卓巳君の憂鬱(2)
結局そのまま、俺は直樹と出かける予定にされそうになっている。
直樹が検査を受ける病院に案内するためだ。俺の家から電車経路で1時間以内で通える大学病院が、直樹のかかりつけの病院だった。
ああ、そうだよな、だからあの時、直樹は俺の家にいたのだ。
姉貴に虐げられていた俺は、弟が欲しかったから嬉しくてならなかった。ずっとサンタさんに『弟をください』と頼んでおいたのだ。姉貴に勝つためにも俺には、弟という味方が必要だったから。半年遅れで神さまが良い子の俺に直樹をプレゼントしてくれたみたいに思っていた。
直樹はとても素直で、(俺とは比べ物にならないほどの)良い子だった。近所の小さな公園に行って小一時間だけ遊ぶというささやかな許可が出た時の喜びように、ふだんの直樹がどれだけ病弱でどれだけ我慢しているか、子供心にも伝わってきた。
俺を慕って素直についてくる天使のような子供。直樹は、俺が期待していた以上の、神さまからのプレゼントだった。もう一生何ももらえなくても良いと思うくらいに感謝した。もちろん直樹は身体が弱いから、姉貴と戦わせるには不向きな青びょうたんなところと、可愛すぎるので、残念ながらぱっと見妹のように見えるところだけが欠点だったけど...。
あの時のことを考えると、今は普通にすんなりと背が伸びて、飛行機に乗って、ちゃんと一人で日本に来ることだって出来るように成長しちゃったんだよ、なるほど確かに医学の進歩ってすげぇと思う。(あと、日仏英の3か国語話せる成長ぶりとか、俺なんかよりずっと・・・。)
「直樹はしっかりしているからさ、本当は病院だってぜんぜん一人で行けるんじゃないの?」
と俺は、鬼ババア(母)に小声で交渉してみたんだが、即座に却下された。
初夏を迎えた爽やかな季節、テスト休みと創立記念日が連続しているという幸運から生じた、ダラダラを満喫する最終日の予定がガラガラと崩壊していくことに、俺は少しむかついている。
鬼ババアは淡々と、次の一手を放った。
「通学定期の範囲なんだし、この間は学校の近くの図書館に勉強をしに行きたいって言っていなかった?
そういえば、今回のテストの結果、たぶん、どうせいつも通り悪い予定なんでしょう?」
俺はたちまち青くなる。
やばい、そうだよ、色々とやばいかもしれない。そこを、テストの結果を深く掘り下げるとですね、やばいんですよ、お母様。赤点はぎりぎり免れているとは見積もっているんだけれど...。
「ま、まぁ...今回はダメでも次回こそは!」
ちろん、と鬼ババアが俺を見る。
その次には決まり文句の「いつも、それね」という言葉が返ってくると予想したのに、そうじゃなかった。俺はフェイントをくらった気分になる。
母は、はぁ~っとため息をついたのである。やばい、シリアスバージョンだった。進退窮まった、てとこだ。
「お願い、卓巳。私が仕事を休めていたら、なお君に1日つきあうつもりだったのに。・・・色々あって、抜けられなくなっちゃったから。すごい心配なのよ、本当は。アンタにしか任せられない。
とりあえず、卓巳にお金を渡しておくから。一緒に行って、途中は図書館で自由に過ごしてくれていて大丈夫だと思うから。帰りはふたりで待ち合わせてタクシーで帰ってきてね。
はい、タクシー代プラスアルファ。なお君と一緒に行ってきてくれるなら、これ、お釣りはいらないわ」
って、...何だよ、けっこうお釣りが来そうじゃないか。いつもの鬼ババアが、すげえ優しい人になっているじゃん。
...ま、そういうことならいいか。ちょっとしたバイトだと思えばいいか。俺は慌てて丁重に、諭吉さま達を受け取った。
洗面所から戻って来た直樹が、しょんぼりした顔でぽそっと小さい声で言う。途中からこっちの会話が聞こえていたのだろう。
「あの、僕...、卓巳が、もしも忙しいんなら、僕はひとりで行きますから。だいたい覚えていますから」
「え?」
と、反射的に嬉しそうな顔をした俺を睨み、鬼ババアが慌てた。顔を見たら、{行かないのなら、金返せ!}という形相だった。だが、直樹向けの声は聖母のように優しかった。
「何を言ってんの?行きはともかく、帰りが心配だから。けっこうシビアで痛い検査なんでしょう?」
「ええ、まぁ...。でも、もしかしたら、卓巳は彼女とデートかもしれないでしょ?」
!
