前へ次へ
33/138

第33話 影を追う者

 首を鳴らす。パキパキと乾いた音が鳴る。

 身体が固まっている証拠だろう。


 20階層には柔らかいベッドもないので、硬い床に毛布を敷いて寝ていた。そのせいだ。

 本来、ダンジョン内で寝泊まりをする時にはもっとちゃんとした寝具があるのだが、いつモンスターが襲ってきても撤収できるように、最低限の道具で睡眠を取ることにしていたのだ。


 ――あとは、特に問題はないな。


 身体の隅々の具合を調べる。

 《索敵》を張り続けていたせいで睡眠は浅かったが、それも特段気にするようなことでもない。


 むしろ、これからの決戦に向けての興奮で目は覚めていた。

 通路の先、開けた部屋の中央にどっしりと構えている相手に目を向ける。


 ここからは距離があるため、豆粒大の大きさにしか見えない。

 けれど、そいつが持つ存在力というか、脅威度というか、そんな感じのものの大きさは嫌というほど理解できてしまう。


 これから挑む相手は 20 階層の中ボスである。

 挑むといってももちろん勝ちにいくわけではない。

 俺が注意を引きつけ、そのうちにエリンが部屋の端を通って逃げていく。その後で、俺も中ボスを撒いて逃げる。

 逃げ切れば勝ちというだけの勝利条件が緩い戦いである。


 それでも、俺はこの戦いを無謀な部類の挑戦だと思っていた。

 そのくらい自分と相手の実力が開きすぎている。


 俺の今持っている全ての技術を使っても、逃げきれないような気がしてきた。

 いくら20階層のモンスターを相手取って回避アーツが上手くなったからって、中ボスであるあいつに通用するとは限らない。


 ――でも。


 隣で並ぶ少女に目を向ける。

 普段二つ結びにされている銀髪はほどかれ、もうボサボサだ。


 風呂なんてない20階層の生活では、水魔法で濡らしたタオルで身体を拭くことくらいしかできない。

 息を深く吸えば、彼女の身体からは鼻を刺す汗の匂いが感じ取れる。

 握った手の中にある、彼女の爪は割れている。皮膚だって乾燥し切っている。


 そんなぼろぼろの彼女を守りたい。俺はそう思っていた。


「エリン、一ついい?」


「何よ……」


 不安そうに声を震わせるエリン。

 その瞳は俺の顔を映し出していた。


「作戦は覚えているよね?」


「うん。ノートが中ボスを引きつけているうちに、私が端をひっそりと通って部屋を抜ける。そして、結界内までたどり着いたら、ノートも逃げるのよね」


「そうだ。だから、一つだけ約束をしてくれない?」


「いいけど。どんな約束?」


「俺がどんなにピンチに見えても援護をしないってこと。たとえ、死にそうになってもスペルを撃たないで欲しい」


「私にあなたを見捨てろっていうの?」


 提案に不服を申すかのように、声を荒らげる。

 眉間にしわを寄せて、エリンは怒りの感情を露わにしている。


「そうじゃない。俺は必ず生きて帰る。そのために中ボスの攻撃の対処に集中したいんだ。それ以外のことを気にかけていたら死ぬと思う。だから、エリンにターゲットが向くような行為は控えて欲しい」


