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第28話 ノート・アスロンという人間の真価

「こ、ここが20階層……?」


 目の前が突然真っ白になったという感覚が一番近かっただろう。

 その言葉を聞いた瞬間の衝撃は、恐ろしいほど鮮烈であった。


 意味がわからない。エリンの言葉が理解できない。

 20階層? なんだよ、それ。

 俺はさっきまでみんなと17階層を様子見がてら探索していて、午後にはピュリフの街にあるパーティーハウスに帰ってるはずだったんだよ。

 それがどうしてこんなところにいるんだよ。


 置かれている状況を認めたくない。

 だけど、無慈悲にも頭では納得してしまっているのが、また救いがない。


 全部《索敵》のせいだ。このアーツのせいで、周囲にいるモンスターの強さを嫌でも知ってしまう。

 俺達の周りを闊歩するモンスターの強さは尋常じゃない。

 それはもうダンジョンの20階層に相応しいくらい。

 彼らは圧倒的な戦闘力を持っていた。


「そうよ……ほんと笑えてきちゃうわよね……」


 エリンの乾いた笑い声が部屋にこだまする。

 彼女の瞳は既に光を失っていた。


「終わったわね……私達……」


 そう言いながらエリンの身体は崩れ落ちた。

 あらゆる関節の力が抜けて、立っていられなくなったようだ。

 うなだれながら、か細い声で言葉を紡いでる。


「戦うことのできないノートと二人きりで20階層? 無理に決まっているじゃない……。私に死ねと言ってるの……?」


『そんな言い方ないんじゃないか?』という文句が口元まで出かける。

 でも、エリンの言っていることは事実だ。

 悔しいが何も言い返せなかった。


 無理だ。エリンと二人だけで20階層を抜け出すなんて。

 戦闘力のない俺はもちろんのこと、遠距離戦闘を専門とするエリン一人でこの階層のモンスターを相手取ることも不可能だろう。


 エリンは優秀な前衛がいたからこそ『到達する者(アライバーズ)』で活躍ができていたわけで、前衛なしにダンジョンのモンスターと戦ったら即座に殺されてしまう。

 彼女の戦いは散々後ろから見てきたし、《索敵》でこの階層のモンスターの実力は正確に把握しているのだ。

 これは間違いない事実だ。


 こんなところで死ぬのか? 俺は?


 必死に周囲を見回す。

 薄暗い小部屋。全く溶ける気配のない蠟燭。

 壁を覆う不気味な灰色の蔦。肌に張り付くような湿った空気。


 噓だろ? こんなところで死ぬなんて?

