第55話 交わされた約束
もうすぐ夜明け前を迎えるといった頃合い。
自分の部屋で明かりをつけながら、一人考えていた。
――そうです。俺も冒険者を辞めようと思って。
口にしてみると案外しっくりくる響きだ。
まるで、その言葉は心の中に昔から居座っていたような安心感があった。
自分では意識していなかっただけで、ジンが死んだ後の俺は、とっくにそう結論づけていたのかもしれない。
リースと同じくパーティーを辞めて、冒険者まで辞めるつもりだったのかもしれない。
エリンを引き止めようとした際、最後に出てきたのも同じような言葉だった。
――ダンジョンなんて潜るのをやめにして。付き合って、二人でモンスターとか関係ない平穏な生活を送って。ゆくゆくは結婚して、人並みの幸せを歩むって! いいじゃん、そうしようよ!
実は心の底でそう願っていたのかもしれない。
ダンジョン攻略なんて本当はしたくなくて。
人並みに幸せな人生で満足できる人間だったんじゃないだろうか。
そのように訊かれて、否定できる自信を今の俺は持ち合わせていなかった。
20階層から無事に生還できて、ダンジョン攻略をやめないかというエリンの提案を断った時はどうかしていたんだ。
本当は頷きたかったのに、何かの間違いで断ってしまった。
そうに違いない。
元々、俺が一流冒険者を夢見るようになったのだって、幼馴染の子が冒険者になりたいって言っていたのに口を合わせていただけだ。
口を合わせていくうちに、いつの間にか自分自身の夢だったと錯覚していた。
幼馴染と別れてから冒険者を続けていたのだって、ただの未練からだった。
夢を叶える気なんてかけらもなくて、ただ現実を見るのが嫌で冒険者を続けていただけだった。
そして、ジンと『到達する者』の皆に出会い、ダンジョン攻略を夢見るようになった。
でも、その夢だって借り物だ。
みんなの夢を真似しただけであって、俺自身がダンジョン攻略をしなくてはいけない理由なんてものはなかった。
俺には元々、夢なんてものはなかったんだ。
冒険者を辞めても、何も問題ないのではないだろうか。
気の迷いで、冒険者生活なんて間違ったものに年月を費やしてしまった。
だけど、もう現実を見て、自分の人生に向き合うべきなのではないだろうか。
そもそも、【地図化】という外れスキルを手にした時点で冒険者になるのは諦めるべきだったんだ。
身分不相応な夢だった。
これからは誰も大切な人を失わなくて済むような、平穏な生活を歩むべきなんだ。
そう結論づけてからは早かった。
部屋中にある物を、この先の生活に必要な物と必要でない物に分けた。
必要な物はバッグの中に。
必要でない物はどうしよう。
捨てるのももったいないし。この部屋においておくか。
その次は一階に下りた。
リビングなどの共同スペースにあった自分の持ち物を回収した。
またしてもそれを必要な物と必要でない物に分別していく。
作業は一時間程度で終わった。
荷造りを終えると、部屋の窓からは朝日が差し込んでいた。
もうこんな時間か。
この時間なら、朝一番で街を出る馬車に間に合いそうだ。
俺は部屋を出て、階段を下りた。リビングへと足を運ぶ。
この家を訪れた当初は、その活気に驚いたものだ。
今ではずいぶんと静かになってしまった。
パーティーメンバーが半数もいなくなれば、当たり前だろう。
これでこのパーティーハウスともお別れだ。
そう考えると、胸にこみ上げてくるものがある。
ここにはたくさんの思い出があった。
嫌ってほどたくさんの思い出が。
そのどれもが俺にとっては大切でかけがえのないもので。
もう手が届かない類の宝物だ。
「さようなら、みんな」
一人呟いて、リビングの電気を消した。
真っ暗闇の廊下に向けて歩き出す。
数歩歩いたところで、暗闇の中に人影が見えて立ち止まる。
「どこへ行くつもりなんですか、ノートくん」
ロズリアだ。いつからそこにいたのだろう。
