第59話 雪の降る街
それからの数日、俺はあの時の感覚を忘れることができなかった。
ひったくり犯との戦闘。
たった一瞬の出来事だったけど、その瞬間をもう一度と熱望している自分がいた。
仕事が一段落して手が空いた時や、誰かと会話をしていて聴きに入っている時など。
ふと、あの昂ぶりがフラッシュバックしてくる。
それは職場のヒルトンやモナルと話している間だけのことではなく、週に二回約束されていたロズリアとの食事の最中でも同じことだった。
「――で、その時わたくしは言ったんですよ。『ヌベヂヤンが来ちゃうぞー!』って」
「うんうん」
「そうしたら、子供達が『キャー!』って叫ぶんですよ。本当、子供っていい反応しますよね」
「なるほど」
「ちょっと相槌適当すぎませんか? ちゃんと聞いてます?」
あからさまに、ぼーっと話を聞きすぎたようだ。
ロズリアが腕組みをしながら、不満げな視線を送ってくる。
確か、教会に遊びに来た子供達と遊んでいた話をしていたはずだ。
全然頭に入ってきてないので、適当に聞いた単語を羅列してみる。
「要するにヌベヂヤンってやつが緑色に爆発するんでしょ?」
「それ、話の一番初めじゃないですか。要するにほとんど聴いていないと……」
「はい、すみません……」
どうやら間違ってはいなかったようだが、話の中心部分でもなかったようだ。
ロズリアの顔がさらに険しくなる。
ヌベヂヤンが緑色に爆発するところから始まる話ってなんなんだよ。
そもそも、ヌベヂヤン自体がなんだかわからない。
今さらになって興味が出てきたが、ロズリアは話題を変えてしまう。
「どうしたんですか? 一日中ずっと上の空って感じですよ」
「そう?」
「そうですよ。もしかして、熱でもあるんじゃないですか?」
そう言って、ロズリアはおでこに手を当ててきた。
右手を自分の額と交互に当てて確かめている。
「熱はなさそうですね。でも、最近また一段と寒くなってきましたし、風邪の引き始めかもしれませんよ」
「そうなのかな……」
この熱に浮かされた感覚が、風邪じゃないということは自分が一番よくわかっていた。
だけど、自身の昂ぶりを正直にロズリアに打ち明ける勇気もなかった。
俺はロズリアとの約束を破ってしまった。
王都へ向かう馬車の中で交わした約束。
もう二度と危険なことには首を突っ込まない。命の危険とは無縁の生活をする。
そう決めたはずなのに、ひったくり犯と戦ってしまった。
それだけならまだいい。不可抗力で約束を破ってしまっただけなのなら。
けれど、もう一度約束を破りたいと思っている自分の感情は許されるものじゃない。
彼女を悲しませないためにも、この気持ちは自分の中に留めておかなければいけなかった。
しばらく黙っていると、ロズリアが口を開く。
「今日はいつもよりちょっとだけ早いですけど、解散しましょうか。体調、悪そうですし」
「それはロズリアに悪いよ。別に体調だってそこまで悪くないし」
「気にしなくていいですよ。調子悪いのに、無理させちゃっている方が悪いですから」
ここで自分の意見を押し通して、ロズリアに気を遣わせるのも申し訳ない気がする。
このまま心配をかけるよりかは、さっさと帰って、次会う時のために気持ちを切り替えるべきだろう。
「ありがとう。なんかごめんね」
「いいですよ。体調が悪い時は誰にでもありますって。早く寝て、しっかりと回復してきてください」
「そうすることにするよ」
「じゃあ、早速店を出ましょうか」
身支度を整え、店員を呼んで会計を済ます。
外に続く扉を開けると、寒い空気が流れ込んできた。
「寒いですねー」
「外に出るのも嫌になっちゃうくらいの寒さだよなぁ」
「家で暖かくゴロゴロしていたいですよね」
店の外に出ると、寒さはより一層増していた。
ロズリアは手袋をつけた両手で頰を擦りながら、空を見上げた。
「降りそうですね、雪」
「今日、降るのかな?」
上空には分厚い雲が重なっており、月の光を覆い隠していた。
暗くて、静かな夜だ。
この街に雪が降るところを見たことはなかったが、きっと雪が降る夜っていうのはこういう夜なのだろう。
「夜中には降ると思いますよ」
「できればロズリアと一緒にいる時に降って欲しかったな。そうすれば、雪だるまとか作って遊べたし」
