第15話 王手 ⑤
大変長らくお待たせ致しました。
★
天道まりかの全身強化魔法『天ノ羽衣』は、通常の全身強化魔法とは大きく異なる。己の魔力生成器官を意図的に暴走させることで、限界以上の力を出すことができる技法を織り交ぜた魔法だからだ。
暴走段階は9つに分けられており、まりかが発現したのはその最終段階である『天門ノ九』。無意識下で放出される魔力全てに天属性が付加され、濃密過ぎるが故に可視化できるようになったそれは、あたかも天女の羽衣のようにまりかの身体に纏われている。
まりかが空へと手を伸ばす。
手のひらにはいつの間にか錫杖が握られていた。
透明色でありながらも、濃密な天属性の魔力が凝縮することによって生み出されたそれは、陽の光を反射しながら圧倒的な存在感を放っている。まりかが軽く一振りすれば、頭部の輪形に通された計9つの遊環がぶつかり合い澄んだ音を鳴らした。
視界の先。
凝縮された一点の闇を見据えてまりかは呟く。
「終わらせようか、犯罪者」
そんな呟きは、距離の関係から蟒蛇雀には届かない。
彼女の発現した『常闇の宮』は、空間掌握型魔法に分類される魔法だ。闇属性の付加能力は『吸収』。そしてこの『常闇の宮』は、蟒蛇雀の持つ無系統魔法『強化』の効果によって、その効果範囲を拡大させたものである。
最大効果範囲は半径5kmにも及ぶが、効果範囲を広げれば広げるほど吸収能力は落ちる。ただ、蟒蛇雀は今回、空間掌握型魔法の最大の強みである射程距離を捨てた。法術換装は、魔法を自らの身体へと換装する技法を指す。法術換装『閻魔』により、蟒蛇雀は本来自らの周囲へと展開するはずだった空間掌握型魔法を自らの身に纏った。
効果範囲を広げるほど吸収能力が落ちる。
それは、裏を返せば効果範囲を狭めるほど吸収能力が上がるということ。
法術換装『閻魔』は、蟒蛇雀の全身を黒い靄で覆い禍々しいオーラを放出している。しかし、その外見に反して吸収の効力を発揮するのは、蟒蛇雀の身体に直接触れた時のみ。ただの吸収と侮るなかれ。効果範囲を敢えてゼロに縛ることにより得られた効力は、並みの魔法使いであれば即死するほどの吸収能力を備えている。
「楽しくなってきたねぇ、お二人さん」
己に突き刺さる視線。
そちらへと目を向ければ、中条聖夜が蟒蛇雀へと手を掲げるところだった。
☆
蟒蛇雀の身体が気化した。
気化した箇所は、蟒蛇雀の左肩。
俺が『神の書き換え作業術』発現のために視点を合わせた箇所だった。
「――こいつっ!」
にんまりと蟒蛇雀が嗤う。
発現の兆候から『神の書き換え作業術』の発現を察知。
原型を失くすことで、俺の無系統を強制キャンセルしやがった。
「ねぇねぇ」
着地。
瓦礫の山へと着地した俺の眼前へ一歩で距離を詰めた蟒蛇雀は言う。
唇が触れ合いそうな距離。
話すために口を開くだけで吐息を感じられるほどの近さ。
眼前いっぱいに映る蟒蛇雀は言う。
「いっぱい楽しみましょうね。どちらかが死ぬまで」
ぞわり、と。
悪寒が身体中を駆け巡る。
反射で手刀を振るおうとして、更なる悪寒。
確証は無い。
しかし、脳内に鳴り響くアラームに従い腕を止める。
その行動を見た蟒蛇雀は、口角を三日月のように釣り上げた。
「正解」
伸びてくる腕を躱す。
すぐに『神の書き換え作業術』を用いてその場から転移した。
澄んだ音が鳴る。
手にした錫杖を振るいながら、天道まりかが蟒蛇雀へと襲い掛かった。舌打ちした蟒蛇雀が屈むことでそれを躱す。同時に、中条聖夜へと伸ばしていた腕を天道まりかへ向けた。僅かに顔をしかめた天道まりかが錫杖を振るう。蟒蛇雀の伸ばした腕は、錫杖によって肘辺りから切断された。
「――づっ!? 当然のように有効打を与えやがって……。痛ぇなァ、メスガキがァ!」
蟒蛇雀が咆哮する。
その身体から膨大な魔力が吹き荒れた。余波で周囲の建物が瞬く間に瓦礫へと変貌していく。その衝撃波を片手で払った天道まりかが錫杖を振るう。遊還が錫杖の頭部から外れて四方八方へと飛び散った。
その数は、九。
「『九天』」
それら1つひとつを触媒として、透明色に煌く天蓋魔法が発現された。