《索敵》なんてここ何日か発動もしていなかったから、存在に気づかなかった。
「もしかして、さっきの聞いていた?」
俺は人影に向かって問いかける。
「はい。それより前、ノートくんがリビングで自分の所持品をかき集めていた時から気づいていました。『到達する者』を去ろうとしているんですね……」
「まあね……」
軽く返事をして、彼女の隣を通り抜けようとする。
しかし、俺の右腕は掴まれる。
「エリンさん達だけでなく、君までいなくなってしまうんですか? どうして出ていく前にわたくしに一声かけてくれないんですか?」
「それは――」
何も言い返せなかった。
自分の中で『到達する者』はとっくに終わったものだと考えていた。
もうないものだと思っていた。
だから、最後に一声かけるということ自体思いつきもしなかった。
「わたくしが気づいたからいいものを。気づかなかったらどうするつもりだったんですか?」
「ごめん……」
俺は素直に謝った。
責められる。そう思って、身を強張らせた。
だけどロズリアは、少し笑ってこのシチュエーションに似つかわしくない明るい声で言った。
「いいですよ。わたくしの準備も間に合ったことですし。じゃあ、行きましょうか」
そこでようやく、彼女の手に持っていたものに目が行く。
トランクだ。遠出用の大きなトランクである。
着替えだとか、生活用品だとか。旅立ちに必要なものが入っているのだろう。
「どこに行くつもりなのかはわかりませんが、わたくしはノートくんについていきますよ。皆さんみたいに離れたりしませんから。ノートくんが嫌って言っても、絶対ついていきますからね」
「ロズリア……」
口元は笑っているが、彼女の視線は真剣そのものだった。
震える赤い瞳がこちらを捉えていた。
自分はというと返答に迷っていた。
果たしてロズリアを連れていくべきなのだろうか。
ピュリフの街を出てからのことは、現時点ではあまり考えていない。
ただ、ダンジョンから離れて、冒険者も辞めて、普通の暮らしをするといった予定しかない。
どこに向かうのか。向かった先で何をするのかもまだ決まっていなかった。
なるべくなら、『到達する者』とは無縁の生活を送りたい。
そう思っている。
であれば、さっさとロズリアを拒絶して、一人でパーティーハウスをあとにするべきなんだろう。
だけど、廊下で二人向かい合っているという状況が俺を躊躇わせる。
お互いの位置。話している内容。
先日のエリンとの別れが思い出される。
俺の立場が逆になって、別れを言い渡される方から、言い渡す方になるという変化はあった。
けれど、それ以外は本質的には同じだ。
だから、目の前にいる彼女の考えていることも痛いってほど理解できた。
だって、ロズリアは少し前の俺だから。エリンに別れを告げられた時の俺だ。
あの時の悲しみが蘇ってくる。
胃のあたりがぎゅっとして、握る拳にも力が入る。
目からは涙が溢れてきそうだった。
別れとは失うことだ。
大切な人との別れはまるで手足がなくなったような喪失感をもたらす。
自分のことはもうどうでもいい。
大切なものを失いすぎて、感覚が麻痺したから。
でも、目の前にいる彼女までも傷つく必要はない。
ロズリアだって、ジンの死やフォースやエリンの脱退に何も感じなかったということはないはずだ。
一番の新参者だったといっても、彼女は『到達する者』の一員なのだ。
ジンや、フォース、エリンを大切に想っていないはずがない。
「何の予定も立ってないけど。それでもいいの……?」
気がついたら、そんなことを呟いていた。
「ピュリフの街を出て、どこに行くかも決めてない。冒険者も辞めてこれからどうするのかも。何のために生きていくのかも。そんな行き当たりばったりの逃げだけど、本当にそれでもついてきてくれるの……?」
ロズリアの瞳を強く見つめる。
ここでロズリアに拒絶されようとも構わないと思っていた。
首を横に振った方が、絶対に彼女自身の幸せに繫がる。
しかし彼女は崩れるような笑顔で、頷いてしまった。
