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第7話 リナリー・エヴァンスにもどうぞよろしく




「あら? 中条君じゃない」


 出張所の扉を開けると、副会長が出迎えてくれた。


「よお」


 手を挙げて応える。中には副会長1人しかいなかった。


「片桐と花宮は?」


「愛ちゃんは文化祭実行委員の人と1年のフロアに行ったわ。ちょっと揉め事があったみたい。沙耶ちゃんは兄さんと一緒に教員室へ」


 俺が蹴り飛ばした男がいない。教員室への用事はそれか。


「それよりも!! 中条くぅ~ん。き・い・た・わよ~?」


「うおっ!?」


 ジト目で思いっ切り顔を近付けてきた副会長に、思わず仰け反る。


「な、何をだ」


「公衆の面前で蹴り飛ばしたらしいわね」


「い、いやぁ、それは」


 不可抗力と言うやつだろう。以前も暴力沙汰で迷惑を掛けたことがある分、目が泳ぐのは仕方が無いとして。


「まったく!!」


 鼻息荒く副会長が顔を離した。腕を組み仁王立ちになる。


「引ったくりを捕まえたってのは流石だけど、もう少しやり方ってやつがあるでしょう!!」


 あー。

 副会長には、その男子生徒が魔法の爆竹を持っている情報が伝わらなかったのか。ウィリアム・スペードがフォローしてくれたおかげで、周囲の人間を上手く誤魔化すことはできた。しかし、そのせいで情報は完全に歪曲された状態で伝わってしまったらしい。