 だって、少し前まで全部上手くいっていたじゃないか。

 ダンジョンを順調に攻略していって、アーツを少しずつ身につけて。

 ネメの外れた発言につっこんだり、ロズリアの誘惑に惑わされたり、フォースの馬鹿に呆れたりと、楽しい毎日だったじゃないか。


 それが。そんなかけがえのない日常が、どうして急に失われるんだよ。

 なんで俺が死ななくちゃいけないんだよ。


 理由なんてとっくにわかっている。

 俺がこんな目にあっているのは自分自身のせいだ。


 要するに俺は忘れていたのだ。

 自分達が挑んでいたのは、数多の冒険者が容易に命を落 とすダンジョンだったということを。


 最強のメンバーが揃った『到達する者(アライバーズ)』という環境にいたせいですっかり失念していた。

 いつ死ぬかわからない綱渡りをしていたのに、他人の威を借りて、自分が綱の上にいることを見て見ぬふりしていたのだ。

 死の危険という言葉は理解していたが、本質は何もわかっていなかった。


 それが、今20階層に放り込まれて、やっと自覚できた。

 遅すぎて、もう何も取り返しがつかない気づきである。

 俺は大馬鹿者だ。情けないにもほどがある。


 確かに笑えてくる。エリンの言う通りかもしれない。

 自然と自分の口角が上がってくるのを感じていた。


「嫌よ……まだ死にたくないっ……」


 震えながら肩を抱くエリン。その姿はいつもの堂々とした彼女のものとはかけ離れていた。

 我を失う知り合いを見て、少しだけだが冷静さを取り戻す。


 そうだ、落ち着け俺。

 こんなところでうろたえている暇なんてない。


《索敵》からの警鐘が脳内で響き渡っていた。

 モンスターがこちらに近づいてきている。

 無防備なままの俺達が彼らに見つかれば、俺達は十中八九死ぬだろう。


 頰を叩き、無理やりにも自分の気持ちを切り替える。

 恐怖に震えるのは後だ。

 今は逃げよう。生き延びるために。


「エリン、立って。モンスターが来る。逃げよう」


 彼女の腕を摑む。

 完全に力が抜けていて、すごく重い。


「おい! エリン!」


「……へっ?……何?」


「何じゃない! 逃げるんだよ、モンスターから!」


 俺の呼びかけで、エリンは内なる世界から少しだけ意識を外に向けたようだ。


「そ、そうね……そうだわ……。早く逃げなくちゃ……」


 自分に言い聞かせるように呟かれた言葉。

 その声は儚いほど弱々しい。


 エリンはやっと立ち上がろうとするも、ふらっと俺の方へ倒れ込む。

 慌てて手を伸ばし、傾く身体を支え込んだ。


「エリン、大丈夫か?」


「大丈夫よ……大丈夫……」


 途切れそうな返事から、エリンが大丈夫でないことはわかった。

 おそらく、彼女は俺よりもこの状況にショックを受けている。


 まあ、それも仕方ないだろう。

 彼女から見たら、一緒に20階層に飛ばされた唯一の仲間が、パーティー内で一番頼りない人間だったのだから。

 もし俺じゃなくて、前衛職のジンやフォースだったのなら彼女もまだ希望を持てていたかもしれない。


 俺としても、エリンと飛ばされたのは最悪に近い状況に思えた。

 まだ辛うじてネメよりマシといったところか。


 だから、彼女が失望する気持ちは痛いほどわかったが、ここで立ち止まっているわけにはいかない。

 すぐさまエリンの放心状態を解こうと、希望的観測を口にする。


「もしかしたら転移結晶が近くにあってすぐに帰れるかもしれない。ジン達だってこの階層に飛ばされている可能性だってある。だから、今は逃げよう」


 そんな可能性が低いことは重々承知していた。

 全く心にも思っていない、噓に等しい囁きである。


 都合よく転移結晶が近くにある可能性なんて広いダンジョン内では確率的に低いと思うし、罠の発動地点から離れていた他のメンバーがこの階層に飛ばされているという幸運もないに等しい。

 17階層内に、20階層に繫がる転移罠があれば別なのだが、それもジン達に見分けがつくものでもない。


 そして、転移罠を経由せず正規ルートでジン達がこの階層に来るのは不可能だ。

 マッピング要員とパーティー唯一の遠距離アタッカーを抜いた四人で、初見の階層を攻 略し続けるなんて正気の沙汰じゃない。

 俺やエリンだけじゃなく、他のみんなまで殺す可能性のある最悪の選択肢だ。


 しかも、ここは20階層。

 現存している冒険者パーティーが未だ誰も到達していない階層である。

 他のパーティーに救助されるといった期待も湧き起こらない。


 つまり、誰とも合流できる可能性は皆無ということだ。

 生き残りたいのなら、自分達の力だけでなんとかしなければならない。


「そうね! その可能性があったわね! 転移結晶やみんなに合流できれば助かるかもしれないわ!」


 俺の希望的観測を受け、途端に瞳に光を灯し出したエリンに落胆せざるをえなかった。


 ――今のエリンは駄目だ。まるっきり頼りにならないかもしれない……。


 彼女の目を覚まさせるのは簡単だが、また絶望に突き落としたところで使い物にならなくなるのは目に見えている。

 それよりは仮初めの希望を抱いて、指示に従ってくれる人形になってもらった方がありがたい。


 ここから先は自分の判断だけが頼りだ。

 膨れ上がる不安を押し込めて、エリンの手を摑んで走り出した。






 頭に浮かび上がった地図を見る。どこもかしこもモンスターだらけだ。

 しかも、どのモンスターも単体で俺達より格上。

 20階層のモンスターは17階層の比じゃないくらい強い。


 俺とエリンだけじゃ、一体でも遭遇したら殺されてしまうだろう。

 やつら全てに見つからないようなルートを模索するしかない。

 頭をフル回転させて、最適な逃走経路を探していく。


 この先、右に行って、三つ目の曲がり角を左に曲がるルートはどうだ?