「はい」
そのあっさりとした返事を聞いて、思わず苦笑してしまう。
彼女の笑顔につられてか、その選択の愚かさに呆れてか。
はたまた、そのどちらのせいということもあるかもしれない。
「ほんと馬鹿じゃないの……?」
「なんですか? その酷い言い方は!」
「だって馬鹿だなーと思ってさ」
本当にロズリアは馬鹿だ。
こんな馬鹿な男についていくなんて。男を見るセンスがなさすぎる。
「いいよ。じゃあ、出発しようか」
俺はロズリアに声をかける。
「そうですね。行きましょう。でも、その前にやることがありませんか?」
「やることって?」
俺は尋ねる。
「ネメさんに別れの挨拶をしないとですよ」
「……そういえばそうだな」
すっかり忘れていたことは、言うまでもなかった。
***
走っている馬車が小石に乗り上げたようだ。
車内が縦に揺れ、尻を軽く打つ。
その衝撃に、窓の外を眺めながらまどろんでいた意識が引き戻された。
身体が凝り固まっている。
長時間、狭い馬車で座っていたからだろう。
両手を組んで背伸びをする。背骨からぽきぽきと軽やかな音が鳴っていた。
先程までこちらの肩に頭を寄せ、熟睡していたロズリアは、低い唸り声をあげて目を擦っていた。
突然動いたせいで、隣で寝ていた彼女を起こしてしまったようだ。
しばらく、ぼーっと虚空を見つめていた。
かと思いきや、何かのスイッチが切り替わったかのように、普段通りの凜々しい顔に戻る。
そして、さっと俺の方へと向いた。
「あれ? わたくし寝ていました?」
「それはもうぐっすりと」
「あーっ……やっちゃいましたね……」
ロズリアは頭に手を当てながら俯く。
「到着まではまだまだ時間があるんだから、寝ていてもいいんじゃない?」
「そういう問題じゃないんです。寝顔を見られて恥ずかしいって話をしているんですよ。乙女心がわかってないですね」
「ああ、なるほどね」
適当に相槌を打つ。なんとも反応に困る返答だ。
次なる言葉を探すのを諦めて、俺はまたしても窓の外に目を向けた。
背の低い草木が右から左へと流れていく。
風と馬車の音しか聞こえない。のどかな風景だ。
視界の奥には灰色の山が連なっていて、俺達はその山の向こう側からやってきたわけだ。
馬車での旅も、これでもう五日になる。
『到達する者』を去ることにしたあの日、俺とロズリアは最後にネメの下へ声をかけることにした。
彼女が起きてくるのを待って、『到達する者』を辞める旨を伝えた。
メンバーが半数いなくなり、そのような結末を予想していたのだろう。
ネメはこちらの意見に反対することもなかった。
――わかったです。残念ですけど仕方ないです。ネメは大人だから、みんなとの別れに泣いたりしないです。
泣かないことが大人なことに繫がるかは知らないけど、ネメは本当に泣かなかった。
一応、一緒についてくるか訊いてみた。
彼女は首を横に振って答えた。
――遠慮しとくです。二人の仲を邪魔するわけにはいかないです。
別に邪魔なんて思わないのに。
そう思ったが、口に出すことは止めてしまった。
これから俺達はどうなっていくのだろう。
そんなこと自分自身が知らないのだから、答えられない。
ネメの言う通り、ロズリアとそういう関係になっていくのだろうか。
自然な流れだ。それも別に悪くない気がする。
ロズリアだって望んでいるはずだ。
だけど、今の自分にはそういう未来が上手く想像できなかった。
『到達する者』を辞めた生活。冒険者を辞めた生活。
そんなのやってみないとわからない。
ロズリアとこれから先、どうなっていくのかなんて、その時になってみないとわからないのだ。
こうして代わり映えのしない景色を車窓から眺めるのも、いい加減飽きてきた。
思考を放棄するように口を開いた。
「ミニョンの街まで着くのにあと四時間くらいかかるんだよね?」
「予定ではそうなっていますね」
「長くないか?」
