卓巳君の憂鬱(5)
「な、直樹?」
落ち着け、俺。
もしかしたら、天使ってやつはもともと体温が低いのかもしれない。
人間のふりをしてたけど、うっかり寝ている時に直樹は本性を現わしてしまったのかもしれないじゃないか。
か、神さま、お願いします。BAD ENDだけはやめてください。
テストは今後、全部赤点でもいいです!
あ、...もし余力がありますればとりあえず、それなりでお願いします。
どうしよう、もう1回触るか、叩いて起こしてみるか?
本物の天使だったとしたら、叩くというのは神さまに失礼かもしれないし、ここは大人の出番だ。
そ、そうだ、鬼ババアを呼んでくればいい。
と思ったら、鬼ババアがいつの間にか俺の横に立っている。
そしてぐいっと赤点のテストを突き出した。
あ、そうだ、さっきやり直しをしておこうかと迷って、かばんから出しっぱなしになっていたに違いない。
「卓巳、これ、何?
中途半端に机の上に置いておくなんて、ほんと、あんたも馬鹿ね!
普通は隠しておくわよ!
親のショックとか考えたこと、ある!」
「いや、あの、か、母さん。そんなことよりも、な、直樹が...」
「赤点をこんなに取るなんて、あんまりだわ、いい加減にしなさい」
と全然聞く耳持たないで、両手いっぱいに赤点の答案を抱えて鬼ババアが仁王立ちしている。
「そ、そんなに赤点、ありましたっけ?」
と俺は恐る恐る聞いた。
あ、もしかして、今までの赤点をコレクションなさったりしてました?
良く見れば、鬼ババアの口が耳まで裂けている。
やっぱ、うちの母ちゃん、鬼だったんじゃん!
「そんなことより!
な、直樹が大変なんだよ、ていうか、俺はともかく、直樹を助けて」
「直樹って誰?」
「え?直樹って、え?何言ってんだよ、ほら、大切な俺のまたいとこの、ほら、ここに」
「どこに?」
直樹どころか、そこには、布団も無かった。
ええええ~~?
なんじゃ、こりゃ~~?
布団ごと、直樹の存在を消すつもり?
神さま、もうテストなんて本当にどうでもいいです。
直樹を大切にするから、俺に直樹を返して!
本当に本当に、今まで以上に大切にします!
絶対に嘘をつきません!
俺が泣き叫んでいるのを、完璧に鬼化した鬼ババアが理解できないみたいな表情でこっちを見ている。
「大切?
お前は自分自身が大切、なんだろう?
寂しいんだよな、ぼっちだから。勝手なヤツだから」
その声は、鬼ババアじゃなかった。
俺の腹に描かれた顔からその声が聞こえてくる。そして、その指摘はすごく心に刺さった。
俺の本音が、勝手に腹から駄々洩れしてきてる?
そ、そんなことじゃなくて。大切なことは!
「直樹、直樹がここにいたはずなんだ、直樹が、大切な!」
俺の叫びなんて無力で、俺はただ泣いて直樹を探していた、はずで、。
なんか寒い、、。知らないうちに目をつぶり、倒れて泣いていた、みたいだ。
...?
なんか、ワンころみたいな目をしたヤツが俺を揺すぶっている。
「大丈夫?
すごく身体、冷たいよ?」
ああ、俺、これ知っている。
スイスだったと思う。どこか雪山の中で遭難すると、たしかセントバーナードの救助犬が来てくれるのだ。
そういうもふもふしたデカイわんこが、気を失っている遭難者のほっぺを舐めて起こしてくれたりするらしいのでちょっと期待したが、そのサービスは無かった。
昔、本で読んで憧れていたのに。
いつか雪山で遭難してみようと決めていたのに。
「頭が痛いの? うわ~、たんこぶ?」
そ~っと触ってくる前足も、人間の手みたいになっている。
ああ、あれ、違うか?
なんか今すげー眠いけど、雪山で遭難したら眠くなるのだから仕方ない。
俺の頭の上から降ってくる声は、直樹の声にそっくりだ。
神さまからのプレゼントは大型犬でも嬉しかったと思うけれど、やっぱり普通に直樹がいい。
俺は本当に嬉しかったんだ。
置き去りにしたり、無理に本気のキスを教えてみたりしたけど、本当に大事に思っていたんだ。
可愛い表情を浮かべて、素直についてくる、年下の弟みたいな直樹。
なぜか今も、こんな俺にキスをねだってくれる直樹。
直樹、さっき死んでたみたいだけど、もう地上に降りてきてくれたのか。
それとも、ただの夢かな?
