第96話 世界はわたしに優しくなかった
わたしの人生で一番幸せだった時間は、もう終わってしまった。
そこから先は下り坂。緩やかに死を待つだけの消化試合みたいな人生だ。
5年前のあの時まで、わたしは自分の人生が輝かしいものになると信じ込んでいた。
世界は幸せと優しさでできていて、その鮮やかさは永遠のものだと、疑いもしなかった。
要は世間知らずの箱入り娘だったのだ。
わたしは有名貴族であったディーンラーク家の長女として、この世に生を受けた。
一人娘ということもあり、お父さまにもお母さまにも大変可愛がられた。
お父さまに言えばなんでも買ってもらえた。おしゃれなドレスだって、ピカピカのシューズだって、宝石でこしらえたキラキラのブローチだって。
わたしは友達や屋敷の使用人にそれを自慢するのが好きだった。
かわいいと褒められるのは好きだったし、お父さまに買ってもらったものを褒められると、お父さまのことまで褒めてもらっているようで心が温かくなった。
お母さまは綺麗で、優しい人だった。わたしの髪をよく編んでくれた。怖い夢を見た時は抱きしめて、一緒に眠ってくれた。
「ソフィー」
お母さまはわたしの名前を呼ぶ時、決まっていつも笑顔だった。その響きは温もりに満ちていて、わたしはわたしの名前がとっても好きだった。
わたしは二人が大好きだった。お屋敷にいる人もみんな優しかった。
廊下ですれ違えばみんな声をかけてくれて、お菓子だってたくさんくれた。仕事で忙しいはずなのに、暇だったわたしの遊びによく付き合ってくれた。
そんな幸せに満ちた人生は、お父さまが死んで一変した。
死んだのではない。正確には殺されたのだ。
自分が育て上げた暗殺者に。
どうやらお父さまは悪い人だったらしい。これは死んでからわかったことだ。
わたしにとっては自慢の父親だったけれど、裏では相当黒いことをやっていたそう。
孤児を安値で引き取り、人権をも顧みない過酷な戦闘訓練を叩き込み、己の手先となる尖兵を作り出していた。
そんな尖兵の一人に反旗を翻されて、殺されてしまった。
お父さまが死んで、悪事が公になって、周囲の人の態度は一変した。
優しかった人はみんなお父さまを非難するようになって、わたしやお母さままでも糾弾し始めた。
責め立てる人の中にはお父さまに助けられた人もいたはずなのに。優しくしてもらった人もいたはずなのに。
そんな恩なんてないかのように酷い言葉を浴びせてきた。
許せなかった。殺されたのはお父さまのはずなのに。
なんでわたし達が悪者のような扱いを受けなくちゃいけないの?
お父さまはいいことだって、たくさんしていたはずなのに。
それを全部なかったことにされて。一方的に好き勝手言われて。悪者にされて。
そんなのお父さまが可哀想だ。報われない。
お母さまはお父さまが裏で行っていたことを知っていたみたいだった。
だけど、愛する夫を失って。貴族としての地位を失って。世間に後ろ指を指されるようになって。お母さまはおかしくなってしまった。
きっと変わっていく現実に耐えられなかったんだと思う。
わたしを殺して、自分の命を断とうした。
「ソフィー、一緒に死にましょう」
わたしの名前を呼んでいるはずなのに、その顔は笑っていなかった。
怖かった。お母さまがお母さまじゃないみたいで。逃げ出した。お母さまを突き飛ばして、一心不乱に逃げ出した。
どうして? なんで? お母さまは変わっちゃったの? お父さまはどうして戻ってこないの?
