第9話 突きつけられた刃
「フォースさん起きてください!」
まだ日が顔を出しきっていない薄暗い早朝。
俺はフォースの部屋の扉を叩いていた。
これは朝のランニングに誘うためである。
ゴンッ、ゴンッと鈍い音が響く。
しかし、扉から返ってきたのは呻きに近いフォースの声のみだった。
「……無理。頭痛い。今日はパスで……」
「なにふざけたこと言っているんですか。体調悪いんだったらネメ姉さんに治してもらえばいいじゃないですか……」
「そういう問題じゃねえよ。昨日、夜遅くまで飲んでたせいで眠いのもあるんだよ」
「確かに昨夜家にいなかったですね……。でも、それ自己責任じゃないですか? ほら、早く行きますよ」
「しょうがねえだろ。かわいい女の子に飲みに誘われたとあっちゃ断れないからな」
「噓もほどほどにしてくださいよ……」
「事実だわ! 女と飲んでたんだよ、昨日! 女と! 二人きりで!」
「『女と』を強調しないでください。腹立ちますから」
「おい、嫉妬か? ノートよ、かわいいもんだな」
図星だった。
指摘通り、俺はフォースを妬んでいた。
まあ、ここで露骨にイラついたら、さらに馬鹿にされるのが目に見えているし。
冷静になって、フォースを布団から出そうじゃないか。
「ドア叩き破りますよ……」
「嫉妬丸出しじゃねえか! とりあえず、オレはいかない。ネメでも連れ出して安全な街中走ってろよ」
このまま頑張ってフォースを起こしても、調子に乗っているフォースに煽られるだけのような気がしてきた。
確かに街中を走る分にはモンスターの危険もなく、フォースの同行も必要ないだろう。
フォースを連れ出すことは諦めて、提案に従っておこう……。
――この時の俺の選択が、フォースの発言が、これから起こる悲劇の伏線になっていようとは今はまだ知る由もなかった。
「嫌です……行きたくないです……」
肩の上で文句を垂れるネメ。
なかなか部屋から出てこない彼女を無理やり引っ張り出したところだ。
だからだろう。今のネメは寝起きのままという姿。
ぼさぼさとした寝癖を携えたまま、子供用のパジャマに包まれている。
ネメの訴えを無視して、肩に抱える。
そのままパーティーハウスを出て、街中を走りだした。
「フォースも休んでるです! ネメも休みたいです!」
俺の背中を叩き、抗議するネメ。
ひ弱な彼女の拳は全然痛くない。
「お願いしますよ。体力作りのためなんです。我慢してください」
「やだです! 気持ち悪くなりたくないです!」
「最近は乗り心地がマシになったって言っていたじゃないですか」
「ほんのちょっとマシになっただけです!」
普段からネメを抱えて走ろうとすると、ネメは抵抗し出す。
こういうときは聞き流すのがベストである。
走っていれば、次第にネメは諦めて大人しくしてくれる。
いつものパターンだ。
しかし、フォースがサボっているせいか、今日のネメは折れなかった。
「ネメもフォースみたいにお布団で寝てたいです!」
手足をばたつかせ、必死に俺の腕を振りほどこうとする。
「動かないでくださいよ、走りにくいですから」
「やだやだやだ、帰してです!」
「駄目です。絶対に帰しません」
「やだです! 放してです、この変態さん!」
「変態でもいいから、放しませんよ」
「変態変態変態変態変態! 放して放して放して、です!」
ネメは叫びながら、手足を叩きつけてくる。
さすがにそこまで暴れられると痛いんだけ――。
「ちょっとそこのキミ。止まりたまえ」
「はい、なんでしょうか……」
不意に後ろから声をかけられる。
振り返ると、鎧を纏った騎士がいた。
胸の特徴的な紋章。おそらく、この街の憲兵だ。
そんな深刻そうな顔をしてどうしたんだ?
何か大きな事件でもあったのか?
「そこの子供を放しなさい」
「えっ……?」
騎士は剣を抜き、刃を俺に突きつけた。
腰を落とし、いつでも突きを入れられる臨戦態勢だ。
これじゃあ、まるで俺を捕まえようとしているみたいじゃ――。
「こんな街中で堂々と女児を攫おうとは度胸があるな! この誘拐犯!」
あっ……。そういうことね……。
完全に状況が把握できた。
これはあれだ。
ネメは実際の年齢よりかなり幼く見える。
そんなネメが嫌がりながら抱えられている。
俺はこの街に来たばっかりで、ネメと同じパーティーメンバーだと認識されてない。
結果、知らない男が幼女を誘拐している風に勘違いされた。
そういうことだろう。
普段は街の外を走っていたので、絵面がまずいことになっているのに気がつかなかった。
客観的に考えると、この光景は完全に犯行の最中である。
しかも、フォースが休んでいるせいで今日のネメの抵抗は一段と激しかった。
ここまで大声を出していたら、憲兵が駆けつけるのも当然のことだろう。
騒ぎを聞きつけて、野次馬が集まりだす。
他の憲兵も応援に駆けつけてきた。
「いやいや、違いますって。誘拐なんかじゃないですよ。ね、ネメ姉さん」
横を向く。
彼女の黒目は泳いでいた。
口元を震わせ、汗をだらだら垂らしている。
抱える腕越しに、汗で彼女のパジャマが湿りだすのを感じ取った。
「怖がっているじゃないか! 早く放しなさい!」
「違う! 違います! 彼女は大勢の人に注目されるとこうなるんです! 人見知りなんです!」
「ち、ち、違います……ひっ、人見知りじゃないです……」
「ほら、違うって言っているじゃないか! 大人しく放せ、今なら手荒な真似はしないから!」
こんな時まで、人見知りなのを否定すんなよ!
