第31話 似て対極なる二人
「挫折しても前を向けない人間だっているのよ。全ての人間があなたと同じわけじゃないのよ。ほら、ここにもいるじゃない。恵まれた魔法系スキルを持ちながら、努力することもなく、人生を楽な方へ楽な方へと逃げ続けている、どうしようもない人間の私がね」
俺はもうエリン・フォットロードという人間がわからなくなっていた。
俺の知っているエリン・フォットロードは、勝ち気で、負けん気が強くて、自分への自信をみなぎらせているはずなのに。
目の前にいる少女は、弱くて、脆くて、空っぽだった。
尊敬していたはずの天才魔導士は消え果て、残っていたのは一人の泣いている少女だった。
「私ね、昔いじめられていたの……。魔法使いになるための学校に通っていた頃の話ね……」
唐突に切り出された話に、いくらかの戸惑いを隠せない。
ただ、彼女の頭の中では先程の話題と繫がっているのだろう。
黙って続きを聞いてみることにした。
「理由はなんででしょうね。多分、こんな性格だからでしょうね。自分で言うのもなんだけど、嫌味な性格でしょ。思ったことをすぐ言っちゃって、それじゃ嫌われて当然って話よね」
自嘲を浮かべるエリンの顔はもう見てられなかった。
エリンの自分に自信を持っているところを好ましく思っていた。尊敬していた。
なのに、その思いが次々と汚されていくようで。
「最初は陰口から始まって、次第に直接的な悪口になっていって、気がついたら嫌がらせに変化していた。クラス中からはぶかれて、無視されて、いないものにもされた。持ち物だって毎日なくなるし、子供ながらに大切にしていた宝物が壊されもした。時には殴られたり、蹴られたりの暴力だってあった」
俺の今抱えている感情は身勝手なものなのだろう。
多分、自分が思い描いていたエリン・フォットロードという人間像が最初から間違っていたのだ。
俺は彼女の口ぶりから、その内面まで強い人間だと思い込んでいた。
「当然、私のことだから教師にも報告したわ。不満を口にせずにはいられないもの。誰々がいじめをしてくるって何度も報告したわ。もちろん、先生も仕事だから、そのたびにクラスメイトに注意してくれたわ。でも、そんな教師の言葉でいじめがやむわけないじゃない。だって、根本的な原因である、私の性格が変わっていないのだもの」
でも、彼女は実は弱くて、傷つければ、怪我をするような女の子だったのだ。
「私にもいじめの原因があるんだから、救いようがないわよね。性格なんて一朝一夕で変わるようなもんじゃないじゃない。こっちだって、好きでこの性格に生まれたわけじゃないのよ……」
彼女の取り繕われたメッキは既に剝がれ、そこにいるのは傷だらけの少女だ。
俺はどう声をかけたらいいのかわからなくて、何か言おうと口を開きかけたが、その前に「でもね――」と遮られる。
「辛い毎日だったけど、辛いことばかりじゃなかったの。こんな私でも敵ばかりのクラスの中に一人だけ友達がいたんだよ。すごいでしょ。だいぶ大人しい子で、消極的な性格のせいか、他のクラスメイトに馴染めなくて。同じ友達がいない同士という情けない共通点で繫がり始めた仲だったけど、それでも仲が良かったんだよ」
楽しげな思い出を語る彼女の口調は何故か悲しげで。その顔は悲痛に満ちていた。
「その子と話している時間は楽しかった。辛くて死にたくなるような日常を忘れていられたもの。魔法についてたくさん語り合った。学校の成績だって競い合った。勝っても負 ても、楽しくて。些細なことで喜びを共有し合えて。多分あの頃の私は、今思うと一番幸せだったんだと思う」
もういいよ。何も言わなくてもいい。そう思った。
彼女の顔から、その後に続くのが悲しい出来事だと悟ってしまったから。
「いじめによる苦痛とほんの少しの幸せでできた毎日は私が15歳になるまで続いたわ。そして贈与の儀を受けて、スキルをもらった瞬間に終わってしまった」
なおも彼女は喋り続ける。自分で自分の心をえぐるように。