あぁ?!...おま、何を...。やばい方に話が、、、行くじゃないか~~。
鬼ババアがもう、大興奮を始めた。俺は、攻撃をかわす方法が何も思いつかない、んだが...(汗)。
「え?そうなの~?...うわ、卓巳、良かったじゃない?奇跡?
良かったね~~!、ほんと、今まで、全くモテなかったのにね。
よ~~し、なお君が検査を終えて、普通にご飯食べられるようになったら、お赤飯で一緒にお祝いしましょ?」
あわあわしたまんまの俺と違い、直樹がそれに笑顔で即座に反応する。
直樹は、昨日の夜10時から何も食べていない。絶飲食で検査に行くことになっていたので、素で嬉しかったようだ。
「お赤飯! 僕、食べたかったんです、わぁい、パーティですか?」
「そう、パーティよ、ちゃんと先生にいつから普通に食べていいか、聞いてきてね。食べちゃいけないものもちゃんと聞いてきて!
おばさん、お料理、頑張っちゃうから!」
「はい!」
と、話が料理方向に舵をきったので、俺ものっかることにした。
直樹が心配なのか、一生懸命に明るく気持ちを引き立てている鬼ババアの努力は、偉いと思う。会社でもなんか抱えているぽかったので、俺も協力することにした。おこづかいも弾んでくれたし。
「母さんが張り切って大丈夫かな~~?
素人の適当なお赤飯とかマズイご飯なんか、『永遠に食べちゃダメです』って言われないかな~~♪」
「そういうことをいう卓巳は、食べなくていいから。
なおくん、他に好きなもの、考えておいてね」
「僕、和食が食べたいです。和食ならなんでも!」
「あ、じゃ。天ぷらとかそういうのかな。あ、おばさん、ごめんね、そろそろ、仕事に出るね!
あとは、よろしくね、卓巳」
「ああ、わかった」
と俺は答えた。そして、母がドアの外に出たから、ほ~~っと安堵のため息をつこうとしたのに、いきなり首だけ戻ってきて
「卓巳、今度、彼女を紹介してね。ああ、卓巳を好きになってくれるなんて、どんな子かしらね~♪」
と、その言葉をさらに発してドタバタと去って行ってしまった。
なんか、あの人、自分のことのようにすげー喜んでいたわ。
...それがぬか喜びとも知らないで。
やばい、もしかして、相当やばいんじゃないか?
誰かに替え玉を頼む?いや、紹介する直前で別れたことにすればいいか、...。
俺がそうやって変な汗をかいているというのに、直樹は邪気のない顔でふわっと笑った。
「僕も、卓巳の彼女に、会ってみたいな♪...ねぇ、もしかして本当に今日はデートだった?
どこか途中で会えない?」
俺は、直樹をじろっと睨んだ。本気で不機嫌な声が出た。
「...たく、余計なことを親に言いつけやがって。ずっと...内緒にしてたのに。
とりあえず、今日はデートじゃねえよ」
と言うだけにとどめた。
とりあえず今日、どころか、永遠にそんな日がやって来ないかもしれないって、俺は最近悩んでいるっていうのに。
直樹は、俺の態度に本気でへこんだようだ。
「ごめんね。卓巳、彼女の事、お母さんに内緒だったんだね。...ごめんなさい、おばさんも公認の仲なのかと思っていたんだ。そういうのって、隠すことなんてないハッピーなことだと思ってたから」
と、しょんぼり言う。そういう時には目を伏せるのが、直樹の癖だった。
そして、昨夜から俺は気づいていた。直樹は本当にまつ毛が長いな、と。...ホントどうでもいいことなんだけど。
いいや、調子が狂うから、とりあえず出かけよう。
「あ、いいよ、もう、いつまでもそんなこと。...支度して10分後に玄関な、」
少し顔を赤らめて、直樹が俺の服を後ろから引っ張る。
ん?
「卓巳、あのね?今、誰もいないから、今日の分のおまじない、して?」
「はぁあ?」
と、つい大声が出た。
せっかく気持ちを切り替えたってとこなのに。あまりの唐突な話に、俺はものすごいリアクションになってしまった。
お前、本当に空気読めよ。日本ではそうしないといけないの。(フランスではどうなんだろう?)
俺の不機嫌ぶりが直樹には全く伝わっていないのだろうか?
だいたい、出かける前に、ややこしい気分になっちゃうじゃないか、どうするんだよ?
せつないしょんぼり顔のままだが、直樹はそれでも言い募る。
「お願い、ええと、...ガチで。すごく痛い検査なんだよ?」
「知っているけどさ、今から俺、お前のために速攻で支度するんでギリギリなんだよ。そんな時に本気でキスなんてしていたら、って、
ああ、もう!
本当にそんな話、している場合じゃないから!