 行けるんじゃないか?


 あそこにいるモンスターが進路変更したらまずいか……。どうする……?


 左に向かうルートは行けるか?

 右側よりかはモンスターの密度があるけれど、活発に動いている個体は少ない。


 このまま、まっすぐ進むのは駄目だ。一度来た道を引き返すか……。


 くそっ……。さっきの路を曲がっておけば良かった!


 モンスターに両側を塞がれるのは避けたい。進む路が限られていく……。


 加熱する思考に、脳は限界を迎えていた。


 無理だろ、こんなの。モンスターの数が多すぎる。

 しかも、一度でも間違った経路を選んでモンスターと鉢合わせしたら終わりなんて。


 考えながら走り続けなくちゃいけないのも辛い。

 正常な思考を保つための酸素だって足りない。


 そもそも現在歩いているルートが最適だという自信も皆無だ。

 心が折れそうになる。


 直近の選択は間違っていたんじゃないのか?

 今進んでいる路は正しいのか?

 そもそも、俺達は転移結晶に向かって進めているのか?

 実は逆方向に向かって走っているんじゃないのか?


 不安が更なる疑問を引き寄せる。

 確証なんてものはもう跡形もなく消えていた。


 だけど、進むしか活路はない。

 だって、立ち止まれば俺達は死んで――。


「ちょ……ちょっと待って……」


 俺の右腕が引っ張られる。

 咄嗟に加えられた後ろ向きの力に、思わず足を止めてしまう。

 振り返ると、そこには尋常じゃない量の汗を滴らせ、息を荒らげている少女がいた。


「無理……もうちょっとペース落として……」


 先程の弱音とは違って、今度は本当に走り続けるのが無理そうな具合であった。

 俺とエリンの体力には開きがある。

 そんなこと当たり前じゃないか。


 それなのに、俺は焦って自分のことしか見えていなかった。

 無意識に彼女を視界の隅に追いやっていた。


 体力を使い果たしたエリンの様子に、自分の至らなさを反省させられる。


 ――何が『今のエリンは駄目だ』だよ。本当に駄目なのは俺じゃねえかよ。


 全然冷静になれてなかった。

 命の危険を感じて、正常な判断ができないでいた。


「ごめん。ペースを落とすよ」


《索敵》で確認するに、付近のモンスターとはある程度距離がある。


 無理して走るような窮地でもない。

 それよりか、ここで体力を温存しておいて、来るべき際に備えた方がいいだろう。

 20階層はどのくらいの広さかわからないのだ。

 何日単位で逃げ回る可能性だってある。


「とりあえず走るのはやめて、歩いて進んでみようか」


 息を整え終えていないエリンの手を引いて、俺はまた進んでいく。






 ***






 最悪だ。ルート選びを間違えた。

 くそっ! 何やってんだよ、俺!


 自分への苛立ちが募っていく。

 右足を小刻みに揺すって昂った感情を吐き出していく。


 落ち着け。こういう時こそ冷静な判断が必要だ。

 深呼吸をして、一旦頭の中を整理していく。


 20階層に転移させられてから、早十時間が経った。

 この階層のモンスターの行動パターンにも慣れてきて、ルート選びにも余裕ができてきた頃のことだった。


 疲れによる集中力の低下や自身の油断からだ。

 俺はこれから予定していた進行ルート上にモンスターが現れたのに気づくのが遅れてしまった。


 このまま進めばモンスターと鉢合わせすることは間違いないだろう。

 しかし、戻ろうにもついさっき通った路にはモンスターの群れがいた。

 まだ目視はできないほど離れた距離だが、前と後ろでモンスターに挟まれた状況になってしまった。


 しかも、前にいるモンスターはこちらに向かってきている。

 衝突は避けられないだろう。


 どうする?

