妹ばかり優先する子爵家での事の顛末について

作者: 本田雪路

誤字脱字報告、ありがとうございます。

爪の甘い女でごめんなさい。あ、詰めでした。


ビアンキ子爵家の執務室は、古びた木製の家具が整然と並び、重厚感のある静寂が支配していた。壁には薄暗い光を放つランプが掛けられ、窓から差し込む午後の柔らかな日差しが、積み上げられた書類の影を長く引き伸ばしている。


フランチェスカは、その静かな空間の中心で机に向かっていた。細い指がペンを滑らせ、無駄のない動きで書類を整理していく。その顔には冷静な表情が浮かび、眉間にわずかな緊張の皺が寄っていた。


(お父様が帰ってきたときに混乱しないよう、これくらいはやらないと……)


心の中でそう呟きながら、机の端に積まれた手紙を一つ一つ整える。机上の乱雑さを片付ける彼女の手は、まるで繰り返し磨かれた職人の道具のように正確だった。


書類を見比べながら、フランチェスカはふと違和感を覚えた。


(……収支がおかしいわ……)


部屋に漂うインクと紙の混じった匂いが、フランチェスカの呼吸を浅くする。窓の外では小鳥の声がかすかに聞こえ、彼女の作業に規則正しいリズムを刻むようだった。


仕事をいち段落させると、フランチェスカは軽く息をつき、机の上をもう一度確認した後、静かに部屋を後にした。




廊下を抜け、リビングへと向かう。扉の向こうからは母とアレッシアの声が弾むように響いてきた。その声に混じって、カチカチという髪飾りを留める金具の音が聞こえた。


フランチェスカが足を踏み入れると、そこには豪華な鏡の前で向き合う母とアレッシアの姿があった。鏡の縁には繊細な彫刻が施され、室内の光を反射して淡い輝きを放っている。


母の手には、新しい髪飾りが握られていた。それは、王都で流行しているという噂の豪華なデザインで、きらめく宝石がいくつも埋め込まれている。


「ほら、どうかしら?」


母が微笑みながら髪飾りをアレッシアの髪にそっと留める。

はちみつ色の髪が鏡の光を受けて輝き、その美しさをさらに引き立てていた。アレッシアは鏡の中に映る自分を眺めて、満面の笑みを浮かべた。


「ありがとうございます。お母様!とてもお金になりそうだわ」

「まあ。アレッシアったら」


その声は甘く、リビング全体を明るくするようだった。

母は満足げに頷き、アレッシアの肩に手を置いた。


「今、王都で流行っているデザインなの。アレッシアなら似合うわ」


その言葉の後に、母の視線が廊下で立ち止まっていたフランチェスカへと向けられる。母の目には冷たさが宿り、言葉に刺すような棘が含まれていた。


「フランチェスカには似合わないけれどね」


その一言に、リビングの空気がひやりと冷たくなる。フランチェスカは微かに目を伏せ、表情を崩さないよう努めながらも、内心ではその言葉が胸を突いた。


「物欲しそうにして、卑しい子ね」


母は唇を歪めながら吐き捨てるように言った。


アレッシアは何も言わず、テーブルに置かれた宝石箱に手を伸ばした。その指が箱の中をそっと探り、ハンカチに包まれた何かを取り出した。


「お姉さまにはこれをあげるわ」


アレッシアが姉に差し出した。


「もういらないものだから」


ハンカチの中から現れた質素な真珠の髪飾りを見た瞬間、フランチェスカの心に、過去の記憶がよみがえった。




10歳の頃、ちょうどリッカルドと婚約者として少しずつ交流を始めたころだった。庭のベンチで向かい合った彼は、少し照れたように笑いながら、小さな箱をフランチェスカに差し出した。


「これ、君に似合うと思って」


箱の中には、シンプルながらも上品な真珠の髪飾りが入っていた。


「誕生日おめでとう、フランチェスカ」


その言葉に、彼女の胸は温かさで満たされた。誰かから心を込めた贈り物をもらうのは初めてだった。自分が特別な存在として扱われた瞬間に、彼女の世界は一瞬だけ輝きを放った。


だが、母の前でその髪飾りをつけて現れたとき、フランチェスカの期待は打ち砕かれた。


「それは……アレッシアに似合うわね」


母は冷たい目で髪飾りを見つめ、すぐにそれを奪い取った。フランチェスカの髪がぶちぶちと抜かれる音がする。


「お母様、それは……!」


フランチェスカは思わず声を上げた。


「黙りなさい!」


母の手が鋭く振り下ろされ、フランチェスカはそのまま地下牢に連れて行かれた。




「お姉様?」


アレッシアの声に、フランチェスカは現実に引き戻された。

手に持つ髪飾りを静かに見つめ、それからアレッシアの新しい髪飾りを見た。そして、口元に微笑みを浮かべる。


「その髪飾り、似合っているわ。アレッシア」


彼女の声は穏やかで、アレッシアの耳には何の感情も含まれていないように聞こえた。


フランチェスカの心の中では、過去の記憶が静かに疼いていた。


(これは私の人生で唯一の誕生日プレゼントだった……)


