最期の言葉

作者: lpp

初投稿です。

名無し探偵の事件簿、第一弾。

 消毒液の臭いが、飲み物のグラスを持ってきた女から漂ってきた。わたしの目の前には、彼女の夫が座っている。薄くなりかけている頭の、恰幅の良い、だが小ずるそうな小さな眼をした男だ。

「あの妻のためでもあるのです」

 は、と心の中で笑う。妻のためときた。

 彼女は楚々として、そっと部屋を出て行った後だった。

「あれは毎日、病院に通ってわたしの父の世話をしています。誰から見たって献身的にです。でも父は何が気に入らないのか、あれに辛く当たって、息子である私にも、それはそれは酷い無理を言ったり、興奮すると物を投げたり……。とにかく手が付けられないほど横暴に振舞うのです」

 この男の妻から病院の臭いがしたのはそのせいか。


 彼、ダラス氏の父親は大金持ちだ。世間ではそう言われている。今、わたしが上等なアルコールがほんの少し入った(今は昼間なのだ)グラスを傾けているこの旦那の書斎だって、センスの良い調度品がこれまた品良く、適切に配置されている。明らかに金の掛かる一流デザイナーの指示のもとに。


「妻は毎日のように父に小言や暴言を聞かされ、疲労と精神的苦痛でノイローゼになる寸前です。これも、本当に、言いにくいのですが……、恥ずかしながら、夫婦間の営みも絶えてしまい、カウンセリングに通っているような状態なのです」

 確かにミセス・ダラスはほっそりとしている。

 先ほど、失礼を省みずちらりとキッチンを覗いたところ、置かれていた料理雑誌などから、ミセスはダイエットにとても関心があるようだったが。

「我々はもう耐えられないのです。なんとか……」

 この男はわたしの仕事を勘違いしている。


「ミスター・ダラス、おっしゃる事は分かりました。しかしわたしは私立探偵です。犯罪行為を教唆することも、まして自ら実行する事もありえません」


 わたしは確かに私立探偵ではあったが、食いつなぐために大っぴらには言えない仕事をしていた時期もあった。


 十年間勤めていた警察を、昇進の見込みがなくなり、上司の机を思い切り蹴飛ばして辞めてからはや三年。わたしはわたしを警官として育ててくれた恩師を署長にと推し、対抗する別の派閥が勝ったというだけの話だが、それはわたしにとって出世という道からの完全なる転落を宣言されるものでもあった。


 恩師は退職したが、わたしは若く、何よりその上司となった男が嫌いだった。

 そしてその男の側に付かなかったわたしは捜査から故意にのけ者にされ、窓際に追いやられた。わたしの眼を見て笑った奴のへこんだデスクは、まだ残っているだろうか。


 そんな訳で今のやくざな生業に身を置いているのだが、元警官というのはこの商売には好都合な肩書きだった。依頼人からはそれだけで分かっている、できる探偵だと思われる。


 ときには警察の証拠集めに違法ぎりぎりの調査をしたり、警察が相手にしなかった事件を、被害者に頼まれて洗い出した事もある。身辺調査、浮気調査など、一般的な探偵の業務もきちんとこなせてきたと思う。

 しかしもちろん、探偵業は大小さまざまあるわけで、個人の弱小事務所などでは食うに困る事もあり、初めの頃はベビーシッターの真似事や、税理士より安い費用で裏帳簿の隠し場所をアドバイスしたり、都市部から車で二時間の農家に畑を耕す手伝いに行った事もある。探偵というよりも何でも屋と言った方がより当てはまっただろう。いや、当てはまると現在形で語る方が正しい。いまだに噂を聞きつけて、こうしたよく分からない依頼がくるのだから。


「父は、言ってみればもう死んでいるようなものなのです。大変な金を掛けて機械に繋がれていなければ生きていけないのですよ」

「それで、わたしに何をしろと?」


 この一族は、いまだに老トマス・ダラスが一代で築き上げた財産を尻の下に敷いて暮らしているのだろう。息子たちはそれを自分のものにしたいのだ。あわよくば、目の上のたんこぶには天国にご退場願って。