「す、すまん。人混みが激しかったし、言っても聞かないし。どうしようもなくてな」


 いまさら本当のことを伝えるのも面倒だ。ここは素直に謝ってしまおう。


「気を付けてよね!! 次は無いかもしれないんだから!!」


 ずびしぃと効果音が付いてきそうな勢いで、副会長は俺を指さす。


「き、気を付けます」


「よろしい!」


 俺の返答に満足したのか、副会長は笑みを浮かべて机へと戻った。それに続く。


「国際問題に発展しなかったわけだから、本来ならよくやってくれたわね、と褒めるべきところなんでしょうけど」


「知ってたのか?」


 副会長の対面にあるパイプ椅子に腰かけながら聞く。


「あのウィリアム・スペードがひったくりにあったっていうのは、にわかには信じられないけどね」


「ま、まあ、日本の学生のお祭り、っていうので油断してたんだろ」


「そんなものかしら」


 断じてそんなものではない。

 一見アホのように振る舞っておきながらも、あの佇まいは流石としか言いようがなかった。隙なんて見当たらない。殺す気でやらなければ、あの男とは戦えないだろう。

 紅茶を淹れてくれた副会長に礼を言う。


「何をしに来たのかしらね。ステージは明日と伝えてあるはずだけど」


「下見に来たんじゃないか? それか、今井修の母国だし、ぶらぶらしてみたくなったとか」


 目的が俺だったなんてことは絶対に言えない。言っても信じてもらえないだろうが。


「うーん。できれば目的も無しにうろついて欲しくはないんだけどねぇ」


 それには同意。

 あの2人は、もう少し自分の立場というやつを考えた方がいい。

 厄介事が起こらなきゃいいけど、と呟きながら副会長は紅茶を口にした。







 大和の拳が千金の左頬を捉えるのとほぼ同時に、千金の拳も大和の左頬を捉えた。

 言うまでもなく、両者共に身体強化魔法を纏った一撃。

 それでも、どちらとも吹き飛ぶようなことはなかった。


「耐えたか。やるな」


「驚いてるのはこっちだっつの」


 大和の賞賛に、千金は大和を殴った右手をぶらぶらと振りながら、吐き捨てるようにそう言った。そのまま後ろへと跳躍する。


「アーク・シャイオン・リーク・ガイオン」


「はっ!! いきなり詠唱かよ!!」


 距離を取ろうと離れた千金に対して、大和は逆に一歩を踏み出した。


「ゼロ距離で喰らう気か? 後悔するぜ」


「あ?」


 距離を詰めてくる大和へ、笑みを浮かべた千金が掌を突き出す。人を容易に殺める魔法を躊躇いなく放出した。


「『業火の砲弾(ファイナス)』」


 オレンジ色の閃光が瞬く。

 瞬間。


「馬鹿か!?」


 大和は回避しなかった。むしろ更に一歩を詰めた大和は、その炎の発信源である千金の掌へと手を伸ばす。


 ――――形容しがたい轟音が鳴り響いた。


 攻撃特化の特性を持つ火属性。そのRankAに位置する高等魔法『業火の砲弾(ファイナス)』。

 身体強化魔法の完成度からして、千金は大和のことをそれなりの手練れだと見ていた。だからこそ、自分が放つ詠唱を聞いて、回避に専念するだろうと踏んだ。あとは大和の体を掠めるような軌道を描かせ、魔法を発現させればいいと考えていた。


 しかし、その予想は裏切られた。

 何を考えたか、大和は回避も防御もせずに手を伸ばしてきた。呆気なく人の命を燃やし尽くす業火、その発射点に。


 マジか。殺しちまった。

 それが紅蓮の炎を噴き出している自らの手を見据えながら抱いた、千金の感想だった。目の前の男が死のうが生きようが、千金には関係ない。ただ、殺すつもりはなかった。現時点で彼が殺すと決めていたのは、中条聖夜ただ1人。