俺は寝たふりをしたまま、そうっと聞いてみる。
「戻ってきてくれたんだね、直樹。...意外と早かったな、すごいね」
「あ、良かった、起きた? うん、ただいま。
早くなんかないよ、本当は昨日、卓巳と帰りたかったんだ。
一緒に寄り道とかも出来ればしたいな、とかさ。ドリームしてたのに。
僕としては一日遅れた、っていう感じだけど」
と、直樹が普通っぽく返事をくれる。
俺は、目をつぶったまま、無い知恵を絞った。というか、ほんとに遭難しているみたいに、ただただ眠いだけなんだけど。
どうしよう、直樹ってば、自分が死んでたことに気づいていないのかもしれない。
気づいたら、どうなるんだ?
なんか、{~~したら、天使が戻っていってしまう}、ていうお笑いネタがあったような気がする。
気づかせなかったら、ずっと俺たちのそばにいてくれるのか?
神さまが、何かチャンスをくれているのかもしれない。
...。
なんか、また揺すぶられている気がする。
いや、だから悪いんだけど、俺は寝ながら作戦を考えているんだって。うん、まじで...。
...。
「ねえ、今まともにしゃべってたよね?
卓巳、また寝ちゃわないでよ。
たんこぶがひどいようだったら、今からお医者さんに行く?
今度はね、僕が病院に付き添ってあげる、
お医者さんに行くんなら起きてくれないと、」
う~~ん。眠い。
そんなに揺すぶらなくてもいいじゃん。
嬉しいから直樹と話していたいけれど、なんか眠すぎてめんどくさい。
それに、もうだいぶ痛みはおさまっている。
「うん、...大丈夫だよ、今はそんなにもう痛くないかも。
寝れば治るんじゃないかなぁ、だから、寝てるんだよ」
うん、それで俺は今、寝てるんだよ、きっと。
「そうなんだ、それならいいけどさ、」
と優しい声が言って、俺の身体にそうっと手が触れてくる。くすぐったりの俺は、昔から
「急に触るなよ、」
とか怒っちゃったりしたので遠慮しているのだろうか。
「でも、今、やっぱりまだ身体が冷たいよ、こんなに身体を冷やしてたら死んじゃうよ?」
「何を言ってるんだよ、お前こそ、」
「え?僕?、僕がなに?」
あ、口が滑った。ヤバい、寝ぼけて冷たくなっていたことをバラしそうになっているぞ、俺。
「い、いや、忘れて、ちょっと今、なんか眠くて間違えた」
「うん、気持ちよく寝てたんだものね、ごめんね、」
寝てた...うん、そう、いつから寝てた?
え? 夢?
え?どっからどこまでが夢?
直樹がいる方が夢?
違うよね、神さまが直樹を俺に返してくれたんだ、きっと。
さっきの方が、受け入れがたい夢だったはずで。
いやだ、消えないで、直樹。
俺は手で探り、直樹の服あたりを掴んだ。
「え?何?」
と直樹が聞くので、ようやく無理やり目を開けてみた。
あれ、普通に俺の部屋だ。そして、いつのまにか快適を通り越して冷え冷えだ。
そして、直樹がそばで俺を見下ろしていた。
心配そうにタオルハンカチまで持ってかがみこんでいる。俺にパジャマの上着の裾をつかまれたまま。
「卓巳、ごめんね、夢の途中で起こして。ふふ、なんだかまだ卓巳の目がとろんとしてる。
でもね、頭押えたまま辛そうに寝てたんだよ?ちゃんと認識して?
身体も冷え冷えだよ?」
いや、冷えて冷たくなっていたのは、お前の方じゃないか、とは言わなかった。
天使に秘密がバレるからじゃない。
俺のよだれや涙を見るに見かねてか、タオルハンカチで俺を拭いてくれる直樹の手は、俺の頬よりも温かったからだ。俺はそうっと、直樹のパジャマから手を離した。直樹がちゃんとそばにいるってだけで本当に心からほっとした。
神さま、ありがとう。これからはもっとまじめに生きていきます。
「ごめん、寝てたんだ、俺・・・いつのまにか」
「そうみたいだね、卓巳が帰ってきたなって思ったのに来てくれないから、さ。
ドアの外まで冷気が伝わるほど、あまりに冷やしているからさ、覗いてみて良かった。
『冷やしすぎると人間、死んじゃう』って昔、卓巳が教えてくれていたからさ、ね、心配になってみたら、お腹に何もかけないで・・・さっきそのお腹がさ、」
「み、見るなよ? なんか見た?」
「あ、ううん、見てないよ、お腹が空いてたみたいにきゅ~って鳴ってただけ。
何?