ややこしいことになるから!
まずい……どうする……。
俺まで冷や汗をかいてきた。
ネメなんて「あわあわ……」言っているし。
これ、詰んでない?
「とりあえず署までご同行願おうか」
バッと動き出した憲兵にあっけなく取り押さえられる、俺。
ネメを引きはがされ、絞められた両手に手錠がかかる。
これ、どっからどう見ても逮捕じゃん!
ご同行じゃねえだろ!
「助けてください……ネメ姉さん……」
上から体重をかけて押さえられ、息が上手く吸えない。
そんな中、必死に声を振り絞るも――。
「ひっ……」
目に映ったのは瞳に涙を溜めている幼女だった。
駄目だ。終わった……。
***
「おい! ここで大人しくしていろ!」
乱暴に牢屋に放り込まれる。
手錠をかけられているせいで受け身が取れない。
硬くて冷たい石の床に叩きつけられた。肘が痛い。
身体を捻り、視線を上げる。
俺を投げ捨てた憲兵の背中が見えた。
彼はすぐさま通路の先の暗闇へ消えていった。
俺こと、ノート・アスロン16歳。
女児誘拐容疑で牢屋に入れられてしまった瞬間であった。
誰がこんな未来を想像できたであろうか。
ダンジョンに潜るために必死こいて修業していたのに、いつの間にか犯罪者として逮捕されるなんて。
まさに一寸先は闇。
世の中、どんな落とし穴が待ち構えているかわからないもんだ。
そんな風に現状とこれからの未来を嘆いていると、正面の牢屋から威勢の良い声がかかってきた。
「よう、あんちゃん! ここに来るの初めてだろ?」
声のもとへ目を向ける。
暗くて顔ははっきり見えないが、そこには男がいた。
声の渋さから察するに年齢は俺より結構上かもしれない。
シルエットからは体格の良さが窺える。
「はい……」
「そのおどおどした感じ見てればわかるよ。一体何やったんだ? これか? それともあれか?」
おそらく何かのジェスチャーをしているんだろうが、暗くてわからない。
目を凝らしても、そのジェスチャーが何を意味しているのか見当もつかなかった。
馴れ馴れしく話しかけて来ることに鬱陶しさを感じつつも、黙っていてもこんな牢屋の中じゃすることがないし退屈だ。
話に応じることにした。
「女児誘拐の冤罪をかけられまして……」
「ここに入ってきたやつはな、最初はみんな『自分はやっていない。無実だ』って主張するんだよ。だけどな、ほとんどのやつはやってる。冤罪なんてほとんどありゃしないぜ。正直になれよ。素直に認めて反省すれば、軽い処罰で済むって」
「本当に無実なんですけど……」
「いいから。そういうのは……」
素直に答えなければよかった……。
俺は、猛烈に後悔していた。泣きたくなっていた。
このまま無実を主張してもこの人は耳を傾けてくれない予感がしたので、話題を変える。
「そちらはどうして捕まったんですか?」
「喧嘩だよ。ただの喧嘩。昨日酒場で俺の女にちょっかいかけていた男とトラブル起こしたらこのざまだよ。全く、初犯だっていうのに、喧嘩しただけで牢屋に入れるかね、普通……」
捕まったの昨日なんかい! 初犯なんかい!