見えないはずの致命傷を、一つずつ丁寧に引き裂いて広げていく。
「魔法使いの中でも最上級クラスのスキルを二つも手に入れて、周囲を取り巻く環境は大きく変わったわ。私が魔導士として、成功することが約束されたようなもんだからでしょうね。クラスメイトは突然友好的な態度を取り出して、教師達は我が校で誇るべき生徒のように奉ってきたわ。数日前まではただのいじめられっ子だった生徒をね。そんな恥も外聞もなく媚びへつらってきた彼らに、過去の私はどうしたと思う?」
突然投げかけられた問いかけに戸惑う。
俺は慌てて「冷たくあしらったとか?」と声に出す。
しかし、俺の答えは間違っていたようだ。エリンは首を横に振る。
「違うわ、ノート。逆よ、逆。快く迎え入れたわ。休み時間には世間話をして、グループワークでは誘われた人と組んで、放課後は彼女達と遊んで。今まで、ずっとただ一人の友達だった、女の子との関わりをスパッと絶ってね」
エリンの後悔はここにあったのかと思った。
でも、俺の予想に反して、なおも話は続いていく。
「人間の集団っていうのは不思議なものでね、何故か一人の共通の敵を作らないと成り立たないみたいなの。クラスから共通の敵であった私が消えたのだから、次の展開はわかりやすいでしょ? 一人ぼっちになったその女の子がいじめられるようになったわ。元から私と一番仲が良かったその子の存在が邪魔だったのもあるでしょう」
エリンの涙は枯れ果てて、頰を流れる雫は既に白い跡になっていた。
だけど、ここが一番の後悔であるかのように声は泣いていた。
「そして、その子がいじめられているのを私は見て見ぬふりをしたの。いや、それどころ いじめに加担してしまった。私をいじめていたクラスメイトの指示は断れなかった。だって、怖いじゃない。断って、私がまたいじめられたら。もうあんな地獄みたいな日常にだけは戻りたくないって、その時は思っていたの」
嗚咽を漏らしながら彼女はうなだれていた。
「最後に私が言った取り返しのつかない言葉は今でも鮮明に覚えているわ。『私はあなたといて、全然楽しくなかった。あなたに友達がいないから仕方なく付き合ってあげてたのよ。だから、勘違いして馴れ馴れしくしないで』って言ってしまったの。そしたらね、彼女なんて返してきたと思う? 『わたしはエリンちゃんといて楽しかったよ。でも、迷惑かけてたんだね。ごめんね。そして、ありがとうね』だって――」
「なんでよ!」とエリンは声を荒らげる。
「なんでありがとうなのよ! なんで私が謝られなくちゃいけないのよ! 本当は私が謝らなくちゃいけなくて、感謝しているはずなのに! だから、翌日彼女に謝ろうと思った。当然、許されるはずのないことを言っちゃったけど。もう許してもらえないかもしれないけど。それでも謝ろうとしたのに――」
エリンは自身の全てを絞り出すように、声を紡いでいった。
「その時はもう遅かった。彼女は学校に来なくなって、すぐに学校を辞めてしまった。遠く住む親元を離れて寮から通っていた彼女にはもう会えなくなってしまったのよ。もう彼女には謝りたくても謝れないのよ」
俺にはエリンの非道を責めることはできなかった。
だって、それは俺にも言えたことだから。
俺が幼馴染に対してした仕打ちとも同じようなものである。
俺達は大切な人を裏切って、傷つけて、こうしてのうのうと今日を生きている。
「あんなに魔法が好きだった彼女が、私のせいで魔法に関わる道を断ったのよ。本当は私がいなくなれば良かった! 私さえいなければみんな幸せだったの!」
一人の少女にそんな残酷なことを言わせる全てが憎らしく思えた。
彼女のしたことは、万人が判断すれば許される出来事じゃないかもしれないけれど。
俺だけは許してあげたいと思った。
それは仲間だからなのか、似たような境遇を抱えた者同士だからなのか、それとも罪を告白する彼女が既に必要な裁き以上の苦しみを与えられているように思えたからか、わからなかった。
