第14話 王手 ④
お待たせしました。
★
――――蟒蛇雀に、明確な目的は無い。
日本の血は通っているが、帰属意識も無い。
彼女は日本で生まれていないから。
犯罪組織『ユグドラシル』の掲げる使命に興味も無い。
この世界に愛着など抱いていないから。
死者蘇生の野望も無い。
生き返らせたい人などいないから。
生まれは魔法世界エルトクリア、その中でも法が緩い歓楽都市フィーナ。身売りをしていた日本人の母親が客となした子である。そして、誕生と同時に蟒蛇雀は実の母親によって換金された。その母親は既に他界している。
殺めたのは蟒蛇雀。
復讐というありきたりな理由ではない。
蟒蛇雀は母親の顔など憶えていないのだから。
試し撃ちとして選ばれた不運な標的が、実の母親だったというだけである。
☆
じわり、と血が滲む左肩を右手で抑える。
幸いにして、そこまで深い傷ではなさそうだ。
痛みはするが左腕も動かせる。
問題無い。
むしろ『魔力暴走』が切れたのは良かった。
あのまま限界まで使い切っていたらと思うと背筋が凍る。
おそらくはこの気狂いの女に嬲り殺されていただろう。
俺の視線に気付いた蟒蛇雀は、口角を三日月のように割いて笑った。
「ねえ、さっさと行きなよ」
その声に僅かな焦りの色を滲ませながら天道まりかは言う。
「逃がしてくれると思っているのか?」
『脚本家』の分身体を後ろに誘導しながらそう返した。その返答に納得がいかなかったのだろう。天道まりかがむっとした表情でこちらへ視線を向ける。
「逃がしてくれるかくれないかじゃない。キミが逃げるか逃げないかだ。そしてボクはこう言ったんだよ。さっさと行きなよ、って。逃げきれよ。それが仕事だろう?」
その台詞を言い切った時には、もう天道まりかは俺の横にはいなかった。遅れて聞こえる風を切る音と、何かを殴打する音。慌てて視線を後ろに向ければ、天道まりかが蟒蛇雀によって吹き飛ばされた後だった。
「天道まりか!」
思わず舌打ち。
分かっている。
俺は『魔力暴走』という強化を得てようやく蟒蛇雀と渡り合える。それでようやく同じ土台に立てるのだ。それが無くなった今、こうなるのは当然だ。
ぎょろり、と。
蟒蛇雀の視線がこちらへ向いたと思った次の瞬間には、拳が眼前へと迫っていた。
「――『不可視の連鎖爆撃』!」
蟒蛇雀の全身、至る所に付着していた俺の魔力が爆ぜる。
目視するだけで分かる。
ダメージはまるで与えられていない。
それでも構わない。
実体を強制的に失わせることで時間を稼ぐ。
身体を屈め、そのまま足払いを仕掛けた。しかし、その狙った脚も闇へと気化することで失敗に終わる。得た遠心力をそのままに、首筋を狙って手刀を振り抜いた。
――『神の書き換え作業術』、発現。
対象は俺の手刀では無い。
背後に隠した『脚本家』の分身体だ。
視界の端。
2つ先の建物の屋上へと転移させる。
それとほぼ同時に、俺の手刀が蟒蛇雀の頭部を吹き飛ばした。
吹き飛んだ頭部がどす黒い闇へと変質する。
それが一瞬で槍のような形状へと変形した。
「――っ」
避けられたのは奇跡に近い。
身体の可動域、その限界まで反らすことで躱す。
射出された槍が俺の脇腹を薄く抉り、そのまま足元の建物を崩壊させた。
「ぐっ、くそ――」
ぐにゃり、と視界が歪む。
それが殴打によるものだと気付いたのは、顎に凄まじい痛みが生じた後だった。
頭部の無い蟒蛇雀の胴体が、拳を振り抜いた姿勢でいるところを歪む視界が捉える。殴られた――。思考が現実に追いついた時にはもう、蟒蛇雀の頭部と胴体は合体を果たしていた。
「ひゃはっ、ガス欠? 絶体絶命じゃん! どうすんのさ『白影』ちゃァ――ンンッ!?」
蟒蛇雀の口上が遮られる。
背後から天道まりかが回し蹴りを放ったからだ。
俺の時と同じく、蟒蛇雀の身体が気化している。物理的なダメージは蟒蛇雀に生じていないように見える。だが、天道まりかには天属性がある。全ての属性魔法へ有利に働く、天道家のみが扱える幻血属性が。
動きが鈍った蟒蛇雀へと、天道まりかが拳を叩きつけた。
「――『天拳』っ!!」
和太鼓を打ち鳴らしたかのような轟音が、辺り一帯へと響き渡る。背中へと突き刺さった天道まりかの拳を中心として、水の波紋のように衝撃波が蟒蛇雀の胴体を走る。気化してはいるものの、かなりのダメージが入ったはずだ。
