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第29話 エリン・フォットロードという人間の弱さ

 ――ひタひタ。ひタひタ。


 湿った足音が段々と近づいてくる。ゆっくりと確実に。


 ――ひタひタ。ひタひタ。


 本当にこの作戦でいけるのか?

 戦った方がいいんじゃないか?


 湧き上がる疑念を押しとどめるように、唇を嚙む。

 そのまま、音の鳴る方向へと目を向ける。


 ――ひタひタ。ひタひタ。


 蠟燭でうっすらと照らされた通路の先。

 闇の中に潜むモンスターの姿は未だ目視できない。


 大丈夫だ。この選択で間違いないはず。

 自分を奮わせるように心の中で唱える。


 ――ひタひタ。ひタひタ。


 エリンにも注意を向ける。

 彼女は俺の腕の中で震えていた。

 心配する必要はないと伝えるため、ぎゅっと肩を摑む。


 ――ひタひタ。ひタひタ。


 俺達は予定通り、通路の端で息を潜めている。大丈夫なはずだ。

 モンスターの視界に入らないように、壁を覆うツタの中、二人縮こまって隠れている。


 これから訪れるモンスターに備えて、世界から乖離する感覚をより高める。

 もっと、深く。《隠密》に入れ。


 ――ひタひタ。ひタひタ。


 暗闇からそれは現れた。

 緑色? 青色?

 ぼやけて体の色はわからない。


 ――ひタひタ。ひタひタ。


 湿った足音はどんどん寄ってきていた。

 なんだあれ? カエルか?


 蠟燭の灯りによって体の表面が反射している。

 どうやら体表は粘液のようなもので濡れているみたいだ。


 カエルもどきとしか言い表しようがないモンスターは、二足歩行で悠々と歩いていた。

 歩いている様子がのろまだからって、カエルもどきを油断するのは早計だろう。

 よく観察してみると、脚が太い。

 いかにも筋肉が詰まってそうな両脚だ。

 こいつが本気で跳躍したなら、数十mは余裕かもしれない。


 大きさは俺達より一回り上くらいか?

 胴体のサイズにしてはやたらと目が大きい。

 両腕は脚と比べ発達していないようだ。

 俺の腕と同じくらいの細さだった。


 同じ二足歩行のモンスターとして16階層のウマ人が挙げられるが、カエルもどきはそれとは全く違う印象を受ける。

 ウマ人が馬を人間に寄せて二足歩行させたモンスターなら、カエルもどきはただの二足歩行の獣である。

 このモンスターからは知能とか秩序とかは微塵も感じられない。

 あるのは本能だけだ。


 ――ひタひタ。ひタひタ。


 カエルもどきは俺達のすぐ斜め前まで来ていた。

 手を伸ばせば触れられるかどうかの距離である。


 歩くのが遅い。早く通り過ぎてくれよ。

 心臓の鼓動は限界に近いほど早くなっている。

 バクバクとうるさい。

 こんなんじゃ見つかるだろ。止まってくれ。


 いくら念じても、音はやんでくれない。

 違う。この音は俺のじゃない。エリンの鼓動だ。


 ゆっくりと首を回し、腕の中の彼女を見る。

 エリンは目を見開きながら身体を小刻みに揺らしていた。

 こんなんじゃ、いくら俺が《隠密》を頑張ったところで見つかってしまう。


 身体をそっと押さえつけるも、エリンの震えは止まらない。

 口は半開きになり、恐怖から今にも声が漏れ出そうだった。


 しっかりしろよ、おい!

 声に出して叱ってやりたいが、この状況じゃそれも叶わない。


 仕方ないので、右手で無理やりエリンの口を塞いだ。

 その直後、手のひらの中で「ひぃっ!」というごく僅かな悲鳴が響く。

 思わずエリンを張り倒してやりたい気分になった。


 怖いのは俺だって同じなんだよ。

 我慢してくれよ。じゃないと殺されるんだぞ?


 いくらエリンを強く押さえても、震えは止まる兆しを見せない。

 俺の手のひらは彼女の唾液で濡れ、堰き止めている声は決壊しそうだ。

 鮮やかな赤い瞳には涙さえ浮かんでいた。


 これは無理かもしれないなと、諦めかけて前を向くと、カエルもどきの姿は消えていた。

 左手方向に視界を移すと、不気味な二足歩行の獣は暗闇に消えていく最中だった。


 いつの間に通り過ぎていたんだ?