ただ、疑問もある。天道まりかは呪文詠唱を用いなくても天蓋魔法を発現することができたはずだ。にも拘らず、なぜ触媒を使用してまで天蓋魔法を発現したのか。本来必要の無いものをあえて用いる。意図。単純に考えるなら二通り。ひとつは、9つもの天蓋魔法を同時発現するためには、流石の天道家であっても触媒無しでは実現できないから。もうひとつは――。
「まさか……」
触媒の有無によって威力や規模が変わる場合。
そんなもの、避難の完了していない街中で扱っていいものでは無いぞ。
「『純黒の必穿槍』」
嫌な予感によって埋め尽くされた俺の思考回路に差し込まれた、新たなる火種。見れば、蟒蛇雀の右腕は既に再生されており、その手のひらには陽の光を一切反射しない真っ黒な槍が握られていた。
舌打ち1つ。
すぐに『神の書き換え作業術』を発現する。
あれはまずい。
あの魔法は良く憶えている。
師匠の五重に張り巡らされた結界魔法を突き破った魔法だ。
今まさにその凶弾を放とうと振りかぶる蟒蛇雀の正面へと転移する。規格外の魔力が吹き荒れる現状では、俺の無系統魔法による『発現の兆候』は察知できなかったらしい。突如として目の前に現れた俺の姿を捉え、振りかぶった状態の蟒蛇雀は僅かにその身体を硬直させた。
その一瞬の隙を突く。
蟒蛇雀の視界を遮るようにして、俺は己の掌を掲げた。
そして。
「くたばれ」
――『不可視の墜滅』
第一段階『魔力暴走』の状態であること。
そして、魔力濃度が高い魔法世界という環境下であること。
この2つの条件が合致した結果――。
鳥肌が立つほどに悍ましいオーラを漂わせる蟒蛇雀は、光を反射しない槍を抱えたまま地面に叩きつけられた。そして、その地面ごと陥没して地中深くまで沈んでいく。周囲一帯も蜘蛛の巣が張り巡らされたような亀裂が生まれ、次の瞬間には陥没していた。
やり過ぎた、と頭の理解が追い付いた時には、深さ30m以上にもなる半球体状の穴が生まれていた。まるで隕石でも着弾したのでは、と思ってしまうほどのクレーターだった。
「中条聖夜! 下がれ!」
遥か上から声。
「おい! それを起動させないために俺は――」
伝え切る前に、天道まりかの天蓋魔法が起動した。
やむを得ず『神の書き換え作業術』を発現してその場を離れる。
それはもはや、透明色の巨大な柱だ。
巨大な柱に見える透明色の奔流が、蟒蛇雀のいるクレーターを圧し潰した。
余波が街並みを崩していく。
衝撃波の津波が、全てを圧し流してしまう。
「くそ……」
轟音のせいで他の音がまったく耳に入って来ない。
巻き込まれた奴はいないか?
天道まりかはそこまで気を回せているのか?
分からない。
天道まりかによる無慈悲の砲撃がようやく止まんとする頃。
透明色の奔流に呑まれた中心から黒い一筋の線が奔った。
「あいつ、まだ――」
天道まりかの猛攻を耐え忍んだのだ。
あれが天蓋魔法にぶち当たるのはまずい。
そう考えた俺は咄嗟に座標を合わせようとして――。
視界が黒く染まった。
思わず反射で身体を仰け反らす。
それは正解だった。
黒の正体は伸ばされた蟒蛇雀の手。突き出された手のひらを紙一重で躱した俺は、更に『神の書き換え作業術』を発現させることで距離を離す。しかし、蟒蛇雀が追従してきた。突き込まれる手刀を躱す。肘うちを躱す。回し蹴りを躱す。蟒蛇雀から繰り出される攻撃行動の全てを回避のみで対応した。
轟音。
蟒蛇雀の相手で必死になっている俺は視認できなかったが、蟒蛇雀が投擲した光を反射しない槍が何かにぶつかったのだろう。天道まりかが防いだのか、それとも展開していた天蓋魔法の1つが撃ち抜かれたのか。
回避を続ける途中、視界の端に入った瓦礫。それを『神の書き換え作業術』で転移させる。場所は俺と蟒蛇雀の間だ。蟒蛇雀が俺の姿を見失う。その一瞬の隙を突いて、俺はその場から離脱――。
――できない。
ブラインドとして利用した大きな瓦礫。死角に入った敵の行動を警戒し、普通なら次の行動に大なり小なり警戒が生じると思っていた。しかし、蟒蛇雀の思考回路は常人のそれとは大きく異なるらしい。この女はノータイムで瓦礫を突き壊し、俺との距離を再び縮めてきた。
「ああ、そうだよな! てめぇはそういう奴だったよな!」
自棄になりながらもそう叫ぶ。
ウリウムが水属性の障壁魔法『激流の壁』を発現した。