蟒蛇雀の表情が、露骨に歪んだのが分かった。
「ぐゥ! うざったいわねぇ、こんのメスガキがァァ!」
蟒蛇雀の両腕が鞭のように伸びてしなる。
振り上げられた位置から、どのような軌道を描くか察知した。
立て続けに『神の書き換え作業術』を発現する。
俺。
天道まりか。
そして、『脚本家』の分身体。
「ひゃっはァ!!」
嘲りの色が多分に含まれた笑い声。
鞭のようにしなる蟒蛇雀の腕が、周囲一帯の建物を根こそぎ倒壊させていく。
流石に近隣の住人は逃げていたのか、この攻撃に巻き込まれた人間はいなかったらしい。しかし、やや離れたところから悲鳴が聞こえてくるあたり、まだ避難は完了していないようだ。
ちくしょう。
そうなると、あいつから距離を離した場所に転移したのは失敗だったか。
あいつが移動すればするだけ逃げ遅れた人を巻き込むことになってしまう。
今の『神の書き換え作業術』では、蟒蛇雀の範囲攻撃の射程外へと3人を転移させた。俺と『脚本家』の分身体は同じ場所へ。天道まりかは蟒蛇雀を挟み込むような形になるよう反対側だ。
崩壊した建物。
もうもうと立ち昇る煙の中。
瓦礫の山の頂へ、君臨するように蟒蛇雀は立っている。
腕はいつの間にやらもとの状態へと戻っていた。
「ねェ……」
まるで烏の羽のよう。漆黒の髪を掻き揚げながら、蟒蛇雀は狂気の中に例えようのない妖艶さを覗かせる瞳で俺を捉えてこう言った。
「本当にもうガス欠?」
流し目。
ぞわり、と。
背筋へ電撃が奔り抜けるような悪寒。
俺が答えるより早く、天道まりかが動いた。
髪を掻き揚げる蟒蛇雀の右腕。その腕へ天道まりかの放った捕縛魔法が纏わりつく。天属性が付加されたそれは、透明色の煌きを放つ美しい魔法だった。それに舌打ちをした蟒蛇雀は、手慣れた手つきで自らの右腕を左の手刀で切り落とす。
片腕を失ったにも拘わらず、蟒蛇雀の顔には笑み。
それも当然だろう。
捕縛魔法によって捉えられていた右腕が気化して実体を失くす。
標的を見失った捕縛魔法が、役目を終えたとばかりに溶けて消えた。
その時にはもう、蟒蛇雀の右腕は再生している。
「『五天』」
その一瞬の隙を突き、天道まりかが天蓋魔法を発現させた。
天へと掲げた天道まりかの掌の先。
透明色の幾何学模様が描かれた魔法陣。
それが5枚。
創造都市メルティの上空へと発現された。
――それらが猛威を振るうより早く。
蟒蛇雀が天道まりかへと肉薄。
掌底で天道まりかを吹き飛ばした。
同時に、上空へと展開された天蓋魔法5枚が音を立てて崩れ去る。
それは、天道まりかがコントロールできなくなったという証明。
「くそっ!」
間に合わなかった。
先ほどまで蟒蛇雀の立っていた場所へ、周回遅れのタイミングで俺の踵落としが炸裂していた。既に倒壊して瓦礫の山となっていたそれらを更に細かく砕くに至る。
「き、君、何をしている!」
そこへ、まさかの第三者の介入。
「――っ、魔法聖騎士団!」
声の主は銀の甲冑に身を包む騎士。
魔法回路が施されているであろう剣を構えながら、こちらへと駆け寄ってくる。
ほぼ反射で応答する。
「馬鹿野郎! さっさとこの場を離れろ!」
これだけ騒ぎを起こしていれば駆け付けてくるだろう。
派手に暴れ回っている上に人も死んでいる。
ここへ2人も寄越したのは、俺も元凶の1人だと思われているからか。
ただ、何人集まろうがこの場では無力に等しい。
ここには蟒蛇雀がいる。
「離れろだと! ふざけたことを。君を連行――」
ゾンッ、と。
光を欠片も反射しないどす黒い闇が、槍状となって騎士2人を纏めて貫いた。
ご丁寧に、俺の耳元を掠める軌道を描いた一撃。
私から目を逸らすな。
一瞬たりとも油断するな。
言外に、そう言われているようだった。
「かっ」
「ぺっ!?」
その言外のメッセージによって被害を被ったのは俺では無い。
街の平穏を守るためにやってきた、善良な騎士2人。
彼らは一瞬たりともその場に留まることはできず、投擲された槍の勢いに負けて吹き飛ばされる。遥か遠く、彼らの背後にあった壊れかけの建物の側壁を貫き、そのまま姿を消してしまった。
一気に頭へと血が昇る。
「蟒蛇雀っ!!」
咆哮しながら振り返る。
「なァにをそんなに怒っちゃってるのよ。知り合いでもいた?」
闇を纏わせて。