「本当にそれだけの理由なのよね……」


「うん、信じて欲しい」


 こんなところで死ねるわけないじゃないか。

 だって、約束したんだから。

 二人でピュリフの街に帰るって。君の希望を見つける手伝いをするって。一緒に幸せな ことをたくさんするんだって。


「わかった。信じることにするわ」


 俺の表情を見て、彼女は引き下がってくれたようだ。

 その様子に安心していると、エリンはいきなり目を閉じ始めた。

 顎を上に向けて、唇を突き出している。


「何……その顔……」


 エリンのあほ面が面白くて、思わず吹き出してしまった。


「な、何笑っているのよ。早くしなさいよ」


「しなさいって何を?」


 エリンの意図を感じ取っていたが、あえてとぼけることにする。


「何をって……。キ、キスに決まっているでしょ!」


「いや、知っているけど」


「知ってるならわざわざ訊かないでよ」


 エリンは怒ったのか、ぷいっと顔を背ける。

 自分の発言に照れているのか、耳元は真っ赤になっていた。


「……しないの、キス?」


「どうしてこのタイミングで?」


「そういう雰囲気だったじゃない。……違った?」


 確かにそういう雰囲気だった。完全にキスする流れが出来上がっていた。


「それに命がけの戦いの前に口づけをするってなんか憧れるじゃない。物語のワンシーンみたいで」


「意外にロマンチストなんだな……」


「女の子はみんなロマンチストよ。それより早く。キスするの? しないの?」


「じゃあ、しないかな」


「ゔえっ、えっ!」


 なんだよ、その鳴き声。

 どんだけ、驚いているんだよ、おい。


「てっきりそういう雰囲気だと思っていたのだけど……もしかして、私勘違いしていた感じ? 痛い女だった?」


 目を泳がして、口元をわなわなと震わせるエリン。

 その変顔じみた反応に笑いが堪えられない。


「違うけど、エリンの反応面白すぎでしょ。やばい、ツボに入った」


「私の純情な気持ちをもてあそばないでよ!」


「ごめん、そういう悪気があったわけじゃないから」


 涙目になっているエリンに慌てて頭を下げる。


「あれだよ。ここでキスしちゃうと、なんか満足して中ボスとの戦いであっさり死んじゃいそうじゃない? 未練はできる限り残しておきたいっていうか」


「私とそういうことするのが嫌ってわけじゃないのよね……?」


「うん、したいよ。エリンとそういうことしたい。だから、二人で20階層から抜け出したら、キスでもなんでもしよう」


「なら許すわ……。でも、約束だからね。ピュリフの街に戻ったら、キスするわよ」


「わかったって」


 顔を赤くしながら上目遣いで見つめてくるエリン。

 もし人生最後の光景がこの瞬間なら、俺は満足して死ねそうだ。

 まあ、エリンとのキスは楽しみなので、到底死ぬことなんてできないんだけど。


「それじゃあ行ってくる」


 絡ませた指を離し、軽く手を振った。


「いってらっしゃい」


 笑顔で応えてくれるエリンを見て、絶対に生きて帰ろう。そう決意した。


 視界の中央には中ボスの姿が映し出されている。

 俺の身体より何回りも大きい、銀色に輝く鎧武者。


 鎧の関節部分からは赤黒い煙が湧いて漂っている。

 顔には鬼の面がつけられている。

 表情などは読み取れなそうだ。目が赤く光っていることしかわからなかった。


 手にしている得物は薙刀。

 刀身の輝きは鎧の銀光よりもさらに洗練されていて、凄まじい切れ味が想起させられる。

 刃先がかすっただけで、接触部は斬り落とされてしまいそうだ。


 ああ、こいつには勝てないんだろうな。

 近くに寄れば寄るほど、実力差を肌で感じる。


 今はまだ《隠密》を発動しているお陰で鎧武者には気づかれていないが、俺がこのまま部屋に踏み込めば、たちまち見つかってしまうだろう。


 今ならまだ、引き返せる。

 そう思いながら、俺は部屋への一歩を踏み出した。鎧武者の下へ。


 途端、暴風のごとき威圧感が吹きすさぶ。

 荒れ狂う波に怖気づきそうになる。


 そんな自分を叱咤し、《隠密》を解除。

 そして、即座に叫ぶ。


「お前に勝つ!」


 ありったけの《殺気》を鎧武者に込める。


 17階層から20階層に飛ばされるという突然の窮地。

 いつモンスターに襲われてもおかしくないという恒常的な死の恐怖。

