#21:悪夢
その夜、クロンは夢を見た。
おぼろげではっきりとしない森の中、霞の中に誰かも分からない子供の姿がある。誰だろう、と眺めていると、子供は霞の奥で飛び跳ねて手を振り、森の奥へと駆けていった。
「待って!」
今よりも幾分幼い姿で、クロンは手足を振って走り出した。
走って――。
……走って――。
…………もっと速く――!
駆けているうちに、クロンの尻に白くて煙のような長い尻尾が生えた。
耳も、ふわふわとした煙状で三角形の尖った耳に変わり、幼かった身体もいつの間にか成長していった。
どういうわけか、身体が軽い。
いつもより速く走れる。息切れもしない、強靱な肉体だ。
ぐんぐんと距離を縮めていく。……追い詰めていく。
ぶつかりそうなぐらいに近付いた時、黒い影の子供ははっと振り返った。
(……え?)
気付けば、クロンはその子供を力任せに押し倒していた。
視線を落とすと、その手に――大きくて真っ白な獣の手が、ねっとりとした赤い液体に濡れていた。
……落ち葉が、赤く染まっていた。
そこには…………ああ、そこには――
◆
「――うわあああああっ!!?」
クロンは絶叫と共に跳ね起きた。瞳孔が大きく開き、息も切らしている。
汗でぐっしょりと濡れた顔と視点のおぼつかない瞳で、開いた両手を確認する。見慣れたヒトの手が、そこにあった。
「…………っはっ……はぁっ……!」
口の中がカラカラに乾いている。水が飲みたい。
クロンは目の前にある戸を開けようとしたが、思い止まった。まだ夜だったら玄関の戸を開けてはいけない。外に出るなら勝手口からだ。
引っかかる引き戸を力任せに開けると、なんと、あの薄暗いはずの通路の天井から夜明けの光が射し込んできた。
「これは……」
天井だと思っていた所は、二つの機械樹の枝同士が複雑に組み合わさったものだった。光は、その僅かな隙間から適度に入り込むようになっていた。
その枝の行方はどこから、と辿っていくと、長屋の中央部から伸びていた。
つまり、ここにある長屋というのは、幹を抱え柱(※大黒柱のこと)とし、横に長く伸びた枝を梁とした、機械樹の家だったのだ。
「……びっくり?」
「うん、びっくりした」
合わせるように答えてから、疑問に思ったクロンははっと左を向いた。
「また、びっくり?」
長屋の壁に背を預けてクロンの方を向いているのは、見覚えのある薄紅色の髪の少女だった。
「ミュカ!? キミ、この長屋に住んでいたの!?」
彼女は頷き、クロンの部屋の隣を指差した。
「……今日は、驚くことばかりだなあ……」
クロンは溜め息をついて、乾きかけている額の汗を拭った。
「汗びっしょり。どうしたの?」
「うん、ちょっと悪い夢を見ちゃって」
ミュカはピクリと眉を動かした。何か気になることでもあるのか、と思っていると、ミュカはまた、昨日のように何の前触れもなく歩き始めた。
「何処へ行くの?」
「いいところがある。ついてきて」
長屋の抱え柱となる幹の前には、湯気が立っている泉が懇々と湧き出ていた。
「……温泉!?」
「またまた、びっくり?」と、ミュカは真顔でからかった。
「そりゃあ、いくらなんでも驚くよ……」
長屋に風呂場がないのは分かっていたが、まさかこんなところにあろうとは。ルニの都は本当に不思議なことだらけだ。
「じゃあ、ごゆっくり。わたしはお仕事だから」
「うん、ありがとう。……って、キミは何のお仕事をしているの?」
ミュカは、昨日のように指を顎に当てて少し考えた後、懐から何かを取り出した。竹串だ。
「くし屋。髪を梳かす櫛でも、肉を刺す串でも扱ってる」
クロンには、もはやどこからどう突っ込めばいいやら分からなかった。
「くし繋がりなのは分かるけど、接点が見当たらないよ……」
「冗談。ホントは枯れ木細工。良かったら、今度何か作ってあげる」
そう言うと、ミュカは手を振り、踵を返してあっと言う間に走り去っていった。
(昨日は花を摘んでいたけど、アレはお仕事じゃないのかな)
不思議な魅力を持った少女だ。突然現れては色々クロンに助言して去っていく。
機会があれば、もっとミュカのことを知ってみたい、とクロンは思った。
2015/08/23 追記・修正
※わざわざ大黒柱を抱え柱にしたのは、大黒柱の語源(諸説ありますが)を考えてのことです。