第8話 秘密 ①
☆
大図書館の中へと入ってすぐ。
少女はそこで待っていた。
無言の少女と目が合う。
ぼろぼろとなったローブの奥深く。
澄んだエメラルドのような瞳が俺を映し出していた。
『お前やリナリーが妄信している「脚本家」は、決して神では無い。自らの異能を利用して神の真似事で世界の頂点に立とうとも、その能力は決して万能では無いのだ。大のためには平然と小を切り捨てる』
つい先ほどまで言葉を交わしていたアマチカミアキの言葉が蘇る。
『鷹津祥吾のような犠牲はこれ以上増やしたくはあるまい』
血の味がした。
気が付けば、俺はどうやら自らの唇を強く噛んでいたらしい。
「……よくぞ奴を退けた。こっちだ、ついて来い」
俺が何も口にしないことに少しだけ表情を歪めた少女だったが、そのまま小さな身体を翻して歩き出した。俺もその後に続く。
柔らかな暖色系の灯りが照らす図書館の内部を進む。
木と紙の香りが空間を満たしている。
ここだけでも規模は青藍魔法学園にある図書館より遥かに大きい。落ち着いた時に観光目的で来ていたら、興味本位に色々と回って見ていたかもしれない。ただ、ここに来るのは決まって何かとんでもない事態に巻き込まれた時だけだ。この王立エルトクリア魔法学習院の院生にでもならない限り、今後もそういう事態で無ければ来ることはないだろう。
大図書館は外の戦闘が嘘のようにひっそりと静まり返っていた。不気味なほどに人がいない。世界へ『ユグドラシル』が宣戦布告し、歓迎都市フェルリアが壊滅するような事態だ。学習院も臨時休校になるのは当たり前か。
今井修の時は所々で本を触る仕草を見せていたが、前を歩く少女は一度もしていない。ただ黙々と進みつつ、右に曲がったり左に曲がったりを繰り返している。流石に前回来た時の道のりを憶えているわけではないので、同じ道順を辿っているのかも分からない。
が、心配は杞憂に終わる。
突如として周囲の色が暗転したからだ。
柔らかな暖色系の色に包まれた図書館から、暗闇の中で青白く発光する本たちが並ぶ図書館へと様変わりする。本当に一瞬の出来事だった。瞬きした瞬間に世界が変わったかのような感覚。
「こっちだ」
呆然と立ち尽くす俺へそう告げた少女が歩き出す。
素直に従い、後を追う。
前へ、上へ。
右へ左へ。
下へ、また前へ。
ただひたすらに少女の後を追い続け、ようやく目的の場所まで辿り着いた。
これまで規則正しく並んでいた本棚が無くなり、そこだけぽっかりと開けた空間。その中央には質素なテーブルが置かれており、その上に設置されているのはこちらへ向けられたモニターとキーボード。青白く発光する本も一冊置かれているが、あれは俺の本なのだろうか。モニターの上にはカメラのレンズのようなものが、前には小さなマイクが、左右にはスピーカーが設置されている。
そして、その奥に鎮座している縦長の水槽。
仰々しいコード類で接続された状態で、水槽の中に浮いている人間の脳。
それこそが『脚本家』と呼ばれる超常の存在の本体だ。
少女はぽっかりと空いた空間の中へと躊躇いなく歩を進める。そして、パソコンの前で止まるとようやくこちらを振り向いた。
「よくぞまたここへ戻って来た――」
『――中条聖夜よ』
少女の言葉を継ぐようにして、機械から女性の声が発せられる。同時に少女の身体がまるで蜃気楼のように透き通り、やがて消えていった。その光景を黙って見届けていると、パソコンに文字が表示され、それを音読するように女性の無機質な声が耳に届く。
『何も聞かないのか』
……。
何だよ、その質問は。
なんで祥吾さんを見捨てたんだ、とでも聞けと?
あの時に提示された警告すら全て守れなかったというのに?
それとも、アマチカミアキがなぜ生きているのか、とか?
もしくは奴が率いる『ユグドラシル』を討伐することが本当に正しいのか、か?
いや……。俺が本当に聞きたいのは、『脚本家』側につくことが正解なのか、なのかもしれないな。そんなこと、本人に聞いたところで意味など無いというのに。
きっと、それでも今の俺はそんな表情をしているんだろう。祥吾さんを見殺しにしたこのルートに思うところが無いわけでは無い。しかし、結局はそれも俺の行動の結果なのだ。そんな無様な質問をしてたまるか。
「何もありません」
『ほう』
無機質な女性の声。
感情など乗っていない、その言葉の額面通り以上のことなど何も分からないはずなのに、その言葉からは『脚本家』の俺に対する興味が窺えた。
「この戦いに絶対的な正義なんてありません。貴方も、師匠も、そして……、おそらくは『ユグドラシル』も。自分たちが貫きたい信念のために戦っています。違うのは互いの価値観と、信念を貫くためにどれだけの犠牲が出るのか、ということだけです」
そもそも正義とは何か。
人を殺さないことか?