しかし、蟒蛇雀がそれに触れた瞬間、溶けるように消え去ってしまう。
《うそっ!?》
ウリウムの驚愕の声が俺の耳だけに響く。
溶けたように消えて見えたが違う。
あれは吸収だ。
やはり、この女に触れないようにするという選択は正解だ。
こいつ、さっきの周囲に引き延ばしていた闇を自分の身体に纏ってやがるな。
ただの闇属性の強化魔法とはわけが違うぞ。
だが――。
先ほど、天道まりかが魔力から生み出した錫杖は、しっかりと蟒蛇雀の片腕を切断していた。つまりそれは、吸収の能力にも限界があり、それを越えた場合は間違いなくダメージが通ることを示している。
ならば。
「覚悟決めなきゃ、勝てるものも勝てねぇよな!!」
魔力を込める。
暴走状態によって溢れ出している俺の魔力を。
ここで初めて、攻撃一辺倒だった蟒蛇雀の動きが鈍る。
「逃がさねぇよ」
距離を取ろうとする蟒蛇雀の腕を掴んだ。
ごっそりと魔力が抜けていく感覚。
それでも手は離さない。
蟒蛇雀が気化することも無かった。
蟒蛇雀の両目が極限まで見開かれるのを見届けて、振りかぶった拳を叩きつける。「ぐぎゃ」という声を最後に、俺の拳を顔面で受け止めた蟒蛇雀は流れ星のようにして地面へと着弾した。
《マスター、今、貴方の攻撃が――》
ウリウムが何やら話しかけてきたが、その言葉は直ぐに中断することになる。地面へと着弾した蟒蛇雀が、もうもうと立ち昇る煙の中から攻撃を仕掛けてきたからだ。数えるのも億劫になるくらいの、無数の黒い線が鞭のようにしなり、縦横無尽に周囲を攻撃している。
俺はその攻撃を必死に回避している『脚本家』の分身体を拾い上げ、『神の書き換え作業術』を使用して射程の外へと避難した。
そこで、俺はようやく周囲へと視線を向ける機会を得る。
「……酷いな、これは」
無数に空いたクレーター。
崩壊した民家。
耐えずどこからか聞こえてくる悲鳴。
燃え上がる火や煙。
這い回る亀裂。
これを自分たちがやったのだと考えるとくらくらしてくる。
「いい加減に沈め!!」
天道まりかが吠えるように叫んだ。
残された8つの天蓋魔法が、再び蟒蛇雀へと集中砲火を開始する。
雨のように魔法球が降り注ぐ。
空から見ていても分かるほどに、地面が揺れている。
逃げ惑っている住民からすれば、地獄のような光景に見えているだろう。
事実、地獄だ。
天道まりかが放った魔法球の一部は、蟒蛇雀の黒い鞭によって弾き返され、街並みの至る所に着弾して爆ぜている。あんなもの、1発でも喰らえば致命傷だろう。魔法に適性の無い者なら肉片も残らず即死するかもしれない。
きっとそれは、天道まりかにも分かっている。
しかし、迂闊に近接戦を挑めるほど、奴は甘くない。
それも分かっているからこそ、今の手段しか取れていないのだ。
このまま市街地戦を続けるのは得策ではない。
攻撃の余波だけでこの有様なのだ。
仮に、蟒蛇雀が無差別攻撃を始めたらどうする?
奴の意識は、今のところ俺と天道まりかに向いている。周囲に遠慮する必要が無いから、余波のせいで街に被害は及んでいるが、悪い言い方をすればそれだけだ。
蟒蛇雀がなりふり構わず攻撃を始めたら? 俺や天道まりかが周囲に被害を広めたくないことを逆手に取り、敢えて市街地に攻撃を仕掛け始めてしまったら? 可能性はゼロではない。いや、アイツの性格ならやりかねない。むしろ、大人しく俺と天道まりかの戦いに付き合っている今のあいつが異常なのだ。
蟒蛇雀に良心を求めてはいけない。
それは、初めて会ったあの日から、既に分かっていたはずだろう。
大きく息を吸う。
そして吐く。
覚悟を決めろ。
できるのは、俺しかいない。
★
かつて。
御堂縁が、青藍魔法学園で蔵屋敷鈴音へと語った言葉。
『中条君より先に、俺が蟒蛇雀と対峙できればこちらの勝ち』
『中条君が、天地神明より先に蟒蛇雀と対峙してしまえばこちらの負けだ』
これは、昔『脚本家』が、御堂縁へと告げた警告。
つまるところ、中条聖夜が蟒蛇雀と相対してしまった時点で既に負けは決まっていた。中条聖夜を王立エルトクリア魔法学習院へと転移させたのは、他ならぬ『脚本家』。しかし、中条聖夜は更に前から蟒蛇雀との邂逅を果たしている。
未来改変のため、何度もやり直した修学旅行?