今晩、ちゃんとしてやるから、な、思いっきり約束するから」
「...でもね、悪化していたら...もしかしたら、入院しろって言われるかもしれないし、病院じゃ、そんなこと、出来ないでしょう?」
思いっきり頭の中でそんな場面を想像してしまって、俺は真っ赤になった。
「そ、それはそうだと思うけど。あ、じゃ、ほっぺにしよう。そ、それだ。ほら、分割払いで。ね、ほっぺに2回か3回、今日の分は、それでいいじゃん」
と言いながら、俺はほくそ笑んだ。
そうだよ、それでいいんじゃん。
今後、本気のキスは無しにしてもらって、ほっぺにキス、の分割払いで乗り切ればいいんじゃん。今更ながら、いいアイデアを思いついたよ。
少し不満そうな表情を慌てて戻し、
「検査が終わったら、ご褒美にちゃんと本気のキスしてよ?」
と、目をつぶってほっぺを差し出す直樹に、俺はうんうんと生返事をしながら、キスをして慌ただしく離れて、バタバタと支度をした。
そうでもしないと、やはりそのまま色っぽい気持ちになりそうだったからだ。
なんで直樹は、こんなに、...いや、なんでもない。
直樹のほうは、ほとんど支度が出来ていたようで俺の部屋について来ようとしていたが、昨日、俺の筋肉を羨ましそうに見ていたのを思い出して締め出した。
「僕も卓巳みたいに、がっちりした感じになりたかったな...」
という、あのか細い声を聴きたくなかった。
あの時一瞬、調子に乗って筋肉自慢してやろうかと思ったが、出来なかった。病弱な直樹は、あきらかにひょろひょろして見えるのだ。
その代わりなのかなんなのか、なんだか非日常的なくらいに美しい、としか言えない。
男にそんな表現は失礼かもしれないけれど、今朝だって朝の光の中にきれいな顔をした直樹がいるだけで、うちの家のリビングまで浮世離れして見えていたんだ。
ご飯を食べたり、俺のそばで寝ていたりと、普通の人間の振る舞いをしていたけれど、なんか場違いにしか思えないくらいの存在感の希薄さ。
『実は、バーチャルリアリティーの実験でした~!』ていうドッキリだったと言われた方が、信じられる気がする。
バタバタと階段を下りて玄関で靴を履いて、あらためてそばに大人しく立っている直樹を見た。かばんを二つも足元に用意して緊張した顔をしている。
夕べ、俺に抱きついてきた細い腕。
俺にしなだれかかった細い首。
何度見ても、やはり現実味がない。
ずっと夢の中にいるみたいな、変な居心地の悪い感じ。天使か人間か確かめてみようかと触ったら、夢が終わってしまい、すぐにふわって消えそうな・・・?
こいつはやはり、天使なんだ。
「どうしたの、卓巳?...あ、服装?
僕、あの、なんか変かな?」
と直樹に不安そうに言われて、正気に返った。
「あ、ええと...」
ああ、今急に頭にひらめいていたのだ。
こいつは、本当は天使だったかもしれないから今日は接待しておかないとってこと。
そう、次のクリスマスには、
『GFを一日だけでもいいから、お願いします』
しかないだろう、あんなに鬼ババアが喜んでいたんだし。
ここは一つ、優しく直樹を接待して、俺が未だに良い子だと神さまに思ってもらわないといけないな。
俺は、たちまち好青年モードに変身するよう、切り替える。
「あ、いや、ごめん、ごめん。
忘れ物とか、何か気をつけて確認することないかなって思っただけで。
服はぜんぜん大丈夫。
うん、直樹、とても似合ってて、かっこいいよ。書類とか全部、持った?」
「うん、とりあえず、全部。...もしも入院って言われたら困るから、着替えまで持ってるからかさばっちゃって」
「賢明だね、さすが。大丈夫、そっちの重い方は俺が持ってやるよ、遠慮するな」
俺はすっかり良い兄貴モードで、直樹の目を優しく見返してやる。
「ありがとう、卓巳」
と、直樹もようやくほっとしたような笑顔を向けた。
直樹も一生懸命に一人で日本に来たが、不安だったみたいだし、本当は俺に頼りたかったんだろうし、俺はさっきまでちょっとつんけんし過ぎていたのかな、と反省する。
神さま、俺が良い子だとわかっていただけましたでしょうか・・・?
なにとぞ、なにとぞ、この努力をご理解たまわりますよう・・・俺はもう心の中で神さまに思いっきりへこへこしてアピールを続ける。
しばらく、俺は良い子でいますので♪
電車の中で他愛無い話をして、病院の受付まで送り届け、大きなかばんを渡して、ヨイショついでに優しく肩をポンポンして別れた。その時はまだ、直樹と一緒に笑顔で帰れると、俺は楽観的に考えていた。