誰も犠牲の出ない道を進む者か?
だとしたら、俺はもう違う。
自分の都合の良い未来のために、邪魔である『ユグドラシル』を殺した。それは自分たちの目的のために歓迎都市フェルリアを陥落させた『ユグドラシル』と何が違うんだ? 犠牲となった人数でこちらの方がまだマシだったとでも評価するのか。残された遺族やら親しい友人やらが聞いたら発狂しそうな評価になりそうだ。
――――世界を独裁という楔から解放する。
きっと、動画を見たほとんどの人間は、その言葉が意味することを理解できなかっただろう。とある国の一強時代を終わらせたいとか、なりふり構わずのし上がって来た巨大国家を牽制しているだとか、そんな理解をしているかもしれない。
しかし、この世界の理を理解している者なら、あの言葉が示す本当の意味を理解出来ている。すなわち、世界を一方的に管理する『脚本家』から解放するということだ。
歓楽都市フィーナで聞いたアマチカミアキの言い分は、賛同こそしなかったがある程度理解できるものではあった。たった1人の人間に管理されているという状況は確かに異常だ。管理者である『脚本家』の匙加減1つで人が死ぬ。現に、祥吾さんは『脚本家』の考えで切り捨てられた。師匠が死んだときは遡りの神法を発現していたにも拘わらず。つまりはそういうことなのだ。
『貫きたい信念か』
無機質な女性の声が反応を示す。
『ならば、中条聖夜。君はどうなのだ。なぜ君は私につく』
俺は……、か。
俺は大層な信念を抱えてここに立っているわけではない。だから、先ほどの自分の言葉に、無意識に己を入れていなかったのだろう。師匠リナリー・エヴァンスが今だけで良いから信じろ、と言ったからだろうか。確かにそれはあるかもしれない。しかし、だからといって祥吾さんが切り捨てられたこの世界が最善だったと盲目的に信じる気にはなれないし、この先さらに俺の仲間が切り捨てられるのだとしたら、何も言わずに従い続けることはできなくなるだろう。
俺はなぜここに立っているのか。
なぜ『脚本家』側に立っているのかは単純なことだ。
「『ユグドラシル』が提示した未来よりも、貴方がやり直そうとする未来の方が、俺にとってまだマシな結果になるからです」
魔法世界エルトクリアに拠点を構える『黄金色の旋律』の面々が、今どうなっているのかは分からない。王城エルトクリアで勤めるクランやスペード、エースたちの安否も気がかりだ。そして、俺をここまで連れてくるために囮となった師匠やエマ、シルベスターを始めとする『白銀色の戦乙女』たち。
歓迎都市フェルリアが死都となってしまったことは勿論許せない。しかし、俺は聖人では無い。俺の中での優先順位は数多くの死者を出すことになったフェルリアの壊滅より、親しい1人の命の方が重いのだ。俺のために俺の仲間が犠牲になってしまった可能性が高い以上、もう遡りの神法に頼る以外に俺に選択肢は無い。
俺の言葉から『脚本家』は何を感じ取ったのだろうか。
やや間があってから『そうか』と無機質な女性の声がこの空間へと響き渡った。それ以上、『脚本家』はこの件に対して追及してこなかった。俺としてもその方がありがたい。本当なら媚の1つでも売っておいた方が良い相手なのだろうが、祥吾さんの一件からそんな気分にはなれなかった。口が裂けても『脚本家』の為すこと全てが正しいとは言いたくない。
『では、これからの話をすることにしよう』
仕切り直すようにして『脚本家』が言葉を紡ぐ。同時にテーブルの上に置かれていた青白く発光する本が宙へと浮いた。
『おそらくは想像の通りであろうが、これより君には私の神法を受けてもらう。時を遡り「ユグドラシル」の凶行を止めてもらいたい』
「それは歓迎都市フェルリアの壊滅を食い止め、奴らに宣戦布告をさせないようにするということですか?」
おそらくはそうなるのだろう、と当たりを付けて質問する。
しかし、予想に反して『脚本家』の回答は曖昧だった
『そういうことになるだろう』
この言い回しを聞いて、俺は嫌な予感が頭の中に過ぎった。
「……確認なのですが。今回の遡り……、まさかこれが初めてなのですか」
『その通りだ』
今度の回答は明確だった。
くそ。
そういうことか。
ならば、忠告も何も無い。どうすればよかったのかなんて『脚本家』でも分かるわけがない。これからトライアンドエラーを繰り返していくということになるのか。つまり、今回のルートよりも酷い地獄が待ち受けている可能性もあるのだろう? 気が重くなりそうだ。
そこまで考えて、1つ引っ掛かることがあった。
「先ほど龍を仕留めた後、クリアカード越しではありますがアマチカミアキと会話しました」
『何?』
俺のこれまでの人生が書かれた本を持っているのだ。当然、既に過去の話なのだから知っているだろうと思いつつ話したのだが、今の反応だと『脚本家』は把握していなかったのか?