多分、そのどれもが当てはまって、そのどれもじゃ足りない理由なのだろう。
「それで全部が全部嫌になって、私も学校を辞めてしまったわ。そして、流れるままに『到達する者』に入っていった。ダンジョン制覇における明確な目的だって特になかったわ。ただ、彼女から魔法の道を奪った私は魔法の道で大成しなくちゃいけないという義務感は少しだけあった。だから、『自分を世界一の魔導士だと証明すること』なんていう、思ってもいない目標を自己紹介で掲げたのかしら。魔法を学ぶ一番の環境である学校からも逃げて、だからといって別に魔法を鍛え直すこともしなかったくせにね。ほんと笑っちゃうわよね」
エリンから衝撃の事実が告げられる。
俺が漠然とした人生から進むべき目標を見つけた『到達する者』での自己紹介。
その大切な思い出ですら、偽りが混ざっていた。
それには少しだけ、裏切られたという切なさを感じてしまった。
だけど、彼女の告白はここで止まらない。
「ついていた噓は他にもあるわ。特にノートにはね……」
「俺?」
「そう、あなたによ。私はね、昔あなたをパーティーから追い出したかったの……」
「昔って……エリンが怠けているのに怒った時のことじゃなくて……?」
「違うわよ。最初から。ノートがパーティーに入った瞬間から――いや、正確に言うとあなたがパーティーに入る前からね」
エリンの瞳を覗き込むが、その中身は虚ろである。
感情はほとんど吐き出されていて、中には何も残されていなかった。
「私はね、自分に媚を売ってきたクラスメイトのような人間がもう大っ嫌いなの。大したスキルもないからって、人にへりくだって、そのくせ妬んで、誰かを傷つけるような人間とはもう関わりたくないって思ってた。だから皆が一流の冒険者である『到達する者』でなら、なんとか過ごしていけると思っていた。でも、そんなところに土足でずかずかとノートが入ってきた。だから、排除しようと思った」
「排除って……」
「心当たりはあるでしょう? 最初に会った日にキッチンで伝えたはずだわ。あなたがパーティーに入ることは反対だって。誘拐容疑で捕まった時もそう。少し暴論だと思ったでしょ? あなたをパーティーから追い出す口実をやっと見つけて、無理やりでも追い出そうとしたのよ」
エリンとの思い出が少しずつ色を変えていく。
あの時、彼女はこう思っていたのか。こんなことを考えていたのか。こんな気持ちだっ たのか。
俺はエリンのことを知っていたようで何も理解できていなかった。
彼女の表面的な部分にしか目を向けてなかった。
「冷たい態度を取り続けていたのも、そういう理由よ。でも私は間違えていた。ノートはクラスメイトとは違った。それどころかまた人を陥れようとした私なんかより、ずっとまともで強い人間だった」
「俺がまともで強い人間?」
反論をしようと口を開いたが、エリンの言葉によってそれは押しとどめられる。
「そうよ。私が罪悪感から逃げて怠惰に過ごしている間にも、ノートは自分の欠点に向き合って変わろうと努力していた。私は『到達する者』に入ってからスペルを研くことはなくなったにもかかわらず、ノートは四六時中アーツの練習をしていた。そして、現にあなたは変われて、私は変われなかった」
「俺はそんな褒められるような人間じゃない。エリンの方が戦いになればずっと強いし――」
「私は弱い人間よ。たとえスキルで勝っていても、心の部分で負けてちゃ意味がないわよ。人間、才能は必要だけど、それ以上に努力も必要なのよ。折角の才能があっても、努力できなくちゃ無駄に終わるのよ」
やがて全てのメッキ剝がれ終えたようだ。
心に抱えていたものを全て吐き出して、言いたいことは全て言い終えたとばかりに締めくくった。