 エリンが危なっかしすぎて、全然意識が向いてなかった……。


 カエルもどきが完全に立ち去るのを確認すると、押さえていた手を離した。

 隣からは「はぁっ、はぁっ」と荒い息づかいが聞こえる。


「早く行くぞ。モンスターが後ろからも来ているし」


 俺は急いで立ち上がり、彼女の肩を叩いた。

 俺の催促に、潤んだ視線が返ってくる。


 最初、俺が手荒に口を塞いだことを抗議してくるのかと思った。

 だけど、彼女の口から放たれたのは予想外の返答だった。


「もうやだ……」


 俺の言葉に従うように立ち上がるも、その動きに全くといっていいほど力はこもっていなかった。

 普段の強気な彼女はここにはもういない。


 弱音を吐き続けるエリンに、俺は一抹の不安を覚えていた。






 ***






 この階層に来て何日が経ったのだろう。

 三日? 五日? それとも一週間以上か?

 いや、もしかしたら二十四時間ほどしか経っていないという可能性だって有り得る。


 陽の光もなく、蠟燭の火で照らされた通路と部屋が続くだけの20階層。

 時間感覚はとっくに狂い、今が朝か夜なのかもわからない。


 そんな中、代わり映えのしない風景を歩き続けるのはだいぶ気がやられる。

 適度に休息を挿まなければ、体力的にも精神的にも限界が来るのは目に見えていた。


「本当に大丈夫なのよね……ここで寝て……」


「うん、心配いらない。もしモンスターが近づいてくる気配があったら起こすよ」


 隣で毛布にくるまっているエリンを優しく宥める。

 精神的に不安定な状況になっている彼女の取り扱いは注意しなければならない。

 できる限り刺激しないように言葉を選んでいく。


「……わかったわ。なら寝る」


「おやすみ、エリン」


「……おやすみなさい」


 そう言って、僅かな蠟燭の光すら遮るように頭まで毛布を掛ける。

 外界からの恐怖を遮り、安全な世界へと引きこもるヤドカリのような仕草だ。


 俺はヤドカリのそばに立てかけられた杖を眺めながら、それと同じような体勢で壁に腰掛けた。

 肺中の空気を吐き出すように深く息を吐く。


 ――正直、しんどい……。俺としても限界が来ている。

 少しでも疲れが取れればと目を瞑る。


 迫るモンスターの脅威に対処するため《索敵》は常時発動していなければならない。

 そのせいで、この階層に入ってからきちんとした睡眠は取れていなかった。


《索敵》と《隠密》を展開しながら、触れられれば起きるような浅い睡眠で凌ぐ毎日。

 アーツを発動しながら寝られる技術を身につけていなければ、今頃倒れていただろう。

 いや、今倒れていなくても、明日は倒れるかもしれない。

 そのくらい俺の身体は疲労で重くなっていた。


 横で吞気に寝ているエリンが腹立たしく思える。

 俺は寝ている最中、《索敵》でモンスターの接近を察知するたびに起きていた。

 最初の方はエリンを叩き起こしてモンスターから逃げていたのだが、エリンの疲れが見て取れたので、途中からは群れでない限りエリンを起こさず《隠密》でやり過ごしていた。


 よって、俺の睡眠時間はエリンよりもかなり少ないはずだ。

 それなのに自分より衰弱しているエリン。

 その姿に少しばかり苛立ちが募ってしまう。


 わかっている。こんなのは八つ当たりだ。

 自分に余裕がないから、他人を責めたい気持ちになっているだけだ。


 この階層を抜け出す進捗状況もよろしくないのが、俺の苛立ちに拍車をかけていた。

 俺達はモンスターとの遭遇を避けることを最優先に動いているため、全然前に進めていない。


 来たルートを引き返すことは日常茶飯事だし、時には大幅に迂回してから進むことだってある。

 モンスターを蹴散らしながら進む探索とはわけが違っていた。


 そもそも、転移結晶の位置がわからないので、前がどっちかもわからない。

 ゴールの見えない脱出劇に気が狂いそうになる。


 唯一の救いは【地図化(マッピング)】のお陰で、通った路の地図が出来上がっていくことだった。

 道に迷うことはないし、段々とこの階層の構造も把握できている。

 理論的にはこのまま歩き続ければ、俺達は転移結晶を見つけられるはずだ。


 このスキルがなければ、俺ですらこの階層からの脱出を諦めていただろう。

 こんなに自分の外れスキルが役に立ったのは初めてだ。


 ――俺も軽く寝るか。モンスターもしばらくは来なそうだし。


 アイテムバッグから、エリンの被っているものと同じ毛布を取り出す。

 これもまたラッキーだった部類だろう。


到達する者(アライバーズ)』の六人の中で、俺とネメにのみこのバッグが渡されていた。

 中には食料品やダンジョン内での宿泊道具が詰め込まれている。

 17階層へは軽い探索目的だったので、あまりバッグの中のものは充実していなかったが、それでも数日間はものに困ることはないだろう。


 俺達はこういう幸運の積み重ねで辛うじて生き延びていた。

 一つでも何かが足りなかったら、今頃は死んでいた。

