子》。そのメンバーの一部が犬猿の仲なのはいつものことだ。
こんな事でいちいち話を止めていては話が進まない。
クライの表情はいつもと違い酷く真剣だった。その表情にアークも身を引き締める。
「言ったんだけど、聞かなかった。アーク、あの宝具は――ある意味危険なんだ。アーク、君ならばなんとかできる。多分ね。今すぐ行けば間に合うと思う」
相変わらず具体性のない言葉だ。だが、クライの言葉がいつも大事件を予期しているのは知っている。
幸い、アークは戦闘能力には自信がある。何が起こるのかは知らないが、声を掛けられるのはこれが初めてではない。
あらゆる疑問を一旦脇に置き、聞き返す。
「……武器はいるかい?」
「え……? ああ、いらないよ。むしろ持っていかない方がいいと思う」
武器がいらない……? 珍しいな。戦闘じゃないのか?
だが、危険といったはずだ。危険なのに……武器はいらない?
「……間に合わなかったら?」
眉を顰めて尋ねるアークに、クライは首を傾げると、困ったような表情で答えた。
「僕が悲しい」