「降り始めじゃ遊べませんよ。そういうのは雪が積もった次の日にやるのがベストなんですよ」
「明日は、ロズリアは仕事なんだっけ?」
「はい。ノートくんはお休みでしたよね」
「うん。じゃあ、次に遊べるのは明後日かな?」
俺はこれから二連休。明後日はロズリアも休みだったはずだ。
週に一度、お互いの予定を合わせた休日。それは二日後に待っていた。
「明後日まで、雪残っているかな?」
「それはなんとも言えませんね。今日の降り次第でしょう」
二人して、青白い街灯が連なった夜道を歩き続ける。
段々と飲食店が見当たらなくなり、代わりに民家が増えていく。
人も灯りも、ゆっくりと消えていって、いつの間にか見慣れたY字路に差し掛かった。
「名残惜しいですが、ここでお別れですね。今日も楽しかったです。ありがとうございました」
「こっちこそ、楽しかったよ。じゃあね」
片手を軽く上げて応える。
ロズリアはぶんぶんと腕を振っていた。
「早く寝て、体調治してくださいねー」
「わかったって」
手をひらひらと振りながら歩き出すと、瞬く間にロズリアの姿は建物の陰に隠れてしまった。
視線を前に戻し、冷えた石の道路を進んでいく。
コツコツといった靴音が辺りに響きだす。
――雪か。
街に降る雪とは一体どんなものなのだろう。
未だ見たことのない景色を、予想以上に心待ちにしている自分がいることに気づく。
「少し遠回りでもして帰るか」
折角だから雪の降り始めを見てみたい。
時間を稼いだからといってお目にかかれるものでもないと思うが、可能性としては高くなる。
自宅へ直接帰るのを避け、普段通らない帰り道を選んでいくことにした。
ロズリアから早く寝るように言われたが、風邪を本当に引いているわけでもない。
律儀に従う必要もないだろう。
罪悪感がないわけでもなかったが、好奇心の方が強かった。
見慣れない道に差し掛かる。この方面には初めて来た。
道は綺麗に整備されていて、街灯も多く明るい街並みだ。
どうやら新しめの住宅街らしい。
通行人もさっきの道よりか断然多かった。
シルクハットを被って背筋を伸ばした男。
おばあちゃんと孫の関係であろう老女と10歳くらいの男児の二人組。
全身を白で着飾った成金風の青年。
大剣を背負った中年の男とふわふわと髪をカールさせた若い美女のカップル――。
そのカップルの男の方と目が合う。
「……えっ⁉」
思わず驚いて声をあげてしまった。
驚いたのは相手も同じだったようで、彼も目を見開いている。
俺は口をパクパクとさせながら、ようやく言葉を発した。
「……やっぱりヒューゲルさんですよね?」
「ノート殿⁉」
その独特な呼び方で、自分の見間違いでないことを確信した。
ヒューゲル。またの名を首切り。
対個人戦闘において、この国最強の暗殺者とされている人物。
気配を消すアーツ《隠密》に特化した戦法を得意としており、対象に気づかれないまま大剣で首を刎ねるという、大胆かつ巧妙な暗殺を得意としている殺し屋だ。
暗殺に正義の信条を誓っており、悪人の命を狩ることだけに専念している奇妙な殺し屋であった。
彼と出会ったのは、俺が『到達する者』にいた頃のことた。
ジンを暗殺の標的としていたのだが、俺とリースによってその凶行は阻むことができた。
その後、ピュリフの街を去っていったのは知っていた。
しかし、違う街で再会することになるとは思っていなかった。
「どうして王都にいるんですか?」
「それはこちらの台詞だ。私は元から王都に住んでいるんだよ」
なるほど。首切りは元々、王都を拠点としていたのか。
ピュリフの街に来たのは、ジンを暗殺するためだけだったらしい。
「そういうキミの方はどうしてこの街に?」
「色々あったんですよ……」
職場などのいつもの癖で誤魔化そうとしてしまったが、よく考えたらヒューゲルは『到達する者』時代の俺を知っている。
彼がピュリフの街を去った後、何が起きたのか調べようと思えばすぐに調べられるはずだ。
それにジンを暗殺しようとしていたわけだ。
もしかしたら既にジンの死を知っているかもしれない。
隠しても無駄だと判断し、全てを正直に話すことにした。
「俺、冒険者辞めたんですよ……」
「それはまたどうして……? キミは冒険者として順調にやっていたわけじゃないか」