 一瞬のうちにして起こった、予想外の光景。

 だからこそ。


「んじゃあ、次は俺の番だな?」


 業火の中から聞こえたその声に、千金の身体は完全に硬直してしまった。


「は?」


 放たれた言葉を脳が理解するより先に、激痛が千金の身体を走り抜ける。


「がっ!?」


 腹へとめり込んだ拳。千金の視界に一瞬だけ映ったそれは、学生服こそぼろぼろに焼け爛れているものの、その腕には火傷1つすらついていなかった。


 超高速で移動する視界。

 背面部への激痛。

 崩れ落ちる身体。


 土の味を感じ取ったところで、千金はようやく、自分が放った魔法は防ぎきられ、自分は殴られ、吹っ飛び、木に激突し、倒れこんだのだという現状を悟った。


「ぐぷっ」


 抑え込めぬ嘔吐感。千金は堪らずに胃液を吐き出した。


「すげーすげー。防ぎきったのか。まあ、人様にRankAの高等魔法を平気でぶっ放してくるイカれた野郎だ。そうでなくちゃ困るんだけどよ」


 殺人犯にはなりたくねーからよ、と添えて。大和は長髪を掻き揚げながら嘲笑う。


「てめぇ……、俺の『業火の砲弾(ファイナス)』を、……」


「撃てるのはビビったがよ。まだまだ発現量が足りてねーな。全力で手に魔力を集中しておきゃあ、あとは俺の無系統が守ってくれる」


「……無、系統、……だと。ぐっ!? ごほっごほっ!!」


 苦しそうに咳き込む千金相手に、大和は目を細めた。


「立てるか? 立てないならもう無駄だからそこで転がっとけ。それが耐えられないようじゃあ聖夜に挑んだって無駄だ無駄。あいつは俺の100倍強ぇーからよ」







「お断りするわ」


 舞の決断に、紗雪と美雪は揃って目を丸くした。舞の隣に座る可憐も驚きの表情を浮かべている。


「どうして? 悪くない取引だと思うんだけど」


「……舞さん。確かに、破格の条件だと思いますよ?」


 一品を差し出してくる白岡家に対して、花園家は成果を約束されてはいない。今の取引内容だと、白岡家と聖夜の仲を取り持つ働きさえすれば、後は本人同士の問題となるのだ。

 取引内容としては可憐の言うとおり、破格の条件だと言えた。

 だからこそ。


「そうね。私もそう思うわ」


 舞はそう答える。しかし、紗雪と可憐の意見を聞いてなお、舞は自分の決断を曲げなかった。


「じゃあ、どうして?」


 そう質問を繰り返す紗雪に対して、舞は嫌悪感を隠そうともせずに腕を組む。


「貴方たちに、借りを作りたくないの」


「え」


 一瞬だけきょとんとした紗雪だったが、直ぐにそれを誤魔化すようにして首を振った。


「いやいやいやいや。借りじゃなく、取引でしょ?」


「借りよ」


 紗雪の訂正を蹴散らし、舞は言う。


「聖杯を受け取ったら、貴方たちの言われた通りに聖夜とのセッティングを任されるわけなんでしょ。なら借りじゃない。取引という名目で隠そうとしたって無駄よ」


 この話はもう終わり。

 そう言外に伝えるかのように、舞はきっぱりと言い放った。


 舞の態度を見て、美雪が音も無く笑う。

 そして紗雪もそれにつられるかのようにニヤリと口角を上げて――――。


「んー、ばれちゃったかぁ」







 大和の持つ非属性無系統“装甲”魔法は防御に特化した能力であるが、決して他に応用が効かないわけではない。


 例えば。

 空気を媒体として、土属性を付加させた装甲魔法を発現させることで、闇魔法の得意とする重力魔法を再現し、圧殺の魔法を生み出してみせた。


 また、そのようなことをせずとも。

 装甲魔法によって強化された拳で殴るだけで、それは十分な凶器になる。

 身体強化魔法によって強化された拳は、パワーやスピードが飛躍的に上昇する。魔力を拳に纏うため、守備力も上がるし魔法抵抗力も当然上がる。

 装甲魔法にそのような能力は無い。装甲魔法によって得られるのは、自らの魔力を特定部位に展開し、その密度をひたすらに高めることによって生じる硬度のみだ。


 それでは、もし。

 その硬度を保ったまま、それを身体強化魔法と併用させた攻撃に転化させたとしたら。


 胃液と血液が入り混じった唾を口元から垂らしながら、千金は大和の足元で呻き声を挙げる。大和はそれを冷めた視線で見つめていた。

 大和は自らの能力を過信してはいない。だが、過小評価もしていない。大和は以前、聖夜と約束の泉で拳を交えたことがある。この拳を何度受けても倒れなかった聖夜を見て、大和は自らの能力の低さを恥じるのではなく、素直に聖夜の方が異常であると感じていた。


 足元で蹲り、次の行動が起こせないでいる千金にもう一度目をやる。


 これが正常。

 これが普通。

 当然の、帰結。


 踵を返す。

 大和には、この蹲る男に対してこれ以上何かをするだけの動機が無かった。心は折ったつもりだし、肉体的にも相当なダメージを与えている。


 これ以上何かをしでかすことはないだろう、と大和は考えた。

 しかし。


「……くひっ」


「あ?」


 足元で蹲る千金から聞こえたのは、呻き声とは違う何か。

 本来ならば、この状況下で聞こえてはならない類の何か。


 さっさと寮棟へ帰って寝ようと考えていた大和はその動きを止め、足元へと視線を向けた。


「く、くひひひひっ、ふふっ、は、はははっ、うひひひひひひひ」


「……イカれたか?」


 大和としては、相手に引導を渡してやったつもりだった。それなのに、聞こえたのは笑い声。それも相当に狂った(たぐい)のだ。


「ひひひひひいひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひいひひひひひひひひひひひひひひひひひひいひっひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひいひひひひひひいひひひひひひひひひっひひひひひい」