 エリンの精神的な脆さや、それをもたらした過去。

 そして、中ボスという最後の難関。


 これまでの全ての理不尽を怒りに変えて、目の前の敵に放つ。


 エリンを狙わせない。俺だけを見ろ。

 しっかり相手してやるから、かかってこい。

 全身全霊、全てを出し尽くした《殺気》で鎧武者を刺す。


 目の前の敵も、俺の気持ちに応えてくれたようだ。

 鎧武者と視線が合う。注意が完全に俺に向かった。


《索敵》でターゲットが取れたことをすぐさま確認すると、さらに一歩踏み込む。

 俺の身体にしては大きすぎる一歩。

 ――《縮地》である。


 一息で鎧武者の懐に跳び込まんと、身体を急加速させる。


「――ッ」


 急いで《縮地》を解除。

 加速したスピードを静止させようと、踏み込みに使った足とは反対側の足で真横に跳ぶ。


 身体が斜め前に放り出される。

 直後、跳び込むはずであっただろう地点に銀色の弧が描かれる。


 薙刀の一閃だ。

 線は止まることなく、そのまま吸いつくように俺へと迫ってきた。


「《離脱(ウィズドロー)》ォーーーー!」


 叫びながら何度も何度も距離を置こうと背後へ跳ぶ。

 やけくそまじりのアーツ連打。

 しかし、鎧武者の追撃はやむことなく、眼前を何度も何度も何度も必殺の攻撃が過ぎ

っていく。


 このままじゃ無理だ。死ぬ。

 一歩一歩縮められる距離。迫る背後の壁。

 ジリ貧な状況に焦りを抱き、《流線回避(ストリーム)》中心の回避へと移行していく。


 頭部が引っ張られる衝撃。身体のバランスが持っていかれる。

 髪が数本、宙を舞った。


 かすっただけでこれかよ……!

 鎧武者の攻撃の威力と近づく死の恐怖に寒さを覚える。

 体感温度が何十度も下がったような。肌の表面が凍りついてしまったような。

 寒気と怖れによって、歯の震える音が鳴りやまない。


 大丈夫。この調子だ。これでいい。

 目の前の敵に歯を見せつけるように口角を上げる。


 鎧武者の背後には、部屋の反対側を駆けているエリンがいた。

 どうやら中ボスを入り口付近から遠ざけて、エリンを部屋に突入させるという第一段階が完了していたようだ。


 攻撃を対処するのに夢中で気づかなかった。

 心配はいらない。作戦は上手くいっている。

 その事実を嚙みしめると少しだけ身体が軽くなっていく気がする。


 けれども、それは決して身体能力が上がったわけじゃない。ただの心理的な問題だ。 《殺気》を飛ばしながら、《流線回避(ストリーム)》で連撃を回避し続ける。

 エリンにやつの注意がいかないように。


 しかし、それにも限界が来ていた。

 もう避けられているのかすら怪しい状況だ。

 ただ単純に、自分の思うがまま身体を動かして、偶々攻撃が外れているだけだ。


 攻撃の軌道なんてもう視えちゃいない。

 だから、頼るのは感覚のみ。

 ジンとの幾多の立ち合いを経て研かれた、勘にも近い何かに縋っていた。


 こんな継ぎ接ぎだらけの無謀がいつまで続くかはわからない。

 だけど、止まるわけにはいかない。

 後先なんて考える余裕は既に失われていた。


 今、一秒でも、長く、生を引き延ばすように。

 跳ぶ、屈む、迫る、反らす。


 酸素が欲しい。瞬きだってしたい。

 身体が求める。訴えかけてくる。


 そんなのは無視だ。

 もう一秒。一秒待ってくれ。あと一秒だけでいいんだ。


 何度目の頼みかはもうわからない。無茶にも近い懇願を身体にぶつける。

 既に身体は自らの制御を離れていた。

 こいつですら俺の敵のように思えてくるほど憎ら しい。


 けれど、そんなの知るか。敵であろうとなんだろうと頼み込んでやる。

 お前は俺と生死を共にしているんだ。俺が死んだら、お前も死ぬんだぞ。

 だから、黙って俺に使いつぶされろ。


 自分の身体に鞭を打つ。

 一秒ごとに身体の大事な機能が削られていっている気がする。

 もう《流線回避(ストリーム)》ができているかもわからない。何も考えられない。

 それでも、まだある何かをさらに削ぎ落とすように、足や上半身を動かす。


 腕が千切れそう。足がはち切れる。背骨が軋んで折れそうだ。

 それでも一心不乱に動かした。


 どうして俺はこんなことをしているんだ?

 なんのために? どうして?