「でも、ミニョンは馬車の乗り換えのために行くんですよ。目的地まではあと二回馬車に乗らなくちゃいけないとのことです」
「はあ……」
告げられた事実に肩を落とす。
「こんなことなら、王都に行くなんて言わなきゃよかったな。もっと近いところにしておけばよかった」
「わたくしは別に王都じゃなくてもいいですよ。今から目的地変えますか?」
「いいよ。ここまで来ちゃったんだし。それに小さい頃から王都には一度、行ってみたかったんだ」
王都グレンギスト。それがこの国の首都の名前だ。
ピュリフの街から見て、北東方向数百キロ先にある都市。
この国で一番の規模を誇る都であり、この国で最も栄華を極めている街である。
ピュリフの街の馬車乗り場に着くまで、何も目的地を決めていなかった俺達は、とにかく街から離れることだけを考えていた。
馬車を乗り継いでいくうちに、そういえば王都にでも行ってみたいなと思いついて、ロズリアに提案してみた。
それが、目的地が王都に定まった経緯である。
「前から思っていたんですけど、ノートくんって都会に憧れがありますよね」
「そう?」
「はい。会話の端から滲み出てます」
「そうか。前にロズリアには言ったよね? 俺が生まれた場所って、チャングズっていう何もない田舎の村だったんだよ。だからか、華やかな街ってものに憧れるんだよね」
「そういうものなんですか? 田舎も田舎で、落ち着いて生活できそうですし、そこまで悪くないと思いますけど……」
ロズリアは俺越しに窓の外を眺めながら言う。
彼女の向く方向に視線を移しながら、ゆっくりと口を開いた。
「落ち着いた生活も悪くないか……」
心の中で言葉を反芻していく。
確かにチャングズでの生活は、ピュリフでの生活に比べて目まぐるしさはなかった。
ロズリアの言う、落ち着いた生活とやらはできるだろう。
「ロズリアは王都に行って、どんな生活がしたいとかある?」
ピュリフの街から出るというのも、王都に行くというのも全部俺の願望だ。
ロズリアの意向は全く反映されていない。
何か彼女がしたいことがあるなら、それを知りたい。
できる限り要望を叶えてあげたいというのが俺の思いだ。
顎に手を当て、考える素振りをしてから、彼女は言った。
「特にこれがしたいとかはないですけど、落ち着いた生活がいいなっていうのはありますね」
そう言うと、彼女は顔を伏せた。
「こんなことを言うのはあれかもしれませんが、誰かが死んだりとか、そういうのはもう嫌です。大切な人をもう失いたくありません」
「そうか……」
「だから、ノートくんの言う通り冒険者を辞めて、安全な生活をするっていうのは、わたくしの希望でもあるんですよ」
ジンが死んでからしばらく経った。
ロズリアと彼の死についてしっかりと話し合うのは、これが初めてのことであった。
彼女は自分の感情を滅多に表に出さない。
冗談なのか本心なのか区別できない言動で、自身の気持ちを煙に巻く癖がある。
だから、ロズリアがここまで直接的に、自分の考えを伝えてきたことに驚いた。
そのくらいジンの死は彼女にとって大きいものだったのだろう。
彼女の意思を尊重してあげよう。そう思った。
「わかった。じゃあ、約束するよ――」
「約束?」
ロズリアは首を軽く傾げる。
こちらを見る赤い瞳に向かって、俺は言った。
「もう絶対に危ないことはしない。戦いとか、冒険者とか、そういう危険なことからは足を洗って、命を落とす心配のないような生活を送ることにするから」
彼女はぱちくりと瞬きをして、数秒の間黙っていた。
しばらくして、彼女は口元を綻ばせた。
「約束ですからね。破らないでくださいよ」
小指を差し出し、指切りの形を取ってきた。
「わかってるって」
俺はそう答え、右手の小指を彼女の小指に絡めた。
「なんかノートくんは約束を破りそうです」
「そんなことないって」
「さあ、どうでしょう?」
ロズリアは笑いながら、小指が絡んだ手を上下に揺らす。
のどかな景色を背に、俺達はそんな約束を交わした。