蟒蛇雀が隣接する瓦礫の山へと着地した。
俺の反応から知り合いでは無い事を看破したのか。
蟒蛇雀は本気で怪訝そうな顔を浮かべる。
「知らない奴が……、自分と無関係な赤の他人がさァ。どこでどうなろうがどうでもよくない? なんでそんなに怒れるわけ?」
「――――っ」
本気で言っている。
それが分かってしまったから。
「蟒蛇雀! てめぇは――」
遠く。
天道まりかが吹き飛ばされたはずの方角から、莫大な魔力が溢れ出した。
★
天道まりか。
元日本五大名家『五光』天道家の生き残り。
幻血属性『天』を十全に扱える彼女は、皮肉にも没落した天道家随一の能力を保有していた。名立たる先代たちの誰よりも魔法に愛され、天属性の適性を有していた。現『五光』である岩舟龍朗と白岡巡、そして故人である二階堂華が、天道まりかの幼少期の時点で危険視する程度には。
例えば九天眼。
才能に溢れる天道家の者でも、その発現は数十年の鍛錬を経てようやく実現するものである。これまでの最短記録は齢30歳。当時は二度と塗り替えられることは無いだろうと持て囃された、天道まりかの母、天道まりあの記録である。しかし、天道まりかは20にも満たない学生のうちにこれを発現させた。
天道まりかは魔法に愛されている。
天属性は、全ての属性魔法の頂点に立つ能力が備わっている。
これは本人の驕りではなく、純然たる事実。
そして、天道まりかにもその自覚がある。
故に――。
「『天ノ羽衣』――」
息を吸って。
吐いて。
「――『天門ノ九』」
この技術は奇しくもリナリー・エヴァンスが開発した、自らの魔法生成器官へ段階的に負荷を与え、暴走させることによって発現量の底上げを行う『魔力暴走』、『暴走掌握』、『極限超越』の手法と酷似している。いや、この表現は正確に述べるならば正しくない。
なぜなら、順序が逆だから。
リナリー・エヴァンスの手法は、天道家の『天ノ羽衣』の技術を流用することで開発されたからだ。
過去に一度だけ、リナリー・エヴァンスは天道家の人間と手合わせする機会に恵まれている。それはリナリー・エヴァンスがまだ学生だった頃のこと。王立エルトクリア魔法学習院へ視察に訪れた天道まりあから興味を持たれて実現した機会。そこでリナリー・エヴァンスは『天ノ羽衣』を目にすることができた。『不可視の弾丸』の原型となった『天拳』もそこで発想を得ている。
他属性の全身強化魔法にあたる天属性の『天ノ羽衣』は、その能力強化に加えて、魔法生成器官に負荷を与えて意図的に暴走状態にする効力も含まれている。その暴走状態のレベルは1から9までの段階があり、数字が増えるほどその暴走状態が増す仕様だ。当然ながら、その暴走状態は名前に反して完全なる制御下に置かれている。
つまり。
天道まりかは、魔力生成器官の意図的暴走とその掌握というスキル一点に限って言えば、中条聖夜の遥か先、既にリナリー・エヴァンスと同じ領域に至っているということである。
まだ完全に発現はされていない。
それでも――。
「ふひっ」
小さな小さな嗤い声。
蟒蛇雀は、天道まりかの異変に気付いていた。
彼女の無系統魔法は『強化』。
己の魔法に使用することで、その能力を強化することができる。
もともとの魔法を、別の手段によって強化する。
常日頃から呼吸をするが如く行ってきたその手段が、同類の臭いを嗅ぎ分けた。
「うざったい魔法を使うだけのメスガキとしか思っていなかったけど……」
ぺろり、と。
深紅の舌が上唇を舐める。
屈みこんだ蟒蛇雀は、自らの右手を口元へと運んだ。
親指の腹を自らの八重歯へと押し当てる。
ぷくりと血の玉が浮かび上がった。
それを押し付けるように、自らの右手をコンクリート片の1つへと這わせる。
「――空間掌握『常闇の宮』」
蟒蛇雀の右手が触れた箇所から、目にも留まらぬ速度で黒が這う。
そして――。
黒が侵食を始める僅か前。
蟒蛇雀が天道まりかの異変を察知した直後のこと。
中条聖夜もまた、天道まりかの異変に気が付いていた。
天道まりかの中で、明確にギアが切り替わったことを察していた。
それは、同じ技法を扱える者だからこその嗅覚。
厳密に言えば同一ではなく類似であるが、それでもアプローチの考え方は同一。
だから気付けた。
だからこそ――。
「馬鹿野郎――っ」