「あなたには才能があるわ。努力の才能が。そして前に進み続ける才能が。きっと、いつか大成するわよ。私が保証する。だから、私を置いていってこの階層から抜け出して。きっと、一人でも大丈夫。私なんかいない方がすんなり抜け出せるかもしれない。この暗い中、一人死んでいくのは嫌だけど、それでも我慢する。関わる人を傷つけ続けた私に相応しい死に方だから」
「なんでそんなこと言うんだよ! エリンも一緒に――」
「私はもう無理よ。心が折れてしまったもの。だから、置いていって」
懇願する彼女の瞳を見て、俺は初めて彼女の本質を知ることができたのだろう。
やっとだ。やっとわかることができた。
彼女の抱えていた気持ち、そして彼女が俺に抱く像の真相が。
その答え合わせをするように、俺はそっと口を開いた。
「違うよ。俺はただ運が良かったんだ。『到達する者』に出会えて変わることができた、それだけなんだ。そして、エリンは『到達する者』に出会わなかった俺なんだ」
エリンは昔の自分だ。
『到達する者』に出会う前の、ミーヤを傷つけたことに後悔し続けている俺とそっくりなのだ。
「俺も昔はエリンと全く一緒だった。弱い人間だった。自分に向き合うことだって拒絶していた。でも、『到達する者』に出会って、変わった。本当にそれだけの違いなんだ」
「私は『到達する者』に出会っても変わらなかった! 変われなかった! 弱い人間のままだった! あなたとは違う! あなたが変われたのはあなた自身のせいで、私が変われなかったのは私自身のせい!」
「それは違う! エリンは悪くない! 人は誰かと出会うことで良くも悪くも変わっていく。でも、誰と出会って、その人からどういう影響を受けるかは人それぞれなんだ」
感情的になるエリンの瞳を強く見つめ返した。
「俺にとっての救いが『到達する者』であって、エリンにとっての救いが『到達する者』でなかっただけの話なんだよ。それはちょっとのボタンの掛け違えみたいなもんなんだよ。状況やタイミングが少しでも違っていたら、お互いの立場が逆だったかもしれない。エリンが変われて、俺が変われなかった未来が待っていたかもしれないんだ」
外れスキルを与えられて、幼馴染を裏切った俺。
恵まれたスキルを得て、唯一の友達を裏切ったエリン。
『到達する者』に入って嫌な自分から少しだけ変わることができた俺。
『到達する者』に入って何も変われなかったエリン。
俺達はどうしようもなく似ていた。似ていて、逆向きに進んでいた。
それが無性に悲しかった。
彼女は未だ挫折の中にいる。苦しみから抜け出せていない。
似た者同士の俺だからわかる。
その苦しみは心を躊躇いもなく蝕んでいく。
自分を否定して、消してしまいそうなほどに。鮮烈で、耐えられないほどの激痛だ。
そんな絶望の中、なんの救いもなく死のうとしているエリンがかわいそうに思えた。 救ってあげたいと思った。
彼女が自分の人生を恨んだまま、死ぬなんてことがあってはならない。
こんなところで絶対に死なせたくはない。
彼女の絶望が理解できるからこその願いがそこにはあった。
「だからさ、エリンもこの先、生きていけばきっと俺にとっての『到達する者』のような存在に出会えるよ。そうであって欲しいと願っている」
こんなささやかな願いが叶わないような世界は救いがなさすぎる。
一人の少女が自分を認められないまま死ななければいけない世界なんて、間違っているはずだ。
少なくとも、俺は絶対に認めない。
「この先、生きていけばって……私はこの階層から出られないわ。生きて帰る自信なんてない……」
「いいよ、自信がなくても。俺がエリンをこのダンジョンから連れ出すから。どんな手を使っても、何を犠牲にしても帰らせる。だから、俺を信じて欲しい。もちろん、できるでしょ? だって、俺はちょっと前にエリンにお墨付きをもらったじゃん。強い人間だって」
無理をして笑う俺に、エリンもつられて頰を持ち上げる。
それは彼女がこの階層で見せた、初めての本当の笑顔だった。
「馬鹿じゃないの、あなた……」
「馬鹿でいいよ。だから一緒に帰ろう。みんなの待つ、ピュリフの街に」