「自分もそう思っていたんですけどね。そうじゃなかったみたいなんです。『到達する者』が解散しちゃったんですよ」
「解散って、何かあったのか?」
どうやら、ヒューゲルはジンの死を知らなかったようだ。
ここまで話してしまったのだから途中で止めるのも不自然だ。
そのままの流れで話の核心に触れた。
「あの後、ジンさんが死んじゃったんですよ。ダンジョン探索で」
「そ、それは……」
ヒューゲルは言葉に詰まる。
彼にとってジンの死は、過去に手をかけることを諦めた暗殺対象が死んでしまったこと を意味する。
その事実を知って、彼はどんな気持ちなのだろう。
喜ばしいのか。それとも、自分があの時殺していれば仕事が成功したのに、と悔やんでいるのか。
「ヒューゲルさんとしてはいい知らせなんですかね」
「そんなことはない。私は純粋にキミの冒険者としての活躍を期待していたよ。だから、ジンから手を引いたんだ」
「結局、その期待も無駄に終わりましたけどね。冒険者を辞めてしまったわけですし」
自嘲的に吐き捨てる。
ふと、ヒューゲルの隣に立つ女性の存在が目に入る。
先程ヒューゲルの隣を歩いていた女性だ。
しばらくこちらに気を遣って黙っていたようだが、そのせいですっかりいたことを忘れていた。
「すみません。彼女さんが隣にいたこと忘れていました。これ以上は……色々と話さない方がいいんですかね?」
ヒューゲルが首切りとして殺し屋をやっていることは、世間では知られていない事実だ。
彼が首切りだとわかるような直接的な表現は用いてなかったつもりだが、それでも会話の端々から何かを掴まれるという可能性もある。
会話を打ち切ろうとすると、今まで黙っていた女性が口を開いた。
「彼女さんですって! ヒューゲルさま、聞きましたか⁉」
「心配いらないぞ。この子は私が首切りなことを知っているからな」
しかし、ヒューゲルはあっさりと秘密を明かす。
「それと彼女じゃない。私の助手をしているエイシャだ。エイシャが可哀想だからそこのところは間違えないであげてくれ」
「わざわざ訂正しなくてもいいのに……」
「ん? なんか言ったか?」
「いやいや、何でもないですっ!」
エイシャという女性は首と両手をぶんぶんと振って、俺の方へ向く。
「どうもエイシャと申します。ヒューゲルさまの手足として、首切りとしての仕事の依頼の窓口、そして情報収集を主な役割としています」
そう言って、エイシャは丁寧に頭を下げた。
「ヒューゲルさまには過去に命を救ってもらって以来、この身を捧げても捧げきれないほどの恩がありまして。こうして尽くさせてもらっている次第です」
彼女はぱっと見、目を引くほどの美人である。年齢は20代前半であろうか。
カールの利いた金髪に、ぱっちりとした目が人形みたいで可愛らしい。
スタイルもよく、セーターの上からでも膨らみがまじまじと強調されるほどの胸のサイズにどうしても目が行ってしまう。
「私が勝手に助けたのだから、恩義を感じなくてもいいのだがな」
ヒューゲルは、その低い声で素っ気なく返す。
それを聞いたエイシャは、身を乗り出しながら反論をした。
「わたしは好きでヒューゲルさまのお傍にいるのですっ!」
「またしても、そのようなことを言って……。キミはもう少し、自分の人生をちゃんと見つめ直した方がいいのではないか?」
「もう鈍感なんだから……」
ぼそぼそっとエイシャは呟く。
なんだ、このやり取り。見ているこっちがむず痒くなるんだけど……。
エイシャは明らかにヒューゲルに恋愛感情を持っているようだが、当の本人はそれに気づいていないという。
彼女が不憫に思えてくる。
「苦労してそうですね、エイシャさん……。ヒューゲルさんがここまで鈍感だと……」
「そうなんですよっ!」
彼女は俺の相槌に食いついてきた。
こちらの耳元に顔を近づけ、内緒話をしてくる。
「いつもこんな感じなんですよっ! 名前の知らない初対面の方、もしよかったらヒューゲルさんがわたしの気持ちに応えてくれるよう手伝ってくれませんか?」
「あっ、ノートと言います。それと手伝ってと言われてもですね……」
恋愛経験がまともにあるわけでもない俺が何か手伝えるとは思えない。
そもそもエイシャの恋路には一つの大きな壁がある。
「ヒューゲルさん、ロリコンだからなぁ……」
