第52話 魔剣
「大丈夫なんですか⁉」
目に入ったジンの様子に、声を荒らげる。
彼の黒い装束は血によってどす黒く染め上げられていた。
エリンとネメをかばったあの時、ボスの攻撃が直撃したのだろう。
腹部の衣服がざっくりと裂けている。傷口の様子はよく見えないが、そう浅くはないはずだ。
「ネメに回復してもらったからね。ほら血は止まっているでしょ」
そう言って、ジンは微笑む。
彼の言う通り、血は止まっているようだ。
神聖術を封じる範囲外に出て、一旦回復スペルをかけてもらったみたいだ。
「よかったです! それでネメ姉さん達は?」
「こっちがピンチそうだったらからね。ボクだけ急いで向かってきたんだ。多分、後ろの方にいると思うよ」
ジンは軽く説明すると、未だボスを食い止めているフォースの方を向く。
そして、大声で指示を出した。
「撤退するよ! ボスはボクが受け持つから代わって! ノート君は道案内をよろしく! 途中でネメ達を拾ってあげて」
こちらの返事を待たずして、ジンはフォースの下へ駆けて行く。
――撤退。
指示されるまで、その選択肢が思い浮かばなかった。
勝てない相手なら撤退するべきだ。それが順当な考え。
混乱して、的確な指示が出せなかった自分が情けなく感じる。
今は落ち込んでいる余裕なんてない。
気持ちを切り替えて、ジンの指示に従おう。
階層を抜け出すために、転移結晶のある方向に向かって走り出す。
後ろを振り向くと、ジンが悪魔を相手取っていた。
エリンとフォースはきちんとついてきている。
けれど、本来足の速いフォースはダメージを受けているせいで、走るのもやっとといった様子だ。エリンよりも足並みが遅い。
撤退を始めて、ようやくこの階層のいやらしい構造に気づいた。
この階層にはボス部屋というものがない。
よって、ボスが階層内を縦横無尽に動くことができ、いつまでもこちらを追ってきている。
今までの階層では、そんなことはなかった。
ボス部屋から出てさえすれば、追撃からは逃れることができた。
「くそっ!」
一歩一歩着実に追い詰められている状況に焦りが湧いてくる。
振り切ろうと思っても、なかなかボスを引き剝がせない。
その結果、ジンが一手に悪魔の攻撃を引き受けていた。
ジン一人ならボスを振り切れるだろう。
しかし、この場にはエリンやフォースがいる。彼らのスピードじゃ無理だ。
二人の足並みに合わせると、どうしてもジンにしわ寄せが行ってしまう。
ジンの援護をした方がいいのか?
俺が出て行っても、ボスの攻撃を避け続けられるとは思えない。
むしろ、ジンの邪魔になるだけのような気がする。
悩みながらもとにかく走り続けた。
とりあえずはネメとロズリアのいるところに向けて進んでいく。
その後のことはその後に考えよう。
背後から耳を痺れさせるような破壊音がした。
どうやら辺りの柱が砕けたらしい。
21階層のボスは、神殿を崩壊させる勢いで魔剣を振り回している。
それもこれも、ジンを狙うためだ。
彼を仕留めること以外、魔剣の主にとっては些末なことのようだ。
魔剣が石の床に振り下ろされる。
衝撃で地面が割れた。
フォースがバランスを崩す。足が止まった。
敵はフォースを射程圏内に捉えてしまう。
悪魔の剣戟をジンが受け流す。
だいぶ無理な体勢だった。
インパクトの瞬間、ジンの手からダガーが離れた。
手元から逃げたダガーに執着は見せず、身体に仕込んでいた金属の形状を変化させる。
そして、次なるダガーとして持ち替えた。
フォースはその間に体勢を立て直し、走り出す。
それに合わせて、自分も緩めていたスピードを元に戻した。
正面に続く暗闇を見据える。 この先にロズリアとネメがいるはずだ。
感じる気配に向かって、とにかく走る。
スペルを封じられたロズリア達と合流できたからといって何かが変わるわけでもないけど。
それでもこの窮地が打開できる何かが起きるような気がして。
希望に縋 すが りつくように走り続けた。
白い影が段々と大きくなっている。距離は縮まっている。
髪の色がわかるほどの距離まで近づいた。
彼女達にもジンから撤退の指示は出ていたのであろう。
出口に近い場所で待機していたようだ。
こちらの姿に気づくと、その場で立ち止まり何かを叫び出していた。
俺達のことを呼んでいるのだろうか。
後ろの戦闘音にかき消されて、何を言っているのか、よく聞こえない。
転移結晶までの距離は、幸運にもそう遠くない。
このまま逃げ切れるかもしれない。
そんな希望を抱きながら走っていると、叫び声の内容が聞こえてきた。
――ジ――!――ジン――さ――!