結局、お母さまは一人で死んでしまった。
死んでから後悔した。一人寂しく死ぬくらいなら、一緒に死んであげればよかった。
どうせいいことなんて、この先一生ないのだから。死んでも変わらないのに。
お母さまはいつもわたしの味方をしてくれたのに。肝心な時に、わたしはお母さまを見放した。
わたしは一人になった。味方はもう誰もいなくなってしまった。
孤独だった。絶望しかなかった。
この世から幸せと優しさはすべて消え失せていた。広がっているのは、ただ灰色の人生のみ。
世界はわたしに優しくなかった。
レイファ殿下と出会ったのは、そんな絶望の最中だった。
世間から疎まれていたわたしに声をかけてくれた。
「貴方、ディーンラークの一人娘ね」
またお父さまを馬鹿にされるのかと思った。
もう我慢するのは嫌だった。黙って歯を食いしばるのは嫌だった。言い返してやろうと思った。
でも、違った。
「貴方の父親はなかなか見どころのある人間だったのにね。配下にでもしてあげようと思ったのだけど、残念」
レイファ殿下は人を駒としか考えていないような人間だ。その評価も駒の1つとしての評価だったのだろう。
でも、わたしは無性に嬉しかった。
だって、お父さまが死んでから、肯定してくれた初めての人間だったから。
少しだけ、救われた気がした。この世界はわたしに優しくないけど、もうちょっとだけ生きていてもいいと思えてきた。
それからだ。わたしがレイファ殿下に付き従うようになったのは。
レイファ殿下はお世辞にも人格の良い人間ではない。目的のためなら手段を選ばない人間だ。
野望のためだったら悪事だって平気で行うし、お父さまのように家族に優しいという別の顔を持っているわけでもない。
ただ純粋に手段として、悪を好んでいる人間だった。
だからといって、レイファ殿下の下を離れようとは思わなかった。
わたしはあいつらとは違うのだ。お父さまの悪業を知って、離れていった恩知らずの配下とは違って。
わたしは一生付いていくと決めたのだ。何があろうとも。
世界がレイファ殿下の敵であろうとも。わたしだけは味方でいると。
もう誰かを見放して、後悔するのは嫌だった。
***
「全部貴方のせいよ! 貴方が我儘を言って、首切りを仕掛けたりしなければ!」
コーヒーカップが飛んでくる。
わたしはそれを避けることもしないまま、甘んじて受け入れた。
「父親の仇だか知らないけれど、そんなの放っておけばよかったのよ! 復讐なんていう非合理的なことは諦めて、私のためだけに動いていればよかったの!」
レイファ殿下の言う通りだ。わたしは殿下に迷惑をかけた。付き従うと決めたはずなのに、殿下の野望の邪魔をしてしまった。
わたしが首切りへと繋がるパイプラインを知ったのは偶然だった。
殿下の謀略の手伝いをしている最中、とある情報屋から耳にしたのだ。
その情報を手にして、わたしの中に一つの欲望が芽吹いた。
お父さまを殺した暗殺者。そいつを突き止め、殺すことができないかと。
気が付いたら、そのパイプラインを利用していた。首切りに暗殺の依頼を出していた。
レイファ殿下には当時も怒られた。勝手なことをするなと。むやみに動くなと。
しばらく経つと、首切りサイドから連絡が来た。
お父さまを殺した犯人は『
その情報とともに、依頼の達成は失敗したと。これ以上の暗殺はリスクが高く、手を引くつもりであると言われた。
その報告を受けて、少しほっとしている自分がいた。
衝動的に暗殺の依頼を出してしまったけど、本当はそんなこと許されるわけない。
人を殺すのはいけないことだ。お父さまがそういうことをしていたことだって、わたしは許されるべきものではないと思っている。
確かにレイファ殿下の命令に従って、人殺しに近いことに何度も手を貸している。
だけど、それは間違っていることだ。自分でも自覚している。
自分の殺意による初めての殺人が失敗して、心は軽くなっていた。
首切りへの依頼の副産物として、『
【
レイファ殿下の目が光った。
これは何かを企んでいる目だ。その予測は当たっていた。
その後すぐにレイファ殿下は、ダンジョン攻略に必要なメンバーを集め出した。
それはお父さまの仇であるジンが、ダンジョン21階層で命を落とした時期とほぼ同じだった。
「貴方はいつもそう。能力はあるから仕えさせてやっているのに。やることなすこと全部裏目に出て。本当に使えない」
そんなこと言われなくてもわかっている。わたしだって百も承知だ。
やることなすこと全部が上手くいかない。どうしてこんなに駄目な人間なのだろう。