違う。
スペードから宣戦布告を受けたアギルメスタ杯?
違う。
もっと前。
一気呵成が一攫千金や合縁奇縁らを率いて青藍魔法学園へと攻めてきた時のこと。この時に、中条聖夜は蟒蛇雀との邂逅を果たしてしまっていた。
故に『脚本家』は、計画の変更を余儀なくされていた。精霊王の一柱であるライオネルタの予言は当たる。絶対と言い切れないのは、己と同格の存在である他の精霊王が介入した際に未来が変わるからだ。ライオネルタですら外しかねない未来を『脚本家』が見通せるはずも無い。
中条聖夜が下すこの選択は、必然だった。
あの日の夜から決まっていた。
リナリー・エヴァンスに頼るしかない己の無力さに歯噛みした夜に。
その存在を強く意識し、ようやく助力はあれど渡り合えるほどの実力を手にした摩天楼の上で。
予定調和のようにしてその結論に至った中条聖夜。
その決断は簡単なもの。
中条聖夜は、助力を乞うのではなく、己の手でこの脅威を戦場から遠ざけることにしたのだ。
覚悟が決まってからは早かった。
身体強化魔法という最低限の魔法のみを使用し、中条聖夜は蟒蛇雀との距離を詰める。
不意に何の対策も無く。
無系統魔法を使用することも無く。
馬鹿正直に、真正面から距離を詰めてきた中条聖夜。
天道まりかの放つ魔法球の雨を潜り抜け、文字通り最短経路でやってきたその男を見て、理解が追い付かない蟒蛇雀は思わず振り回していた無数の鞭の動きを止める。中条聖夜は、自らの両手で躊躇いなく蟒蛇雀の両肩を掴んだ。
「あ、アンタ何を――」
「一緒に来てくれるか」
きちんと言葉を交わして同じ結論に至る。そんな当たり前のような会話が中条聖夜と蟒蛇雀の間に成立したのは、これが初めてのことだったのかもしれない。
「死ぬまで遣り合おう」
数秒遅れて、満面の笑み。
「いいわよ。どこでやる?」
魔法世界の地図は、大雑把なものではあるが中条聖夜の頭の中にも入っている。その中で、周囲への気兼ねなく、かつ『ユグドラシル』との戦争においてもっとも影響力の無い場所と言えば1つしかない。
「危険区域ガルダー」
にんまりと蟒蛇雀は嗤った。
「いいわね」と。そう続けた。
夥しいほどの攻撃で立ち上る煙によって、天道まりかは蟒蛇雀の姿を視認できていない。もしかすると、中条聖夜が蟒蛇雀のもとへと到達していることにすら気付いていないかもしれない。だからこそ、中条聖夜の頭上へ天道まりかの魔法球が降り注ぐことも、致し方の無いことであると言える。
それを払ったのは、あろうことか中条聖夜の目の前にいる蟒蛇雀。その背中から無数に生やした黒い鞭が、まるで中条聖夜守らんとするかのような動きを見せている。しかし、それも必然だった。なぜなら、今、この場において、中条聖夜と蟒蛇雀の利害関係は一致しているからだ。中条聖夜は、自分が守られて当然だと考えているし、蟒蛇雀は、自分が守って当然だと考えている。
天道まりかは転移対象には含めない。
中条聖夜の『神の書き換え作業術』は、転移距離と転移対象の魔力保有量・放出量が発現の際に消費する魔力量と比例している。いくら魔力濃度の高い魔法世界内とはいえ、個々が限界を超えた魔力を放出し続けている者たちの転移は、2人までが限界だったのである。
それを本能で感じ取っていた中条聖夜は、最初から3人での転移は諦め、転移対象を自分と蟒蛇雀の2名に固定した。『脚本家』の分身体も当然ながら対象から外れている。残った天道まりかに後は任せる心算だった。
中条聖夜は気付いていない。
この選択こそが、今回の戦争の結果を左右するものであることを。
この選択1つで未来が変わる、重要な岐路へと立っていたことを。
しかし、ここで下された決断は、あらかじめ決められていたものだった。青藍魔法学園で邂逅を果たしたあの夜から、変えようのない既定路線だった。
だからこそ。