「もしかして、ノートさんもご存じでしたか!」
そう言って、まくし立ててくる。
「やっぱりそこがネックになりますよね。そもそも、わたしが首切りさまに命を救ってもらったのは、10歳の時だったんですよ。その時にパッとときめいてしまいまして」
胸の前に両手を組んで、語るエイシャ。
訊いていないのに、回想が始まったんだけど……。
「それから、首切りさまに見合う大人な女性になろうと、数年間自分磨きをしたのです。ようやく大人になって、いざ会ってみれば……。まさかの幼い子好きだったとは。悲しくないですか? こんなことなら、大人になるまでなんて見栄を張らないで、さっさと会いに行けばよかったですっ」
なんとも悲しいエピソードだ。
ますますエイシャが不憫に思えてきた。
「話の途中で一つ疑問だったところがあるんですけど、いいですか?」
エイシャとヒューゲルを見比べて、尋ねる。
「大丈夫ですよ」
とエイシャが答えた。
「よく首切りがヒューゲルさんだって気づきましたね。確か、首切りって正体を隠してましたよね? どうやって、ヒューゲルさんまでたどり着いたんですか?」
「執念です!」
エイシャは笑顔で親指を立てていた。
ちょっと怖いな、その執念……。
そこで話を途中から聞いていたヒューゲルが付け加える。
「エイシャは情報収集を極めた盗賊だからな。この国にいる盗賊でエイシャに情報収集能力で勝てる者はいないと思うぞ。必要とあらば、王族が揉み消した悪事の正体まで突き止める。エイシャが首切りのブレインとまで言っても過言ではないな」
「えへへっ」
エイシャは首切りの称賛を受けて、弛みきった笑顔をこぼしていた。
「で、この方はどうしてヒューゲルさまが首切りだということを知っているのですか?」
俺を指差しながら、エイシャはヒューゲルに質問する。
「前に一度話したと思うが、彼がジンの暗殺を取りやめる原因にもなった『到達する者』の盗賊、ノートだ。気配察知を極めて、この私の《隠密》を見破れる唯一の人間と言ってもいい」
「どうも」
そこまで大層なものではないと思うので、頭をぺこぺこ下げながら答えた。
「ああ、話では聞いていましたが、この方があのノートさんとは。改めて初めまして。エイシャです。ヒューゲルさまが絶賛していたのを聞いていましたので、一度はぜひお目にかかって話をしてみたいと思っていました」
「そうなんですか……。ヒューゲルさんが過大評価しているだけだと思いますよ。実際は大したことない人間です」
「そんなことないと思いますよ。ヒューゲルさまがあそこまで言うことはそうそうないです」
エイシャは頷くと、両手を叩いた。
「ここでずっと立ち話しているのもなんですし、よかったらわたし達の家に来ませんか? いいですよね、ヒューゲルさま?」
「うん、私としても大歓迎だ。ここからすぐであるし、寄ってかないか? ノート殿」
「でも……」
言い淀んでしまう。
ロズリアとの約束を思い出す。
俺は冒険者から足を洗うと彼女に約束をしてしまった。
それなのに、冒険者時代の知り合いと話に耽るのは、あまりいいことではないはずだ。
話をすること自体が、約束の違反に接触するということはないと思うが。
本来なら、遠慮しておくべきなのだろう。
だけど、俺の中ではヒューゲルともっと話をしたいという気持ちがあった。
あの首切りが認める情報収集のプロの盗賊の話も聞きたかった。
きっと、先日のひったくり犯との一件がなければ、二人の誘いを断っていただろう。
ただ、あの一件で俺の中に冒険者としての情熱が僅かに蘇っていた。
ヒューゲルとの再会によって、その炎が増していくのを感じ取っていた。
ロズリアごめん……。
少しの償いにもならないけど、心の中で呟く。
「わかりました。じゃあ、ありがたくお邪魔させていただきます」
さっきまで、身を凍えさせていた空気の寒さは噓のように消え去っていた。
ヒューゲルの家へ向かう途中、パラパラと白い粉が空から舞ってきた。
雪だ。雪が降り始めたようだ。
あんなに待ち遠しかった光景だったはずなのに、今はヒューゲルとエイシャの話を聞きたいという気持ちの方が強かった。
空から降り注ぐ小さな氷の結晶は、心の内で燃え始める情熱を鎮火させるには、些さ か遅い登場だった。