「むっ」


 蹲っていた千金の右腕に魔力が灯ったその一瞬を、大和は見逃さなかった。


「くぼっ!?」


 唾と血が入り混じった液体を吐き出しながら、千金の身体が宙に浮く。千金の腹部を蹴り上げた大和は、その右手から放られた物へと目を移した。


 ――――それは、赤色と青色の立方体。


 浮いた千金の身体を蹴り飛ばすついでに、大和はその不可思議な物体も始末すべく、空気へと土属性を付加した装甲魔法を発現させ、圧殺の魔法を生み出す。

 轟音と共に大和の目の前に大きなクレーターができた。


「がああああああああああっ!?」


 痛覚からの刺激に耐え切れなくなったのか、千金が喚く。土に塗れたその姿を見下ろして、大和の顔が歪んだ。


「まだ意識が飛ばねーのかよ。頑丈さだけは一人前だなおい」


「あああああああああああ!?」


 自らの身体を抱き、捻りながら千金は叫ぶ。

 が。


「ああああ、あああ、ああ、あ、……あ~。『火』と『4』か。こりゃあまずいの引いちゃったんじゃないのお前」


 目の前で自分と同じように土へと抉り込んでいる立法体の一面を見て、千金は今までの絶叫が嘘のようにそう口にした。


「は?」


 その急激な温度差に対して、疑問を投げかける前に。

 大和の腹部には拳が抉り込んでいた。


「――――がっ!?」


 オレンジ色の閃光が瞬く。

 圧し掛かる重圧に負けて地面が隆起した。

 衝撃波に煽られて周囲の木々が圧し折れる。


「吹っ飛べおらァァァァァァァァァァァァ!!!!」


 咆哮。

 破壊音とともに大和は後方へと吹き飛ばされていく。







「美雪」


「うん」


 紗雪の呼びかけに美雪はこくりと頷くと、足元に避けていたとある物をテーブルの上に置いた。


「何よそれ」


 舞が怪訝な表情をしながら問う。

 テーブルの中央に置かれたそれは、白い布で風呂敷状にして包まれていた。


「……魔法具、ですよね。それ」


 可憐が恐る恐る問いかける。紗雪は躊躇うことなく頷いた。


「そうよ」


「……馬鹿」


 舞が頭を抱える。


「何を持ってきたかしらないけれど、持ち物検査をどうやって通過したのよ」


「そんなの、白岡の名前をチラつかせたに決まってるじゃん」


 舞はもはや苦言すら呈さず、呻くようにして天を、もとい天井を仰いだ。


「限度というものがあるでしょう。許可を得てこの場にいようが、ここが花園と姫百合の領分であることを、貴方がたは自覚すべきです」


 舞に代わり、可憐が言う。


「んー。悪いな~とは思ったんだけどさ。これ中身を知られちゃうと通してくれなかったんじゃないかな」


「絶対に無理」


 目を逸らしながら言い訳のようにそう口にする紗雪に続いて、美雪はきっぱりと断言した。その態度に、舞が眉を吊り上げる。


「いったい何を持ち込んできたってのよ。まさか攻撃用の魔法具じゃないでしょうね」


「否定はしかねる、かな」


「そうよね。まさかそんなはず――、……は?」


 影が差したような笑みを浮かべる紗雪に、舞の表情が固まった。


「気になるでしょ? 中身。こっちとしても見てもらわないと話が進まないからさ」


 紗雪が結び目へと手を伸ばす。布の擦れる音とともに、白い布がずれ下がった。それはスローモーションで流れている映像のように、緩やかに全貌を明らかにする。


 大きく空いた口。

 漂う異質な魔力と錆びた鉄の匂い。

 古めかしくも綺麗に磨き上げられた金の胴。

 大袈裟なまでの装飾。

 左右対称に取り付けられた大きな取っ手。


「ばっ!?」


 馬鹿じゃないの。

 その言葉を大にして叫ぶより早く、舞が動いた。大きな音を立てて立ち上がる。覆っていた布が重力に従ってテーブルへと落ち切る前に拾い上げ、それ(、、)を隠す。震える手に鞭を打ち、瞬く間に結び終えた。


「はっ、はっ……」


 息が切れる。激しい運動なんてしていない。それでも、舞の呼吸は激しく乱れていた。

 隣に座る可憐に至っては、うまく頭が働いていないのかパクパクと口を動かすだけでピクリとも動かない。


「……貴方、いったい何の真似よ」


「あの時、会場に寄越したのは従者じゃなかったの? 実物を見たのは初めてでしょ?」


 テーブルの上に置かれたそれは、先ほどまで会話に出ていた、アギルメスタの聖杯だった。


「これは白岡から彼へ、お近づきの印のプレゼント。ああ、プレゼントって言っても、あげるわけじゃないよ。契約したら、ちゃーんと返してね。中条聖夜君にはよろしく伝えといてちょうだいな」