わたしは不幸の星に生まれて、不幸であり続けることを運命づけられている。そうと説明されでもしない限り、納得のしようがない。
「わかっているでしょうね。わたしは使えない駒には容赦ないって」
「はい……」
これで2アウトだ。
監禁していたノート・アスロンを独断で逃がしてしまったこと。
暗殺を勝手に依頼したことによって、ノート・アスロンと首切りの接点を作ってしまったこと。
合計で2アウト。殿下は3アウトする人間を確実に許さない。
「次は必ず上手くやってみせますから」
「次も何もないのよ。ノート・アスロンからは手を引くしかない。首切りが出てきたとなれば、感情に身を任せて仕返しに走るのは得策じゃない。悔しいけど、ノート・アスロンの言う通り、大人しくダンジョン攻略をし続けるくらいしか道は残されていない」
レイファ殿下は顔に苛立ちを浮かばせたまま、爪を噛んでいた。
このまま静かに時が過ぎるかと思いきや、いきなり部屋のチャイムが鳴った。
「来客? 誰? こんな忙しい時に。ソフィー、さっさと応対しなさい」
「はい、わかりました」
ドアを開く。すると、そこには見知らぬ女性が立っていた。
「えーと、レイファ・サザンドール様でしたっけ? そんな感じの人がいるって聞いたんですけど、合っていたりします?」
誰だろう、この不躾な人間は。
頭を掻いている金髪のハーフエルフに向かって言った。
「誰? 突然やってきて」
「あっ、わたしですか? ミーヤ・ラインって言います。なんかレイファって人がダンジョン攻略をするためにすごいメンバーを集めているって聞いて。手伝えるかなーって思ってやってきました」
背後に目を向け、合図をする。
レイファ殿下は呆れたようにため息を吐いていた。
「なに、この舐めた態度の人間は? 冷やかしかしら?」
「冷やかしなんかじゃありません! 本気の本気です! わたし、ついこの間この街にやってきた冒険者なんですよ。ダンジョン攻略でもしようかって。でも、どうせ入るなら一番すごそうなパーティーに入りたいじゃないですか。で、噂に聞くと、王女殿下がダンジョン攻略に乗り出すそうで。それで面白そうだなーと思ってやってきました!」
「はあ……」
レイファ殿下は頭を抱えて、目をこすっていた。
「なんでこう一日に何件も面倒ごとが舞い込んでくるの……。ねえ、ソフィー」
「な、なんでしょうか」
背筋を伸ばしながら返事をする。
このドスの利いた声。本気で怒っているタイプのやつだ。
「この舐めたやつを追い出しなさい」
「えっ、なんでですか⁉ まだ名前しか名乗ってないのに! 経歴とか、少しくらいは聞いてくれません⁉」
「今、私は気が立っているの。二度は言わせないで」
「聞いてくださいって。わたし強いですよ。少なくとも、あなたが集めた人の中では一番役に立つ自信があります!」
「ほお……」
レイファは面白いものを見つけたかのように、口の端を吊り上げた。
「いいだろう。なら、見せてみなさい。そこにいるソフィーと戦ってみて。そして、勝てたらパーティーに加入させてあげるわ」
「本当ですか⁉ ありがとうございます」
無邪気な笑顔で飛び跳ねるハーフエルフの少女。
レイファ殿下は立ち上がると、部屋を出る準備をした。
コートを羽織って、わたしの隣を通り過ぎる時にそっと耳打ちをする。
「ねえ、ソフィー。あの女をコテンパンにしてやりなさい。あの舐めた態度を後悔させてやるの」
「で、でも――」
「でも、じゃない。やりなさい。もし、負けるようなことがあったら、わかっているかしら?」
ゴクリと唾を飲み込む。そんなこと言われたって――。
【高位鑑定】によって映る情報からは彼女のスキルが、余すところなく表示されていた。
【弓術・極】に【身体強化・大】、そして【森精霊王の加護】。
どれもが一級のスキルで、正直わたしなんかに勝ち目がない。
スキルだけ見ればギルベルト超えの存在。彼女は十数年に一人の逸材だ。
「ノートでしょ? それにフォースだっけ? 最近負けが込んでいるんだよねー。だから、ここいらで一発勝たないと。雑魚キャラみたいになっちゃうからなぁ」
そう呑気なことを呟く彼女を前に、わたしは絶望していた。
やっぱりだ。世界はわたしに優しくない。
なんでこんな時に、こんな化け物がやってくるの。神様はわたしに試練を課さないと気が済まないの。
最悪だ。せめて一日だけ早かったら。一日遅くでもいい。レイファ殿下の虫の居所はここまで悪くなかったはずだ。
でも、この最悪の機嫌のまま、もしわたしが負けたら――。
きっと、わたしは――。
この日、わたしは3アウト目を言い渡された。