『「司書」今井修が守るあの空間へと足を踏み入れた時点で、私の神法範囲内に進入したことになり、本の自動書記機能は停止されるのだ。この欠点があるからこそ、以前アマチカミアキの「創世の間」への進入を許した際、本を奪われるという結末に至ってしまった』
そうだったのか。
あの少女は『脚本家』の分身体のようなものだと認識していたのだが、そこから情報は得られなかったのか? いや、龍が大図書館内へと侵入するのを俺が止められなかった場合を考慮して、様子が窺えないところまで退避していたのかもしれないな。
それにしても。
アマチカミアキが自らの本をここから奪い去ったのは確定か。こんなタイミングでその裏付けが取れてしまうとは。それも『脚本家』本人から。その本を奪われたという事実を遡りで無かったことにすることはできなかったのだろうか。そう疑問に思ったことが伝わったのか、俺が質問しなくても『脚本家』がそのまま答えてくれた。
『この「創世の間」は我が神法の影響を受けない。本をここから持ち出されてしまった以上、いくら遡りの神法を発現しても、その本が戻ってくるわけではないのだ』
そうなると、それでも遡りの神法を発現して、アマチカミアキの進入を防いだ場合はどうなるのだろうか。遡りの神法の発現者である『脚本家』本人が無理と言っているのだから、何かしらの理由でそれが叶わない状況になってしまうのだろう。影響を受けないというより、制限が掛かるということだろうか。
そこまで考えたところで、話を脱線させてしまっていることに気付いた。以前に遡りをする際、情報量が多ければ多いほど使用する際に消費する魔力が増大すると聞いている。今回はまだ1回目ということで『脚本家』の魔力に余力はあるのかもしれないが、無駄遣いさせる必要も無い。どのような状況で本が奪われたのか興味はあるが、この話はここで止めておくべきだろう。
「話をした時、アマチカミアキから貴方へ伝言をもらいました。『サービスはこれが最後、次で仕留める』と。このことから、既に何度も遡りをしていて、これが最後だぞという意味だと思っていたのですが」
俺の言葉を聞いた『脚本家』が押し黙る。思考に没頭しているのかもしれないが、目の前にあるのはモニターとその背後の水槽だ。仕草から察せない以上、どれだけ待っていればいいのかも分からない。
『こちらの動揺を誘うための嘘だろう。しかし、奴の言うことだ。何かあるかもしれないな。遡り先では注意しておけ』
やがて口を開いた『脚本家』はそう言った。
結局、何も手掛かりは無いということか。
『では、肝心の神法についてだが。「ユグドラシル」が「司書」である今井修を真っ先に排除しにかかっていること。そして、アマチカミアキが不穏な発言をしている以上、無作為にトライアンドエラーを繰り返すべきではないと私は判断した。よって、一度目から君には記憶を引き継いで遡ってもらおうと考えている』
……記憶を引き継いだ状態で遡りをする場合、引き継がない時よりも消費する魔力が多かったはずだ。もともと何度も失敗したくは無かったしするつもりも無かったが、あらためて気を引き締めておかなければいけないな。
『そして遡り先だが。日本からここまでの移動時間も加えたうえで、なお余裕があるだけの日数を確保する。過去であればあるほど消費する魔力量は増大するが、これは致し方が無い。ただ、余裕を持たせるのには意味がある。私が君に何を欲しているか理解できるか?』
して欲しいこと。
これが最初の遡りである以上、『脚本家』側もトライアンドエラーの知識を有しているわけではない。更に、このタイミングで俺に聞いてくるということは、俺でも気付ける内容だということだ。こうしておけばよかった、と思えるようなことがあったか?