 ウインク1つ、紗雪が立ち上がる。続いてテーブルに置かれていた伝票を手に取り、美雪も立ち上がった。


「これで中条聖夜に恩を着せるつもりはない。ただ、彼が契約詠唱に成功したら一報が欲しい」


 抑揚が無い声で、この日一番長いセリフを美雪が言う。


「……その言葉を、信じろとでも?」


「舞っち、知ってる?」


 舞の質問を意図的に無視しながら、紗雪は続ける。


「今、この国にはね、ネズミが入り込んでるんだよ。それを手引きしたのは、あろうことか私たち(、、、)のうちの誰かなの。私たちはあと2人まで、それを絞り込んでる」


「中条聖夜は、有用な駒。貴方たちが活用できるなら、奪うつもりはない」


 紗雪の言葉に続き、美雪はそう言うと伝票を持って会計へと足を向けた。


「そういうことだからさ」


 美雪の後を追って舞の横をすり抜ける際、舞の肩を押して再び席に座らせた紗雪は、舞の耳元に口を近付けて。


「リナリー・エヴァンスにもどうぞよろしく」


 不敵な笑みを携えて、そう口にした。







「やぁっと見付けたぞおい。んな遠くまで吹き飛ばされやがって面倒くせぇ」


 鬱陶しそうに生い茂る草木を押しのけて、千金は吐き捨てるようにそう言った。


「危ねぇ危ねぇ。あともうちょい飛ばしてたらバレちまってたじゃねーかよ」


 木々の向こうには十字架の飾りが覗いている。そこで何が行われているか、千金は知らない。ただ、そこに人工物があるということは、人が通る可能性がある場所に近づいてしまっているということだ。目立ちたくない千金からすれば、間一髪だったということになる。


「お前が景気よく吹っ飛んでくれたせいで、3分経っちまったじゃん。俺の能力はなぁ、せっかく出た目で底上げされても3分しか持たねーの。どう落とし前つけてくれんのかなおら」


 地に大の字で倒れている大和に、千金は無遠慮に歩を寄せる。


「赤は『発現量』、青は『属性』。俺の無系統・賭博魔法は、それをランダムで調整できる能力ってわけだ」


 2色のサイコロを手で弄びながら、千金は言った。


「『髑髏マーク(ハズレ)』を引き当てちまうとペナルティって欠点もあるが、なかなかの能力だと思わねぇか? え? どうだおい何か言ってみろよ」


 地に伏したままの大和の顔に靴底を擦り付けるが、当然ピクリとも動かない。


「ちっ」


 千金は舌打ちして唾を吐き捨てた。


「つまんねぇな。ご自慢の無系統魔法とやらもこの程度かよ。まあ、俺にこいつを出させたってところでまだマシだった方か?」


 空を仰ぐ。真っ青な空に、白い雲が漂っていた。

 口封じだ何だと騒いでいた先ほどまでの自分が懐かしく感じる、と千金は思った。一時はどうなることかと思ったものの、蓋を開けてみればこの通り。能力を少し開放しただけで、事態は瞬く間に終結してしまった。