 ダラス・ジュニア、デビッドは、さっきから汗など出ていないのにハンカチをしきりに額に当てている。落ち着かない男だ。

「わたしは……、父が、延命を、終わりにしてくれないかと」

 デビッドは苦心して言葉を選びながら話しているようだ。

「周りの者をこんなに苦しめてまで……」

 自分の稼いだ金で自分の命を買っているのだから、別に良いではないか。しかし身内に殺意を抱かせるほどのその老人の暴挙とはよほどのことなのか。

「つまり、説得ですか」

 本当にこの息子が言っている事は正しく、疲れ果て、救いを求めているのなら、何とかしてやらないこともないのだが。無論、法には触れない方法で。




 病院は嫌いだ。


 警官時代に一度、小さい鉄の弾に太ももの肉を持っていかれ、リハビリを兼ねてひと月ほど世話になった事がある。小さい頃から殆ど病院に縁のない健康優良児だったわたしは、入院初日から退院する日を夢に見るほど落ち着かなかった。枕を変えて寝付けないほど繊細ではないが、絶えず人の目がある白い空間に全く馴染めなかったのだ。


 あのひと月は拷問のような日々だった。退屈まぎれに首を括る衝動をどうやって堪えたのか、ある意味奇跡のようなものだと思っている。


 そして今まさに、綺麗に整えられた病院の個室で、わたしは何本ものコードで大きな機械に繋がれている小柄な老人に怒鳴り散らされている。

 本当に、病院は良かったためしがない。


「いや、父が失礼をしまして……」

 全くだ。

「いえ、紹介の仕方が悪かったのかもしれないですね」

 デビッド・ダラスは、またハンカチで額を擦っている。わたしは彼の友人という事にし、彼の父上へ紹介される栄誉を賜った訳だが、開口一番、老人は唾を飛ばしてわたしの見た目をなじり、デビッドの友人だという事をなじり、真っ昼間からのこのこと病院に来るやくざものめとなじり、挙句にデビッドの細君、メアリのワンピースの水玉模様をなじった。

 あのじじいが本当に機械がないと生きられないなど、何かの冗談ではなかろうか。

「あの通りなんです。父とはいえ、わたしも妻も限界です」

 違いない。だからといって、あのじじいの点滴に心室細動を引き起こすイソプロテなんとかを大量に混ぜてみたらどうです、とも言えない。

 この息子、ある日突然プツンと切れて、実行しないとも限らないのだ。

 それにしても、何と取りつく島もない一枚岩。

「お父上はわたしなどに説得されそうもありませんよ」

 私は心からそう思い、デビッドはいかにもといったように肩を落とした。

「陥落させるべきなのは、お義父様の弁護士よ」

 ほっそりしたメアリ・ダラス。とんだ伏兵。

 彼女は今こそ、持って生まれた知的才覚を発揮して光り輝いて見えた。



 トマス・ダラスの弁護士とは、実は初見ではない。


「やあ、君。どうですかね、調子の方は」

「まあまあですよ、ミスタ・マクブライド」

 彼の事務所は相変わらず雑多だ。弁護士にしておくには惜しいような美脚のブロンド女性が、書類を抱えて颯爽と通り過ぎる。

「こちらへ」

 彼の個室へ通され、向かいに腰掛けた。


 老トマス・ダラスは、マクブライドの上客だ。老トマスは自分の弁護士にも大金を掛けている。ゆえに弁護士も、自分の身だしなみに大金を掛けられる。


「それで、どうですか、息子夫婦は」

 わたしとそう歳の離れていないであろう若い弁護士は、皺ひとつないスーツを軽く引っ張り整えながら言った。

 そう、わたしの本来の、いや初めの依頼人は、老トマスだ。この弁護士を通じて、息子夫婦が何をしようとしているか探ってくれと頼まれていたのだ。

 マクブライトはドル箱老人のために自分の役割を果たして、融通のきく探偵を探し出し、息子夫婦に引き合わせた。さも弁護士本人は息子夫婦の見方だとでもいうようなふりをして。

 何でも屋として紹介されたわたしは、予想通り、犯罪をほのめかすような相談を受けてしまった。結果、老トマスの憂い事には答えられたのだが。


「確かに、デビッド・ダラス夫妻はお父上にいなくなって貰いたいようですがね、殺しまではしないでしょう。そんな度量あるようには見えません」

 弁護士は綺麗に剃られた顎を擦りながら、心得顔で頷いた。

「そうでしょうとも、わたしもあの夫婦にそんな大それた事ができるとは思いませんよ」

 若い弁護士が不敵に笑う。

「まだあの頑固な老人は、遺言を書いていないのだから」

 ここまで説得力のある言葉は、そうないだろう。


 弁護士は、わたしが遠まわしに言った息子夫婦の本意をトマスにそのまま話すだろうか?