 足搔き続けられている現状に感謝しなければならない。






 はっ、と目が覚める。

 突然激しく揺り起こされたような意識の浮上感に苛まれる。


 モンスターだ。モンスターが来ている。

 しかも、一体じゃない。群れだ。

 《隠密》だけでやり過ごすのはリスクが高い。


 隣で毛布にくるまっていたエリンを急いで叩き起こす。


「おい、起きろ」


「……な、何?」


 エリンは瞼を擦りながら、寝返りを打って身体をこちらに向ける。


「モンスターが来ている。早くここから逃げるぞ」


「そう……」


「『そう……』じゃないよ。早く逃げるんだよ」


 こと切れそうな返事をするエリンの手を引き、身体を起こさせる。

 光が消え、薄く濁った彼女の瞳は薄暗いダンジョン内でもよく見て取れた。

 恐らく、エリンはもう限界を越えかけている。特に精神面において。


 ここ数日、エリンの口から強気な発言が飛び出すことはなかった。

 いつもは嫌というほど、耳に入ってくるのに。

 それどころか、ダンジョンに取り残されてから、言葉数が異様に少なくなっていた。

 今日なんて、俺が話しかけてやっと返事が戻ってくるといった様子だった。


 彼女から話しかけられるということはほとんどない。

 しかも、口を開けば出てくるのは弱音で、聞き手である俺を嫌な気分にさせていた。

 俺が自分を偽って希望的な観測を語っているんだから、エリンもそれに同調して欲しい。

 そうでないと、俺の心まで折れてきそうだ。


 俺はエリンのことをもっとしっかりしたやつだと思っていた。

 しかし、それは過大評価だったようだ。


 ――今のエリンは本当に役に立たない。


 ここまでメンタル面が弱い人間だとは思ってもみなかった。

 彼女の存在は今では少し、俺の精神的な足枷となっていた。


 エリンが抱えていた毛布を奪い取り、アイテムバッグに放り込む。

 そのまま苛立ちを隠すためにも、間を置かず彼女の手を摑んで走り出した。


 どのくらい足を動かしていたのだろう。

 俺達はエリンの体力切れによって、足を止めていた。

 両膝に手をかけ、荒々しい息を整えているエリンを横目に肩を回す。


 だいぶモンスターからは離れることができた。

 ひとまずは安全といって差し支えがないと判断していた。


「水、お願いできる?」


 アイテムバッグから水筒を取り出し、エリンに手渡す。


 この水筒の中にスペル《給水(ウォーター)》で飲み水を入れるのは彼女の役目だ。

 魔導士であるエリンのお陰でこうして水問題を解決しているのも事実だった。

 先程は役に立たないといったが、こういう点では貢献しているのもまた事実だ。


「……うん」


 エリンは軽く頷くと、腰に手を当てる。

何かを探すように数度叩き、なんらかの異変に気がついたようだ。

 首を何度も回して、腰元を確認している。


「……ないっ!……なんで⁉」


 目を見開いて必死の形相で辺りをきょろきょろ見回している彼女に嫌な予感がした。

 このまま黙っていても、何も解決しなそうなので、仕方なしに尋ねる。


「どうしたの?」


「杖がっ! 杖がないの!」


  ……マジか。そうきたか。

 怒りよりも先に呆れの感情が襲ってきた。


 そういえば、エリンは寝ている時、杖を壁に立てかけていた。

 急いで彼女を連れて逃げたせいで、杖を置き忘れたみたいだ。


「……サブの杖はこっちのアイテムバッグに入ってなかったよね?」


「……うん。ネメの方に」


到達する者(アライバーズ)』はアイテムバッグを二つに分けている。

 俺が持つアイテムバッグには主に、俺とジンとロズリアの装備が詰め込まれていた。


 魔法まで使えなくなるとは。

 エリンに唯一あった役割すらも失うときた。

 このままでは本当に役立たずとなってしまう。

 流石にこの状況は看過できないので、口を開く。


「しょうがない。多分、寝ていた場所に忘れているだけだと思うから、モンスターが去ったら後で取りに行こう」


「……ごめんなさい」


「いいよ。気づかなかった俺も悪いし」


みるみるうちに萎れていく彼女にあまり強い言葉を投げつけるのは罪悪感が生じる。

 なるべく優しい物言いを選んで、彼女を宥める。


「とりあえず、今は休もう。当分モンスターは杖の付近にいそうだし」


 そう言って、エリンの手にあった空の水筒と、アイテムバッグに入っていた毛布を交換した。


「ちょっとだけでも寝ておきな。全然寝られてないでしょ?」


 睡眠に入ってからモンスターの群れによって叩き起こされるまで、二時間も経ってないはずだ。

 この寝不足のままダンジョンを歩き回るのは、危なっかしすぎる。


「……ありがとう」


 毛布を素直に受け取ると、エリンは横になった。

 俺ももう一時間だけ寝よう。それから後のことは考えよう。


 精神的にも、肉体的にも、ぐったり疲れた俺はすぐに浅い睡眠の中に入れた。


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