……閃くものがあった。
遺言か。
アマチカミアキの。
『そのMCを持ち、よくこんな静岡の山奥まで訪ねて来たね』
開口一番、そう始まったあの映像を思い出す。
結局あの時はアマチカミアキの本当の遺言を引き出すことができなかった。記録データは自動で抹消されてしまったため、もう二度と聞くことはできないと考えていたのだが……。
そうか。
遡りの神法を利用すればもう一度試すことができるのか。
そして、今回『脚本家』が遡りの神法を発現しようと思い至った理由も理解した。死んだ誰かを生き返らせたかったわけではない。歓迎都市フェルリアの壊滅を防ぎたかったわけでもない。ただ『ユグドラシル』打倒の糸口になる可能性がある、あの遺言を取りこぼしたくなかっただけだ。
そんな穿った考え方をしてしまう思考回路を、頭を振ることで追い払った。落ち着け。遡りの神法を発現してもらえるのなら、文句などあろうはずもない。発現してもらうためだけに俺はここまで来たのだから。もう取り返しがつかないところまで犠牲は出てしまっている。
偽物を掴まされたアマチカミアキの遺言。
あの後、師匠と栞を交えて出した結論は、遺言を録画していた装置は妖精樹を使用して作成されたMCが起動のトリガーになっていたということ。そして、2つあるMCのうち、どちらがトリガーになるかで投影される遺言が変わるというものだ。
すなわち、ティチャード・ルーカスの工房で保管されていたウリウムが接近したら俺の観た映像に、アマチカミアキの所持していたMCが接近していたら、本来の遺言の映像に切り替わるように調整していたのではないかということ。
アマチカミアキが所持していたMCは、歓楽都市フィーナでアマチカミアキと接触した際に、アマチカミアキ本人から俺が譲り受けている。今、そのMCを持っているのは青藍魔法学園の教会で匿われている元奴隷のアリスだ。
アマチカミアキからMCを譲り受けた直後は、俺に発信器を持たせることが本来の狙いだと考えていた。しかし、仮に本来の遺言を聞かせるために俺へあのMCを渡したのだとすれば話は変わってくる。妖精樹を使用したMCを2つ持ったところで意味は無く、ウリウムのように自我も芽生えないので、有効利用するためにアリスへと渡していたのだが……。アマチカミアキが本来の遺言を聞かせたいと考えて俺へ譲渡していたのだとすれば、アリスへの貸し出しはアマチカミアキにとって誤算だったということになる。
リナリーを頼む、と。
らしくない、明らかに似合わない台詞を口にしたアマチカミアキ。あの時のことは、今でも鮮明に脳裏へとこべりついている。あれが仮に発信器の存在を悟られないようにするための嘘では無かったとしたら。あれがアマチカミアキにとっての本心だったとしたら。
分からない。
結局、矛盾はするのだ。
師匠を含めて完全に殺そうとしてきている、この現状と。
どうしてこうも奴の行動は噛み合っていないのか。考えの違う同姓同名のアマチカミアキが2人いる、と言われた方がまだ納得できるというものだ。考えていて意味の分からない話ではあるが。
『現状で突破口となりそうなものは、あの遺言において他には無い。無策のまま歓迎都市フェルリア壊滅の日を迎えても良い結果になるとは思えない。奴らは属性奥義の欠点を克服してしまったのだから』
「……それはどういう意味ですか」
沈黙。
おそらくは、その回答が遡りの神法を阻害するクラスの知識量になると判断したのだろう。その線引きは俺では判断できない。神法の発現者である『脚本家』自身がそう判断したのなら従う他ない。
『答えることはできないが、君にも可能な手法だったとだけ言っておこう』
……。
遡り先では、属性奥義についても調べないといけないな。『脚本家』がわざわざこう助言してきたということは、俺にも知っておいて欲しいからだ。俺にも可能な手法ということは、『脚本家』側の人間に属性奥義の使い手がいるなら、それが『ユグドラシル』相手への強力な切り札にできるということだ。
『この1回で成功させようと考える必要は無い。今井修はこの「創世の間」へと匿っておく。中条聖夜、リナリー・エヴァンス、マリーゴールド・ジーザ・ガルガンテッラ、君たちの誰かが大図書館へと到達するまでは外へ出さない』
青白く発光する俺の本が、空中でパラパラと捲れ出した。
1枚の栞が俺のもとまでやってくる。その意図を理解した俺は『神の書き換え作業術』を利用して指の腹を傷つけ、自らの血をその栞へと付着させた。栞はふわふわと『脚本家』のもとへと戻り、とあるページを開いたまま浮遊している本の中へと収まる。
『最低でもアマチカミアキの遺言、その本来の内容を確認し、次へと繋げ』
「……分かりました」
パタン、と本が閉じた。
視界が眩い光に包まれる。
記憶上は二度目ということもあり、俺は収束しつつある魔力へ自然と身を委ねた。
次回の更新予定日は、1月30日(土)です。