 目的すら怪しくなってきた。


 何かのために攻撃を躱しているはずなのに。その何かが思い出せない。

 手段が目的になったような感覚。


 だけど、そんなこと、今はどうでもいい。

 湧き起こる疑問を意識の外に追いやる。


 連撃、それに続く連撃。その全てを躱す。

 それ以外は全部些末なことだ。

 襲い来る薙刀の乱舞を必死に搔い潜る。逃れ続ける。


 手足の感覚がなくなって、ようやく理解してしまっていた。

 刻一刻と自分の命の秒読みが迫っている。

 鎧武者の攻撃はあともう少しで俺を捉える。


 それは何秒後だ? 一秒後かもしれない。

 一分後? それはないな。そんなに持つわけがない。

 十秒とか二十秒とか、そう遠くない未来のことだ。


 ――その瞬間、俺は死ぬ。


 だから、既に崩れている《流線回避(ストリーム)》を止めないで、身体を動かし続ける。


 なんで『だから』なのかはわからない。

 論理的道筋なんてものはもう俺の頭からは失われていた。

 全ての思考が目の前の相手の攻撃を避け続けることに繫がる。それだけのことだ。


 ――突如、失われていた聴覚から爆発音のようなものが聞こえた。

 その音に溺れていた意識を呼び起こす。


 ずっと待ちわびていたはずの合図。

 エリンが結界内にたどり着いたことの知らせであっ た。


 そして、襲い来る絶望。

 ここから、こいつを振り切れっていうのかよ……。

 声に出せない悲観を胸に、目の前の鎧武者を見上げる。


 数秒後に俺は死ぬ運命なんだぞ? そんな状況の中、どうやってこいつを抜くんだ?

 答えのない疑問を抱えて、俺は前に跳び込んだ。


 どうせ待っていれば死ぬんだ。

 だったら、ほんの僅かな残り体力を使い切る前のこの瞬間、振り切るしかない。


 策略も思惑ですら何もない一歩。

 無謀そのものと取れるような行動を選んだ俺には当然の報いが待っていた。

 銀色の刃先が振り下ろされる。


 ――ああ、確実に死んだな。


 視界に映る全ての光景がスローモーションになる。

 今まで目で追えなかった薙刀の動きもやっと理解できるようになった。

 この一撃は間違いなく俺の首をはねるだろうって。

 だからだろうか。最後に思い起こされたのは俺が歩んできた情景だった。


 ――自分の生まれ育ったチャングズの家。


 ――ミーヤと手を繫いで歩いた森の中。


 ――ミーヤとの別れの時。


 ――ジンとの出会い。


 ――賑やかなピュリフの街。


 ――『到達する者(アライバーズ)』のパーティーハウス。


 ――初めてダンジョンに潜った1階層の光景。


 ――薄暗い牢屋の中。


 ――武器屋に行きエリンとデートらしきものをしたあの日。


 ――ロズリアと聖剣の輝き。


 ――初めて見た海の広大さ。


 ――幾度も繰り返したジンとの手合わせ。


 ――ネメが風呂に入ってきた瞬間。


 ――そして20階層で過ごしたエリンとの日々。


 決して忘れることのできないような大切な思い出。

 その中から、本能にも近い何かで一シーンを抜き出す。


 それは嬉しかった出来事でも悲しかった出来事でもなんでもなくて。

 だけど、何故だかこの光景を思い浮かべることが正解な気がしてならなかった。


 ――それは、ジンとの手合わせ。


 影を纏って迫ってくる彼の姿であった。


 何百回も間近で見て、身体で味わった。

 だから、きっとできるような気がして。

 これこそ、ジンが俺に期待していたことだったんじゃないかって。

 不確かで、あやふやな推測だけれども。

 俺は鮮明に覚えている、その光景をなぞるように身体を動かした。



 ――《偽・絶影》



 視界が黒に染まる。

 違う。目が自分の動きについてきていないだけだ。


 どこに攻撃が来るのかはもうわかっている。

 あとは肉体を動かすだけだった。軽く避けるように上半身を屈める。

 そのまま鎧武者の脇を駆け抜けるための一歩を踏み出した。


 ああ。風が強い。身体が圧し戻されそうだ。

 音も聞こえない。静かな世界だ。

 暗い。視界は全部黒に塗りつぶされている。


 それでも、理解できた。

 俺は今、鎧武者を抜き去った。

 そして、さらに今。距離をあける。

 鎧武者の一足では到達しえないほどの距離を。


 視覚や聴覚が追いつかなくても、《索敵》が敵の行動を教えてくれる。

地図化(マッピング)】が部屋の出口を教えてくれる。

 だから、何も問題はない。


 次に鎧武者は斬撃を飛ばしてくる。

 俺は限界まで身を屈め、地面すれすれまで腰を落として駆ける。


 スピードを落とすどころか、手と足を使って更なる加速に入る。

 ジンが以前、ダンジョン内で見せてくれていたアーツ、《蟲型歩足(シンクウォーク)》だ。


 斬撃を避けたことを確認して、《偽・絶影》で最高速度まで引き上げた。


 鎧武者。お前はたった今、俺を殺す最後の機会を逃したんだよ。


 ――この勝負、俺の勝ちだ。


 そして、そのまま振り返らず部屋を抜けていった。


前へ次へ目次