 わたしは現在も、老トマスと、彼の息子と、二重の依頼を受けている。どちらの信用も失わず、どちらも満足させるために、これからどれほど骨を折らなければならなくなるだろう。気が重くなった。


 次の日、弁護士に電話で呼び出され、ますます気が重くなった。

 老トマスがお呼びだという。




 トマスとは二度目の顔合わせだ。一度目はもちろん、彼の息子と仲良く並んで怒鳴り散らされた日だ。

 老人はお前だったかと言わんばかりに眉根を引き上げた。覚えているとは、本当に矍鑠としてやがる。

 弁護士は如才なく老人にわたしを紹介し、わたしに向き直った。にっこりと仕事用の笑みを浮かべ、病室を出て行く。

 老人は怒鳴りこそしないものの、わたしを睨みつけながら口を開いた。

「息子はわたしを殺そうとしているのだな」

「正確には、いいえ」

 老人は憤慨しているのか? わたしは誤解を避けるため、できるだけ正確に、わたしが見てきた息子夫婦の様子を述べた。老人はふん、と鼻を鳴らしながら聞いている。


「わたしが死んだら、さぞ喜ぶだろうな」

 きっぱり、イエスだ。

 重苦しい。やっぱり病院は大嫌いだ。




 それからほんの数週間後の事だった。マクブライド弁護士から電話で、トマス・ダラス氏が亡くなったというニュースを知った。


 わたしがその訃報を受け取った頃、警察が動き出し、マスコミも騒ぎ出した。

 トマスは、きっちりと遺言状を書き終え亡くなったのだ。

 息子への遺言を残した途端の死亡。世間は騒がずにいられなかったとみえる。あちこちの新聞やニュースで大金持ちの老人の訃報が流され、息子夫婦は表舞台に引きずり出される形となった。ただし、公衆の面前に立つときは狡猾なマクブライドが常に付き添い、二人を巧みに庇っていた。


 そんなマクブライドに呼び出されたのは、トマス氏の通夜を明日に控えた晩だった。


 彼の事務所は、時間が時間なだけにひっそりとしている。 

 弁護士は腰掛けたわたしに意外な一言をくれた。

「トマス氏はあなたを気に入っておられたのですよ。良い目をしている、あの男は頭が良さそうだ、とね」

 成程、故トマス氏もなかなか人を見る目があったようだ。この弁護士が気に入られたのも頷ける。

「なんだか、消化不良のまま終わってしまいました」

 私は本心から言った。せっかく能力を買われたのに、依頼主が他界してこんな結果だ。わたしは苦笑いをした。

「ご遺体が返ってきたという事は、検死も終わったのでしょうね」

 弁護士が辛辣に鼻で笑う。

「ええ。老衰による心筋梗塞以外の、何の結果も得られないままね。ところで」

 弁護士は視線をわたしに据えた。

「あなたは世間の噂など信じておられないでしょうね? デビッド・ダラス夫妻は無実ですよ。トマス氏は老衰で亡くなった。確かです」

 別に疑っていない、と言えば嘘になるが、デビッドの有罪の証拠こそ何もない。さぞかし入念に検められたであろう検死が終わった今、不審な点がなければそういう事だ。

「実はトマス氏なんですがね、実情は、そんなに財産を残していないんです。じきにマスコミが嗅ぎつけるでしょうね」

 わたしはぎょっとした顔をしたのだろう。愉快そうに弁護士が続ける。

「トマス氏は、命を削って蓄えたお金で命を永らえていたのですよ。息子夫婦には、せいぜいあの広い屋敷とわずかな現金、債券が残っているだけです。そんなこんなで、遺言状も書き終え、気が弛んだのでしょうね」

「あなたは?」

 わたしは堪らず口を開いた。

「わたし? わたしはダラス氏から頂いた仕事料分、働くだけですよ」

 マクブライドは一番上の抽斗の鍵を開けて、中から畳まれた紙を取り出す。それをおもむろにわたしに向けて差し出した。

「トマス氏からの遺言です。あなたにこれを遂行して欲しいと」

 その紙は封もされていなかったが、故トマスの震える手が書き残したサインが躍っていた。


 弁護士はにっこりと仕事用の微笑を浮かべ、新たな依頼の報酬を提示した。




 あの弁護士は大した男だった。あの男、桁外れの報酬さえ弾めば、そこら辺の農夫を大統領に仕立て上げる事もできるのではないだろうか。彼は表に裏に立ち回って、法廷に立たせるまでもなく、すっかりデビッド・ダラス氏の無実を世間に納得させた。


 デビッドは気の弱い、人の良い男で通っていたし、妻メアリの、故トマスに対する献身的介護も良く知られていた。二人を悪し様に言う者は一人もいなかった。弁護士の采配は、夫婦の名誉も守った。


 遺言を書いた直後とはいえ、いつ死亡してもおかしくない老人だった事もあり、遺体に不審な点が何もない。この件は事件性はないと判断され、警察は捜査を中止し、マスコミは別の事件を追い始めた。