ジンの名前を呼んでいるようだ。
彼がどうしたのか?
そのまま近づくと、ネメとロズリアの泣き叫ぶような声の内容を捉えた。
「ジン、怪我が!」
「無茶しないでください! 死んじゃいます!」
怪我? 死んじゃう? 何のことだ?
慌てて振り向き、ジンの姿を見る。
彼は依然ボスを相手取り、敵の攻撃をいなし続けていた。
戦いの形勢になんら変化はない。戦闘は激化したままだ。
彼の服が目に映る。その黒い服の腹辺りのところの染みが広がっている。
半身は血で染まっている。紅色はズボンの裾まで垂れていた。
血が止まっていない? どうして?
頭が真っ白になる。さっきまでは血が止まっていたはずなのに。
怪我は治ったんじゃなかったのか?
「どういうことなんだよ⁉」
ロズリアに追いつくと、すぐさま問い詰めた。
彼女は瞳を潤ませながら、首を振る。
「ノートくん! 早く! 早くっ! ジンさんと代わってあげてくださいっ! じゃないとっ! ジンさんは怪我が治ってないんです!」
「怪我が治ってないってなんだよ! ネメが治したからこっちの戦いに戻ってきたんじゃないのかよ!」
「違うんですよ! 他の傷は回復スペルで治ったのに! 魔剣で斬られた傷だけはどうしても治らなかったんです! それなのに無茶をして! みんなを助けるために飛び出して!」
……なんだよ、それ。
いきなりそんなこと言われたって、困るよ。
そんなの知らない。聞いていない。
「本当は戦えるような状態じゃないんです! 今にでも治療が必要な状態なんですよ! それを無理やり傷口を塞いで止血して! このままじゃ死んじゃいます! わたくしも援護しますから! だから早くジンさんと代わらないと!」
まくし立ててくるロズリア。
彼女の声は音の羅列となって、脳に上手く入ってこない。
どういう意味だよ。このままじゃ死んじゃうって……。
とにかく動かないと。ここで立ち止まっているわけにもいかない。
あともう少しなんだ。もう少しで転移結晶に着くんだ。
結晶から立ち上る水色の光は既に見えている。
モンスターが来ない結界内まで、あと少しでたどり着ける。
そこまで逃げ込めれば、この窮地だって全部解決する。
今はジンだ。ロズリアの言う通り、彼の代わりに戦わないと。
「ジンさんは休んでてください。ここは俺が引き受けます」
俺がダガーを構えると、ジンは敵の猛攻を避けながらも器用に答えた。
「ボクは大丈夫だから。それにこいつはノート君に任せられるほど、優しい敵じゃない。 ここはボクに任せて、みんなの道案内を!」
「でも――」
ジンの言い分にも一理あった。
21階層のボスの相手は、自分には荷が重い。
攻撃をせいぜい三発ほど。時間にして二秒くらいやり過ごすのが、やっとのことだ。
ジンのように、何分間も戦闘を続けることはできない。
それもこれも、俺の実力不足のせいだ。
俺は深層のボスを一人で相手取れるほど強くはなかった。
唇を嚙み締めながら、ジンへと背を向ける。
視線は転移結晶の光の方へ。
ジンの指示通り、道案内に徹しよう。
隣に立つロズリアは何か言いたげな様子だった。
だけど、結局は俺とジンの判断を優先し、口を挿むことを止めたようだ。
少し先を進んでいたネメを回収し、彼女を肩に乗せて走る。
転移結晶に向かって。 迷いを振り切るように全力で。
ただ、生き残ることだけを考えて、走った。
走る。走る。
どんどんと光が強くなってくる。結界に近づいている。
足が結界の線を跨ぐと、そのままの勢いで結界内に跳び込んだ。
俺とネメは地面に転がった。
続いて、ロズリア。そして、エリンが跳び込んでくる。
その後しばらくして、フォースが転がり込んできた。
みんなは無事だ。あとはジンだけ。