自らの『魔力暴走』ですら、扱い方を1つ誤るだけで周囲に絶大な被害を与えてしまう。戦闘の余波だけで建物は吹き飛び人は死ぬ。天道まりかの魔力放出量は、文字通り桁が違う。破裂した水道管から水が溢れ返っているどころの騒ぎではない。大雨でダムが決壊するのを防ぐため、やむを得ず放流を始めたような状態だ。まだ避難が完了していないこんな街中で扱っていい技法では無い。
だからこそ、この一言。
――しかし。
直後に、蟒蛇雀からも異変。
それは、中条聖夜が天道まりかに気を取られた直後のこと。「馬鹿野郎」と呟かれた時には、既に黒は中条聖夜の足元まで侵攻していた。
『神の書き換え作業術』の発現。
身を翻すようにして跳躍した中条聖夜が腕を伸ばす。『脚本家』の分身体の首根っこを捉えた瞬間にはもう、次の『神の書き換え作業術』は発現されていた。
転移箇所は上空。
なぜなら、蟒蛇雀が発現した魔法の有効範囲が不明のため。
足元から黒が侵食する光景を目にした聖夜は、有効範囲が不明である以上、横よりも縦に逃げることを優先させた。蟒蛇雀を中心として、空間が黒く染まっていく。むせ返るような悍ましい魔力が立ち昇っていく。
上も外れ。
そう考えた中条聖夜が、次なる転移先へ座標を合わせようとした時。
「――くそっ」
侵食を続けていたはずの黒が、不自然に収束し始めた。
有効範囲が狭まるだけならいい。
問題なのは、収束する中心にいる蟒蛇雀の元から消えていかないことだ。
その理由が、中条聖夜にはすぐ分かった。
出し惜しみなどできるはずもない。
己を鼓舞するように中条聖夜は自らの胸を叩く。
「第一段階――」
腕に抱く『脚本家』の分身体を、中条聖夜は自らの影に隠した。
そして――。
ほぼ時を同じくして、三者の戦闘準備が完了する。
天道まりかが言う。
「――『開門』」
蟒蛇雀が唱える。
「――法術換装『閻魔』」
中条聖夜が口にする。
「――『魔力暴走』」
三者三様、各々のそれがトリガーとなった。
放出される膨大なる魔力。
それは余波だけで周囲の建造物を崩し、逃げ惑う人々に恐怖を与える。
魔法を扱える者たちだからこそ分かる。
分かってしまう。
アレは駄目だ。
絶望しかない、と。
それが三箇所。
中条聖夜のみが上空にいたが、抱擁する魔力がこの中で一番高かったが故に、もたらす被害は他二箇所と大した違いは生じなかった。
その全てが己の魔法技能の限界を超えた力を引き出すもの。
三者それぞれが、本来ならば超えてはならない一歩を踏み出した。
透き通るような神々しく煌く魔力。
それを全身に纏い、天女の顕現を果たした天道まりか。
どこまでも黒く、ただ黒く。
罪人共へ永劫の苦しみを与える地獄を周囲へ侍らせる蟒蛇雀。
ただただ、それは純粋なる魔力。
しかし、その圧倒的な放出量で他者の追随を許さない中条聖夜。
三者の中で。
限界を超えた先、一番伸びしろがあるのは中条聖夜。
なぜなら彼は、自らの魔力の大半を普段から眠らせているから。
使うことができないから。
本当の全力が出せていないから。
死蔵と言い換えても良い。
中条聖夜は、世界最強の魔法使いリナリー・エヴァンスですら対処できないほどの魔力を保有している。しかし、無意識のうちに自らへと課しているリミッターが、それらを十全に使うことを許さない。未成熟な器が耐えられないからだ。
中条聖夜は、魔力生成器官へ意図的に負荷を掛ける訓練により、己が保有する魔力、その約6割を使用できる状態にまで至っていた。しかし、この極限状態とも言うべき文字通りの土壇場で更にその才能を花開かせる。
彼が無意識のうちに放出する魔力の方向性を絞っていなければ、後ろ手で抱きかかえる『脚本家』の分身体が秒で蒸発しかねない。それほどの放出量。垂れ流している魔力だけでそれだ。
保有魔力全体の約8割。
一度の放出限界量はこれまでの約3倍。
これが、この戦いで中条聖夜が扱えるに至った領域である。
「終わらせようか、犯罪者」と天道まりかが。
「楽しくなってきたねぇ、お二人さん」と蟒蛇雀が。
それぞれが、そう呟く。
中条聖夜だけが無言だった。
無言で、右腕を蟒蛇雀へと向ける。
初手で発現されるのは、中条聖夜の無系統魔法。
――――『神の書き換え作業術』。
その結果は――。
いつも待っていてくれてありがとう。
読んでくれてありがとう。