当たり前のように1対1を申し出た中条聖夜は、当たり前のように受け入れた蟒蛇雀を連れて、2人揃って中央都市リスティルから姿を消した。例え居場所が分かったとしても、両陣営からの援軍が間に合うはずも無い危険区域ガルダー、その奥地へと。
――――中条聖夜の死は、ここで確定した。
★
「うっ……」
宗教都市アメン。
都市の端にひっそりと佇む『始まりの魔法使い』メイジの神殿。
その最奥にて、聖女セイラ・エルサレーネは不意に訪れた眩暈に足をもつれさせ、壁へと寄り掛かった。
いつもは静かな宗教都市アメンだが、今日は見紛うほどに騒がしい。その理由は分かっている。創造都市メルティと中央都市リスティルで、それぞれ戦闘行為による甚大な被害が確認されているからだ。
前者は、珍しく学習院の講義へ顔を出していたアメリカ合衆国『断罪者』総隊長がその場を鎮圧したとのことで、現在はその被害状況の確認に追われている。対して後者については市街地で大規模な魔法戦が勃発しているらしく、現在も被害は拡大中らしい。聖女セイラのもとには、絶えず新しい情報が舞い込んできているが、未だ戦闘が終息したとの情報は耳にしていない。
もっとも、宗教都市アメンが騒がしいとはいえ、聖女の住まう神域の静謐さはそのまま保たれていた。外部からの喧騒、その一切を遮断したかのようなこの場所は、聖女の身じろぎ1つで生じる布の擦れ合う音すらうるさく聞こえてしまうほどだった。
そんな中、聖女セイラはふらついた足で椅子へと向かい、倒れ込むようにして腰を下ろす。眩暈の原因は繰り返し報告される被害によるものではない。そちらも十分に聖女の心を痛めるものではあったが、それ以上の衝撃が彼女の頭の中を占めていた。
「……おかしいです。分岐した未来の先が、見当たらないなんてこと」
聖女セイラは王家の血を継いでいた。
故に、『脚本家』の神法による遡りが行われても記憶を保持することができる。更に彼女はもう1つ、現国王であるアイリス・ペコーリア・ラ=ルイナ・エルトクリアには無い能力を保有していた。
それは、自らを除く対象者の分岐したルートそれぞれの近未来視。
聖女セイラが、それに気付いたのは偶然という名の必然だった。国王アイリスより、中条聖夜のことを気にかけておいて欲しいと言われていたからこそ、聖女セイラは定期的に中条聖夜の未来を視る習慣があった。そうでなければ、特定個人の未来を視るような真似はしない。
一度の使用でそれなりに疲弊するうえに、見たくも無い映像が脳裏に刷り込まれることもある。おまけにこの能力は『自らを除く』という制限がある。つまり、自分が少しでも対象者と関わってしまえば、その未来は無かったことになってしまうのだ。それは間接的な助力も含まれている。これではいくら未来を視たところで対象者を救うことなど出来はしない。
聖女セイラが視ている未来は、自分が介入したか否かも含めた決定した未来なのだ。
荒くなった呼吸を落ち着けようと、聖女セイラは自らの胸元へと手を置く。気休めではあるがしないよりはマシ、というよりも無意識下の行動だった。それほどまでに、彼女が視た中条聖夜の未来は理解のできないものだった。
対象が死んだ場合でも、その死に様は脳裏へと刷り込まれる。
にも拘わらず、たった今視た中条聖夜の未来は黒。
壊れたテレビのように、真っ暗だったのだ。
「中央都市リスティルに、中条聖夜がいます。至急保護してここまで連れてきなさい」
ここにいるのは聖女セイラのみ。
にも拘わらず、返答はすぐにあった
「承りました」
聖女セイラは気付いていない。
分かっているのに指示せざるを得なかった。
視えるのは『自らを除く対象者の分岐したルートそれぞれの近未来視』。
視ている未来は、自分が介入したか否かも含めた決定したもの。
既に中条聖夜は蟒蛇雀を連れて危険区域ガルダーへと転移した後だ。
故に、この指示は全く以って意味の無いもの。
分かっているはずなのに、聖女セイラは指示を出していた。
それほどまでに、彼女は困惑していた。
次はもっと早く更新したいです。