散々先輩面していたけど、一日分しか先輩じゃなかったよ、この人……。
「おいおいおい。待たへんか、そこのクソ男。あれはワシの女って言ってるやろ!」
隣の牢屋から怒鳴り声が聞こえる。
壁に阻まれて姿は見えないが、声のトーンから察するにだいぶ頭に血が上っているようだ。
「えっと……誰なんです?」
正面の男に問いかける。
彼は「俺の喧嘩相手だ」とぶっきらぼうに答え、牢屋の柵に詰め寄った。
「なに言ってるんだ、このアホ男! ロズリアちゃんはな! 俺と付き合ってたんだよ!」
そのまま、俺の隣の牢屋にいる男に怒鳴り返した。
その豹変に思わず身を引いてしまう。
しかし、隣の男は正面の男の言い分を鼻で笑い飛ばした。
「お前こそ、なに言ってんだか。ロズリアちゃんはワシのことを好いとったんや、この勘違い男!」
「なんだと! お前、ぶっ殺してやるわ!」
「それはこっちの台詞や!」
――凄み合う両者。
決めた。このくだらない争いに関わりたくないし、寝よう。
そう思って、俺は目を閉じた。
***
「大変ご迷惑をおかけしました」
迎えに来てくれたエリンに頭を下げる。
どうやら彼女は慌てふためいてパーティーハウスに戻ってきたネメの話を聞き、この留置所まで駆けつけてくれたようだ。
エリンが憲兵に事情を説明してくれたおかげで、容疑が晴れ、こうして牢屋から出ることができた。
ありがたい限りだ。
「早く帰って練習するわよ。あなたの馬鹿みたいなへまのせいで、時間を無駄にしちゃったじゃない」
「申し訳ありません……」
時刻は既に夕方。空は茜色に染まっていた。
本来なら、今頃《罠探知》の練習をしていたことだろう。
「ノート、前に言ったわよね。やる気がないならパーティーから抜けても構わないわよ」
エリンが語気を強める。
面倒ごとで手間をかけさせられたことに機嫌を悪くしたのが、不満をぶつけてきた。
「やる気はあるよ」
負けじと俺も言い返す。
どうしてエリンにそこまで言われないといけないのか。
少し腹が立ってきた。
今日の事件だって、元々は俺のせいじゃないはずだ。
俺を責めるんだったら、ネメを責めろよ。
「本当にやる気があるのだったら、牢屋から脱獄でもして特訓に来なさいよ」
「なに無茶言ってるんだよ。そもそも俺に脱獄なんてできるわけないだろ?」
「はあ? 今のあなただったらできるわよ。《開錠》の上位アーツである《罠解除》がある程度使えるわけだから、手錠や牢屋の鍵なんて開けられるでしょ」
「そんなの知らないし、教わってなかったから……」
「教わってなくても試しなさいよ。牢屋でぼーっと時間を費やしている暇があるなら試して当たり前でしょ」
エリンに図星を指されて、頭に血が上る。
彼女の言い分を素直に認めるのも癪なので、咄嗟に思いついた反論をぶつける。
「でも、脱獄なんかして事態を悪化させるよりは、大人しくして穏便にやり過ごしたほうがいいだろ?」
「穏便にしている時間がもったいないじゃない。一分一秒でも無駄するなんて馬鹿のすることね」
「ダンジョン攻略を始める日まではまだ五カ月もあるんだ。そんな危ない橋を渡る必要もないじゃ――」
「なんですって?」
途端、エリンの咎めるような視線が俺の瞳を突き刺す。
ヒートアップした思考が落ち着きを取り戻し始める。
――なにかまずいことでも言ったか……?
「最近のノートにはむかついていたけど、今ので確信したわ。あなた、たるんでるわね」
「俺がたるんでる……?」
そんなわけないだろう。俺はいつだって真剣だ。
今日だって、真剣に特訓しようとしてフォース抜きでランニングをしたから、捕まるはめになったのだ。
俺が真剣じゃないって?
冗談もたいがいにしろって……。
「そうよ。たるんでるわ。だって、あなた言ったでしょ? ダンジョン攻略を始めるまで五カ月もあるって」
「それがなんだよ……」
「なに、五カ月まるまる使おうとしているのよ! 本来なら、特訓なんてなるべく早く切り上げてすぐさまダンジョン攻略を始めたいって言うのに!」
「――あ」
無意識に口から漏れ出た音は耳に入らなかったけど、それはおそらく情けない声だったことだろう。
俺はエリンの指摘に身体を震わせた。
納得してしまったのだ。
彼女の言い分に。俺自身のたるみに。
エリンの言う通り、期限以内にアーツを習得できさえすればいいと思っていた。
最初の頃はアーツの感覚すら摑めず焦っていた。
しかし、だんだんコツを摑み始めて、期限以内に習得できるんじゃないかという予感を持ってから、心の中に余裕が芽生えてしまった。
焦るのをやめてしまった。
俺が認識できなかったたるみをエリンは完全に見抜いてきたのだ。
俺は指摘されて初めて気がついたっていうのに……。
無性に悔しかった。
自分を変えるために『到達する者』に入ったっていうのに。
昔と。ミーヤといた時と。
俺はなんにも変わってなかった。
変わっていない自分が、変わることのできない自分が、とにかく情けなくって。
泣きたい気持ちになった。
誰かが言ったか、『人は簡単に変われない』と。
多分、その通りなんだろう。
少なくとも俺は変われなかった。自分が一番嫌いな自分から。
――なにやってんだろうな、俺……。
その後も、エリンには散々手厳しいことを言われたんだろう。
そのどれもが頭に入らなくて理解できなかった。
口の動きだけを追っていた。
頭の中に渦巻くのは、どうすればよかったのか、この先どうすればいいのか、という当てのない疑問だけ。
頭の中がぐちゃぐちゃになって、もう何もわからなくなってしまった。