 自分の心が急激に冷めていく。千金は今まさにそれを感じていた。


「どーでもいいか」


 どんな騒ぎになろうが。

 各学園にどんな被害が及ぼうが。

 土と血で汚れたブレザーを脱ぎ捨て、千金はゆっくりとした足取りで大和から離れていく。

 ぽつりと、口にする。


「あー、面倒くせぇ」


 そして。


「……何が面倒くせぇって?」


「……、……は?」


 足を止める。

 思わず千金は言葉に詰まってしまった。何度も口を開閉した後、ようやく絞り出すようにして続きを口にする。


「……て、めぇ」


 拒絶している本能を無理やり抑え込み、千金は恐る恐る振り返った。

 そこには。


「効いたぜ、……今のパンチ。……やりゃあできんじゃねーか、お前も」


 満身創痍ながらも自らの足で立ち上がった大和の姿があった。


「……なん、で、……立ってやがる」


 強がりを言っているのは一目瞭然だった。事実、握りしめた右手は震えている。辛いけど何とか立ち上がりました。千金にとって今の大和はその程度の存在だ。

 しかし千金は、その姿に言いようのない不安を感じていた。


「……はっ」


 自分が感じている不安をかき消そうとして。

 自分が感じている恐怖を否定しようとして。


 ――――千金は、嗤う。


「はっ! ははっ、ははははっ!! いいじゃねぇかそうこなくっちゃ――」


「今度は、……俺の、番、だな?」


 大和が一歩を踏み出す。

 ゆっくりと。

 一歩ずつ千金の元へと歩を寄せる。


 それを待ち構える必要など、どこにもない。


 ふらふらとした足取りで歩み寄る大和は、今や完全に隙だらけだった。本来なら、直ぐにでも距離を詰めて仕留められる時間。千金の実力なら、瞬く間にそれを終わらせられるだろう。

 しかし。


「……面白ぇ」


 垂れた血を手で拭いながら、千金は口角をひくつかせた。その目の前までやってきた大和が、拳を握り込む。同時に、オレンジ色の炎がその拳へと纏わりついた。


「面白ぇよお前!! やってみやがれ!! 防ぎきってやるからよォォォォ!!」


「『巨人の火槌(レッド•インパクト)』ォォォォ!!」


 至近距離で、両者は叫びあう。

 眩い閃光を纏った大和の拳が、千金の下へと吸い込まれていく。

 そして――――。







 風が吹く。

 草木が擦れ、さらさらと音が流れる。


 同時に。

 からからと。

 何かが空回りするような音が聞こえた。







 力の抜けた身体が、ずるりと崩れ落ちる。

 千金は、その光景を力の無い目で見つめていた。

 崩れ落ちた大和は動かない。


 ――――今の一撃が決まっていれば、倒れていたのは自分の方だった。


 そう思考が理解した直後。


「ふっざけんなやァァァァァァァァァァァァ!!!!」


 叩きつけた拳から、オレンジ色の閃光。その一撃に、大木は一瞬も耐え切れずに太い幹から砕け散り、瞬く間に火だるまになった。大きな枝と葉の傘が、火の海に呑まれて沈む。しかし、千金はその光景を気にも留めていない。


 千金は分かっていた。

 今、千金が腹いせに発現した火の身体強化魔法を纏わせた拳と、先ほど大和が発現した火の身体強化魔法を纏わせた拳。同じように見えて、まったく違うそれであることを。

 千金は大和の装甲魔法のことを知らない。青藍魔法学園『番号持ち』のプロファイルは、千金・奇縁・水月の全員に配られていたが、千金はそれに目を通していなかった。

 だが、千金はそれを間近で見ることで、その脅威を肌で感じ取っていた。今の一撃が決まっていれば、倒れていたのは自分の方だった、と。

 満身創痍だった大和は、自ら繰り出した大技を千金に叩き付けることなく崩れ落ちた。中途半端に付加された火が暴発したが、それは大和の装甲魔法がうまくいなすことに成功したようで、肩から先が吹っ飛ぶといった事態は免れていた。


 倒れたのは大和。勝ったのは千金。

 それは事実。

 大和は千金が防ぎきれない一撃を繰り出した。それは千金に危害を加える前に消滅した。

 それもまた、事実。


「……今の俺はすげぇ機嫌が悪ぃんだ」


 自らの足元で倒れている大和の更に向こう。

 茂みの奥から近付いてくる人影に向けて、千金は牽制するかのようにそう告げた。


「来るのは自由だが、……殺しちまうかもしれねぇ」


 ゆっくりと距離を詰める人影は答える。


「こちらに争う意思はありませんよ。ただ、そこで倒れているのは僕の友人でしてね。できれば手当をしてやりたいのですが」


「……そうか」


 ふらり、と。

 千金の身体が揺れた。

 しかし、その眼に戦意はない。千金はそのまま近付いてくる人影から視線を外し、ふらふらとした足取りで森の奥へと消えた。







 からからと。

 タイヤが空回りする音だけが残った。

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