 この危機を打破する方法を考えろ。


「どうしたの?」


 急に立ち止まった俺を不審に思ったのか、エリンが問いかけてきた。

 今はその質問に答えている時間すら惜しい。

 考える時間に全てを費やしたかった。


 ――このままここで立ち止まってモンスターが引き返すことを願うか?


 いや、駄目だ。楽観的すぎる作戦だ。

 モンスターが引き返さないこと前提に話を進めなければ。


 ――戦うか?


 エリンの顔を注視する。

 極限状態のまま何時間も歩きっぱなしだったせいか、疲労の色が濃い。

 モンスターとの戦闘は厳しそうだ。

 万全のエリンでも心許ないのに、疲労困憊の彼女を戦わせるのは博打すぎる。


 ――するとあれしかないか。


 覚悟を決め、息を深く吸った。


「エリン、ごめん。モンスターに挟まれたみたい。完全に俺のミスだ」


「……えっ?」


 俺の打ち明けを聞いた途端、エリンの顔は青ざめる。

 彼女に取り乱される前に、俺はたたみかけた。


「落ち着いて聞いて欲しい。これから、前から来るモンスターを《隠密》でやり過ごそうと思う」


「何言ってるの……?」


「だから《隠密》で気配を消してやり過ごすんだ」


「そんなこと可能なの……?」


「俺の予想ではいけると踏んでいる。路の端に寄って身を潜めれば大丈夫だと思う」


「何も手を出さないで隠れていろっていうの? そんなの見つかったら一巻の終わりじゃない!」


「そうだ。見つかったら確実に終わりだ。だけど、見つからなければいいんだ」


「でも――」


「それが一番生き残る可能性が高い方法だと思う」


「戦うのは駄目なの? スペルを使って一撃で倒すのは難しい相手なの?」


「うん」


 しっかり目を合わせながら、エリンの言葉に頷く。


「前から来るモンスターは一体。後ろにいるのはモンスターの群れだ。前の一体をスペルで倒せたところで、後ろのモンスター達に勘づかれちゃう。そうなったら、最悪だ。だったら、前からのモンスターを《隠密》でやり過ごした方が無難だと思う」


 エリンは震える瞳で、こちらを覗き込んでくる。


「ノートを信じていいの? 失敗したら、私達、一緒に死ぬのよ?」


 ここが説得の正念場だ。

 視線をしっかり合わせたまま答える。


「大丈夫だ。俺を信じろ。絶対に上手くいかせる――いや、上手くいくから安心して」


 これは空元気じゃない。虚勢でもない。

 初めてジンに《隠密》を教わってから、四カ月近く。

 俺は真剣に《隠密》の修業をしてきた。そう誓うことができる。


 今の俺はそこいらの盗賊よりずっと上手くなっているはずだ。

 そうでなくちゃいけない。

 一流の暗殺者であるジンの貴重な時間と労力を割いて、教えてもらったのだ。


 俺はたとえマッピング要員だったとしても、曲がりなりにも『到達する者(アライバーズ)』の盗賊なの だ。

 できないじゃ済まされないだろう。


 ここでできなくて、なんのための修業なんだ。

 もう守ってもらうばかりじゃいられない。

 今度は『到達する者(アライバーズ)』のメンバーを。エリンを俺が守る番だ。


 自信がないのは努力が足りないからだ。

 努力が足りないのに自信があるのは、ただの過信だ。

 自分で誇れる努力をして、初めて確信となるのだ。


 俺は自分の努力と《隠密》を信じていた。

 エリンも俺の力強い眼差しに折れたようだ。


「……なら任せたわよ。その代わり失敗したら承知しないわ。地獄に落ちてまで恨んでやるから」


 これは何がなんでも失敗は許されないみたいだ。


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