ねぇ、見たら、何かあるの?」
「いや、別に、なんでもない、あ、いやサンキューな、助けにきてくれて」
「うん、」
また目をつぶりかけている俺の唇に、柔らかいものが着地した。
「な、...!」
目を開けたら、直樹のどアップがあった。
直樹がじっと俺をまともに見すえながら、俺にキスを仕掛けてきている。
いつものねだる感じじゃなくて、有無を言わさないくらいの強い視線に慌てて目を逸らし、本能的に避けようとしているのに俺は動けない。
直樹が寝ぼけている俺の頬を手でしっかり支えているんだ。
いや、そうじゃない。それだけじゃない。
昨日の直樹の強くて色っぽい眼差し、それを思い出して昨夜は眠れなかった。
あの眼差しに、とっくに魅了されていたから。
もう一度、あんな風に見つめられたいって思っていたのに、それでも俺は動揺している。
直樹の唇は、俺の唇を貪り始めていた。いつもの直樹と違う勢いが俺を圧倒する。
「う、...」
と呻こうとした俺の唇を割るようにして直樹の舌が滑り込み、俺の舌をなぶる。
いつもの直樹のようでいて、いつもの天使みたいな直樹じゃない。
天使のように優しい視線で甘えてねだるようなキスじゃない。
混乱した。
こんな風なキスをしたことがあったっけか?
まだ、俺は夢の中から抜け出ていないのかもしれない。
いや、再会したばかりだから、そうか、俺は直樹の本当のところなんて知らないのか。
俺は、どうすればいいか、どうしていいのかわからない。だけど。
それでも俺は覆いかぶさるようにしてくる直樹を支えながら、やはり夢中になって直樹に応えている。
本気でキスをしてしまっているんだ。
身体が熱くなる。
俺の身体の奥の方から熱を帯びてきて。
心まで。しびれるように理性が吹っ飛びそうで。
これは、夢か?
いや、夢じゃない、これは現実なんだ。
ずっと自分の欲望とか直視したり認めたりしたくなかったけど、俺は直樹に、、。
これが、直樹の望みなんだろうか?
昨日『最後のお願い』を聞いてやらなかったことを後悔していたから、直樹が望むのなら、、いや、俺もたぶん、望んでいたんだろう、本気のキスを。だけど、、。
だけど、俺の望みは、大切な直樹を守りたいってことで。大切にしたいってことなんだ。
思わず抱き寄せてしまっている直樹の身体が、熱い気がする。
直樹の身体は大丈夫なんだろうか?
さっきのあの、直樹が死んでしまったようなあの夢が俺を冷静に引き戻してくれる。
直樹が唇を離したと同時に、俺は抱き寄せていた直樹を抱えたまま、寝がえりをうった。
中途半端にベッドのところに倒れ込んでいた直樹は驚いて身体を固くしたが、難なく抱きしめたまま、ベッドに転がすように横たえた。
「直樹、無茶するなよ、」
邪険にするつもりなんてないんだ。だけど、これ以上、直樹に暴走させちゃいけないと思った。
天使が堕天使になっちまう。
俺は、直樹の身体をそうっと抱き寄せたまま頭を撫でている。それが正解なのかはわからないけど。
「あっという間にくるんとなってびっくりした~、卓巳が怒ってて、僕を柔道の技で投げるのかと一瞬思っちゃった。
怒ってない、の?」
「...怒るというより、さ。
俺、ようやくちゃんと目が覚めたけど、少し俺も驚いてたかな」
「だってね、卓巳の目がとろんとしていて...。
寝ぼけてる卓巳を見下ろすなんてシチュエーション初めてで。
僕、もう我慢できないなって、」
「うん。確かに。『隙あり!』って感じだよな。
だけど、直樹、お前、しばらく安静にしていなきゃいけないんじゃないの?」
「...うん、そうだけど」
「今、大丈夫か?
目を回したり、貧血起こしてないか?」
「大丈夫、だと思うけど。でも、今急に立ったら、立ちくらみするかもね、」
「だろう?
俺の寝込みを襲おうなんて、10年早いんだよ、」
「じゃ、10年たったら、寝込みを襲っていいんだね」
「まぁ、10年20年たったら、1歳差なんてもう関係ないもんな。
それに、直樹の方が元気になって立派になって、俺はすげーしょぼくなってるかもしれないし」
「そんなことないよ、でも、僕10年先のことよりも、今日、卓巳からご褒美にしてもらおうと張り切って帰ってきたのにな、」
「ああ、そうだよ、それ。
俺も真剣にご褒美を考えてみて、今から練習しようとしていたんだ、一発芸を」
「嬉しいな。練習までして?
イッパツゲイ? 何それ、」
「お前を喜ばせようと考えて準備してたんだ、何すればいいかわからなかったし、
お前がリクエスト思いつかないとしたら、ご褒美の気持ちをどうやって表せばいいかわからなかったし。
喜んでくれるかわからないけど、いっそ今、ぶっつけ本番で披露しちゃおうか?
お前は疲れてるだろうから、そこでそのまんま寝ててくればいい、
今から脱ごうか?」
と、眠気がすっかりどこかへいった俺は、張り切って言った。
「嬉しいな、卓巳の筋肉質のヌードが見られるなんて。
貧血なんて吹っ飛んじゃうかも」
「いや、それはそれで嬉しいけど、気に入ってくれるかな?」