彼はだいぶ遠くの方で、未だ21階層のボスと戦いを繰り広げていた。
彼の動きが線のようにしか見えないほど離れている。
ジンが離脱できる隙を作ろうと、エリンがスペルを唱えた。
魔力でできた鎖が高速で悪魔に絡みつき、縛り上げる。
今度はしっかりと成功したようだ。
「今よ!」
エリンが叫ぶ。
ジンはしっかりと相手の動きが止まったのを確認して、《離脱》を発動した。
負っている怪我のせいだろうか。
いつもの《離脱》より遅く見える。
そんな印象を漠然と抱いていると、それは起こった。
ちょうどジンが、俺達と悪魔の中間地点に到達した瞬間のことだった。
俺は最初、何が起きたのかわからなかった。
ただ、紫色に光る大きな剣が地面に突き刺さった。そう思った。
だけど、何故か剣は確実にジンの胴体にも刺さっていた。貫通していた。
ジンの目は見開かれていて。暖かい赤色の瞳が輝いて見える。
噴き出す血の色が偽物みたいに鮮やかだった。
作り物みたいだ。なんかのオブジェみたいだ。
目の前で起きた出来事を、そんな風に俯瞰して眺めることしかできなかった。
この光景に意味なんてなくて。
きっと、ただの形だけのもので。
実は剣は刺さってなくて。ジンは無事で。
21階層のボスなんてものも存在しなくて。
ここが21階層だってこと自体が偽りで。
悪い夢だったり。自分とは全く関係ない世界の作り話だったり。
そもそもジンって誰だ?
あれがジン? そんなわけがない。
だって、ジンは誰よりも強くて。最強で。
ダンジョンのモンスターの攻撃なんて食らうわけなくて。負けるわけなくて。
そうだ。あれは違う。
別人だ。ジンに似せた誰かだ。
誰かって誰だ?
ここには『到達する者』以外の人間はいない。いるわけない。
じゃあ、誰だ?
人じゃないなら。モンスターか?
そうだ。モンスターだ。ジンに似せたモンスターに違いない。
俺達を困惑させようとして、剣に貫かれたふりをしているんだ。
お前の魂胆はわかった。だけど、騙されるはずがない。
ジンが負けるはずがないんだ。敵の攻撃を食らうなんてあり得ないんだ。
なら、本物のジンは? どこにいる?
見渡す。いない。ジンがいない。
どこいったんだ? 隠れているのか?
もしかしたら、先に帰ったのかもしれない。ピュリフの街に。
……。
そんなわけないじゃないか。ジンが俺達を置いて帰るなんてあり得ない。
だったら、目の前で、血まみれで串刺しになっているのがジン?
知ってるよ。俺だって馬鹿じゃない。本当は気づいているんだ。
悪魔によって魔剣が投げられて、それにジンは貫かれた。
悪魔の右手の拘束だけが僅かに緩くなっている。
その緩みは悪魔が意図的に作り出したものだろう。
身体を捻るかなんとかして。拘束スペルから右手だけを匿って。
自由になった右手で、背中を見せたジンへ魔剣を投げた。
それが今起きたことの全て。それ以上でもそれ以下でもない。
拘束の解けた悪魔はジンにゆっくりと近づき、剣を引き抜く。
やめろ! そんなことしたら!
血がさらに噴き出す。止まらなくなっちゃうじゃないか!
剣を振り上げる。
――もう一撃。振り下ろすかのように思えた。
しかし、悪魔は宙で刀身を止め、背を向けた。
侵入者である俺達に興味をなくしたのか。
羽を広げ、はばたいていく。
大気の振動とともに、瞬く間に 21 階層のボスは去っていった。
よかった。とどめは刺されなかった。
違う。よかったんじゃない。
とどめを刺されなかったんじゃない。
――とどめを刺す必要がなかったんだ。
この階層にいるのは五人。結界内にいる五人の気配だけ。
無情にも《索敵》はそう告げていた。
俺、エリン、ロズリア、ネメ、フォースの五人。
いつもそこにあったはずの静かで強かな気配は。
既に感じられなくなっていた。