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幕間 ――ジン――

 その青年にとって、名前とは一種の記号に過ぎなかった。

 両親は彼が2歳の時には既に死んでいた。

 そのため、この世に生を受けて、最初に与えられた名が何だったのかは知る由もなかった。


 後に孤児院へと入り、割り振られた名はゼノンというものだった。

 その名も結局は三年ほどしか続かなかった。

 運動神経と頭の回転の速さ、そして何より身寄りの無いことを見込まれたその男児はとある貴族に引き取られた。


 168番。次に与えられたのは名でもなんでもない、ただの数字だった。


「お前はこれから人として生きるのではない。ディーンラーク様の従順な人形として生かされるのだ」


 168番を孤児院から引き取りに来た男はそう言った。

 男の言っていることは何一つ間違っていなかった。

 辺境の施設に連れてこられてからの日常は、確かに人へ向けたものではなかった。


 朝から晩まで戦闘技術を叩き込まれ、それが終わると世の中を生き抜くための知識を詰め込まれる時間が待っている。

 ただエネルギーを取ることだけを目的とした無味な食事。

 決められた時間のトイレ。週に一度の水浴び。

 いつ訓練が始まるかもわからない、気の休まらない睡眠。

 貴族のための尖兵を養成するだけの環境がそこにはあった。


 同時期に施設に連れてこられた者は皆、死んだ。

 165番は風邪で脱水になり死んだ。

 166番は訓練中に内臓を痛めて、翌日冷たい姿で発見された。

 167番は集合に50秒遅れて殺された。

 169番と170番は施設から脱走しようとして、見せしめに皆の前で首を吊られて死んだ。


 168番にとって、寝食を共にした仲間の死は感傷に浸るほどのものでもなかった。

 靴紐が解けた。その程度のことだ。


 いいや、それ以下かもしれない。

 靴紐は解けたら結ばなくてはいけない。

 仲間は死んだところで、戦闘技術を磨く日課は何も変化はしない。


 彼はおそらく、人より器用だった。

 器用でいられる才能があったから、最後まで生き延びることができた。

 器用だから、過酷な戦闘訓練もやり過ごすことができた。

 莫大な量の知識も頭に叩き込むことができた。

 休息のない環境にも耐えることができた。

 仲間の死に疑問を持つことなく、従順に与えられた指令をこなせた。


 168番より腕っぷしが強い者はいたし、頭脳が明晰な者もいた。

 しかし、彼らは皆、生き延びることができなかった。

 何らかの失敗により、殺されていった。


 そうした日々が続いて行き、12歳になった時、168番は完成された尖兵と化した。


 この世界において、スキルを貰える15歳という年齢は一種の基準となる。

 15歳以前の者はスキルを持っておらず、戦力としてカウントされることはない。


 ディーンラークはその特性を活かし、小さい子供を引き取って熾烈を極める戦闘訓練を叩き込むことで、スキルを持つ者並みの実力を持ち、かつ警戒されることのない工作員を作り出すことに成功したのだ。


 完成した工作員の数は168番を含めると、全部で二十ほどであった。

 彼らには様々な任務が割り振られた。

 情報収集、敵情視察、ハニートラップ、はたまた暗殺など。

 それからは色々な種類の任務を実戦的に経験させることにより、その個人の適性を計っていくこととなった。


 168番も例に漏れず、与えられた任務を遂行し続けた。

 そして、彼にとって芽が出たのは、幸か不幸か暗殺業であった。


 それは他の工作員と比べ、彼が人の命を奪うという行為にさほど抵抗を抱いていなかったからかもしれない。

 たとえ厳しい訓練を受けてきたからといって、人を殺すことを躊躇わない者などそう出来上がるわけではない。

 現に他のメンバーの中には、暗殺を成功させた後、精神的に追い詰められてしまう者も少なくなかった。


 仲間内の中で避けられていた任務の一種だった。

 だからといって、任務がなくなるわけではない。

 誰かしらが手をつけなくてはいけない類のものだ。


 ならば、手を汚すことに対して割り切れる自分が引き受けるべきだ。

 168番はそう考えていた。


 彼は決して、人を殺すことに罪悪感を抱かなかったわけではない。

 だけど、どうせ殺める予定の人物は自分が殺さなくても、他の工作員に殺される運命だ。


 それに暗殺という任務は他の任務に比べ、対象との接触が希薄になりがちである。

 諜報活動のように長い間対象と関わるわけでもない。

 いわば、赤の他人でいられるのだ。

 自分に心を許している人を騙すより、赤の他人を殺す方が楽に思えた。


 168番にとっては、スパイ活動に率先する他の工作員の気持ちの方が理解不能だった。

 だから、彼は率先して暗殺の任務を引き受けた。


 場数をこなす度に人殺しの技術は研かれていった。

 どこをどう斬れば人は死ぬのか、手に取るようにわかるようになった。

 そして、誰よりも人を殺していった168番は、誰よりも人を殺すことが上手くなった。


 15歳になって二つのスキルを得てからもその日常は変わらなかった。

 ただ、人を殺し続ける毎日。

 その日常は、巷を賑わすディーンラークお抱えの暗殺者の噂が大きくなっても、何も変わらなかった。


 そして、168番の日常が変化するのは、20歳を過ぎたある日のことだ。

 初めて任務を失敗した日であり、初めて任務の遂行を放棄した日。

 その任務はとある剣士の暗殺というものだった。


 任務に際して、168番に潜入のため与えられた名前はジンというものだった。

 それは後の彼にとって、初めて意味を持つ名前であった。


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