 通夜に尋ねて来る人々は、皆口数が少なかった。故人の生前の言動を考えると、それは仕方のない事だと思うが。

 デビッドとメアリはしっかりしていた。二人の顔色は、むしろ以前より良くなっているように見える。

 二人は、参列しているわたしに気付くと、具合悪そうに微笑んだ。


 通夜が終わり、参列者はのろのろと帰り始めた。


 マクブライドがそっと夫妻に近寄り、お悔やみの言葉とともに、困ったことがあればご相談に乗ります、と愛想を浮かべた。その困ったことが現実に起きたとき、彼の仕事料は夫妻にはとても支払えなくなっているだろう。実際、デビッドに故トマスのような金儲けの素質はなく、マクブライドは有能で大変なやり手だからだ。


「いやあ、やっと肩の荷が下りたような気分です」

 デビッドが、極まり悪い笑みを浮かべたまま言った。

「私たち、あんなことを言ったけれど、本当に殺してなんかいませんわ」

 メアリがすかさず付け加えた。

 参列者は皆退散していた。以前わたしに言った「あんなこと」を彼らが打ち消したいがために、わたしは彼らに付き合って残っている。


「ああ、でも、なんて気分が良いのかしら。やっと解放されたのよ。遺産は殆どなかったけれど……」

 二人は心の底から安堵していた。わたしがいてもお構いなしだ。とにかく土地と家は自分たちのものとなったのだし、少なくともあの老人に身ひとつで放り出される心配は不要となったのだ。

 しかしわたしは、もうひとつ、仕事が残っていた。故トマス氏の最期の依頼を果たさなければならない。


「あなた方のお父上は」

 わたしは、二人がわたしの言葉に注目するのを待って続けた。

「あなた方のお父上、トマス・ダラスは、あなたがたに自分が死んだ後、悲しむことのないようにと心を砕かれておられました。あなたがたに辛く当たったのもそのためです」

 ふたりが息を呑むのが分かった。 

「彼は機械の世話にならなければ生きてゆけない自分を誰よりも疎ましく思っておられました。いっそ嫌われ、見限られ、そしてあなたがたの手を煩わせることなくひっそりと世を去りたいと願っておられたのです」

 わたしは、デビッド・ダラスとメアリがこの言葉を消化できるように、ゆっくりと語った。そして一文ごとに間を空けた。ふたりは目を見開いたまま動かない。

「しかしあなたがたは変わらずトマス氏に尽くされた。トマス氏はわたしに話しながら、涙ぐんでおられました」

 デビッドの眼が、こころなしか潤んできた。顔が高揚している。

「あの優しい息子と嫁に嫌われなければ、これ以上あの二人が私のことで苦しんだりせず、さっさと忘れて幸せになって貰わなければ、そう言っておられました。本当にお辛そうに」

 微動だにしないメアリの目から涙がこぼれた。

 彼らの曇った心を浄化するような、美しい涙だった。

「……ベッドに繋がれ、酷い態度をとることしかできないわが身を悔んでもおられました。あのかたは、あなたがたを心から想っていたのだと思います……」


「もういい」

 デビッド・ダラスが開口した。

「もういいです。わたしたちが愚かでした。父が死んで欲しいなど、何と恐ろしいことを考えていたのか……魔が差したとしたとしか思えません」

 彼は声を詰まらせながら言った。

「妻も、どうかしていたんです。わたしたち二人とも」

 わたしは彼らの涙ながらの訴えを黙って聞いていた。自然に、そうあるように彼らは互いに抱き合い、亡き父への謝罪を繰り返し、後悔の涙を流し続けた。




 今回の仕事は、我ながら上出来だったと自負している。


 報酬も良かった。もちろん、トマス・ダラス氏からの依頼に付いてきた報酬だ。

 あの二人が気付かなくて良かった。

 冷静になってから、二人は考えるだろうか?

 わたしの言ったような言葉は、わたしなどではなく、彼の弁護士にことづければ用が足りることを。


 彼の最期の言葉、震える字で書かれた私への依頼はこうだった。




『あいつらに思い知らせてくれ。わたしが死んでからも一生、罪の意識を抱えて生きるように』




 わたしは上手くやったと思う。


 トマス氏は、わたしが出会った中でも他の追随を許さぬほど、いっそすがすがしいまでに根性の捻じ曲がった人間だった。


 しかし、これであの夫婦が芯から悔い改めるならば、それは彼らにとって良いことだし、トマス氏がこの世で行った唯一の善行となるのではないだろうか。




――――了

初投稿でした。

読んで下さった方々に、有難う御座いました。