フランチェスカはその思いを心の奥に押し込め、静かにリビングを後にした。肩には母の言葉の重みがのしかかっていたが、彼女の背筋はいつも通りまっすぐだった。





古びた大時計が低い音を響かせる屋敷の一室。

その中で、フランチェスカは執務室の机に座り、整然と並んだ書類を淡々と整理している。


アッシュグレーの髪をきちんとおさげにまとめ、地味な服装を身にまとった彼女の姿は、慎ましさと冷静さを象徴していた。


フランチェスカは現在18歳。母の愛情を知らずに育った彼女は、屋敷の中でただ静かに日々をこなしている。


幼少の頃、祖母が亡くなるまでは、彼女の扱いはそれほど悪くはなかった。

一年後に生まれた妹に手が掛かっていて、あまり手を掛けてもらえないのかなという程度の放置状態だったと思う。


彼女の特徴的な灰色の瞳や髪は祖母に似ており、祖母はことさらフランチェスカを可愛がり、熱心に教育した。


突然祖母が亡くなると、フランチェスカの周囲は一変した。


日当たりの悪い部屋へ移動させられ、食事を抜かれることも増えた。

侍女はおらず、自分でできることが増えた。

姉妹しかいないため、この家の後継者となるフランチェスカは教師はつけてもらえたが、間違えればムチで叩かれる厳しい授業のあと、辛かったと話す人は誰もいなかった。


祖母は母がこの子爵家に嫁いだ瞬間から、すべての淑女教育をやり直させた。厳格で完璧な彼女には、付け焼き刃にも見える母のマナーすべてが許せなかった。

母が自分の娘のグレーの瞳を見ただけでその忌まわしい記憶を呼び起こすほどに、教育は苛烈だった。


ひとつ年下の妹のアレッシアは、はちみつ色の髪とハシバミ色の瞳を持ち、まるで妖精のように華やかな美しさを放っている。その色は母と同じものだ。

社交界でも評判の美少女で、母のお気に入りの娘だった。


フランチェスカとアレッシアの間には、母親の偏愛と冷遇という分断が横たわっていた。

母はフランチェスカの灰色の瞳と顔立ちを見るたびに、自分を顧みない夫と決して仲良くなれなかった義母の姿を思い出していた。母にとってそれは、自分が拒絶された記憶そのものだった。


一方、父は家庭を顧みず、ほとんど帰宅することはない。家の中では、母の気まぐれと姉妹の微妙な関係性が複雑な編目を編んでいた。





豪華に整えられたビアンキ子爵家のサロン。窓から差し込む柔らかな日差しが、三人の座るテーブルを明るく照らしている。テーブルには見事に飾られたティーセットと、贅沢な焼き菓子が並べられているが、その空気には微かな緊張が漂っていた。


フランチェスカは背筋を伸ばし、リッカルドの向かいに座っていた。横には、無邪気な表情を浮かべたアレッシアが座り、紅茶を注ぎながらリッカルドに話しかけている。


婚約者同士の交流に割りいるのは無粋だが、アレッシアはいつもこのお茶会に自然と交ざっていた。


「リッカルド様、いつも騎士団ではどんなお仕事をされているんですか?」


アレッシアが明るい声を出す。

リッカルドは笑みを浮かべて答えた。


「主に領内の治安維持だよ。最近は特に……不正を取り締まる案件が増えていてね」


その言葉に、フランチェスカはわずかに眉を寄せた。不正、取り締まり。彼が何気なく使った言葉が、どこか引っかかる。


「それは……大変なお仕事ですね。」


フランチェスカは慎重に言葉を選びながら答えた。


「まあね。」


リッカルドはティーカップを手に取りながら、意味深な視線をフランチェスカに向けた。


「特に、商人や貴族が絡む案件は複雑で厄介だ。でも、真実を追求するのは僕たち騎士団の役目だからね。」


その言葉を聞いた瞬間、フランチェスカの心に冷たい波が広がった。


(どういう意味……? まるで私たちの家に何か問題があると言いたいみたい。)


フランチェスカは微かに視線を落とし、思考を巡らせた。


(もしかして……リッカルド様はこの子爵家のことを調べているのでは?)


彼女の父は、ここ数ヶ月で屋敷に帰ってくる頻度が減っていた。以前は執務室で書類を整理する姿を見かけることも多かったが、今ではその姿を見るのは稀になっている。


収支の合わない書類を思い出して、フランチェスカは小さく溜息をついた。

それに気づいたリッカルドが何気なく声をかける。


「何か気になることでもあるのかい?」

「いえ、何も。」


フランチェスカはすぐに微笑みを浮かべ、余計な感情を隠した。

その間、アレッシアはリッカルドの隣で楽しげに話し続けていた。


「お父様はとても忙しい方ですからね。」


アレッシアは紅茶を注ぎながら無邪気に言った。


「最近は家にいないことが多いけど、きっとお仕事で遠くに行かれているんですよね?」

「そうだね。」


リッカルドは微笑みを浮かべたが、その瞳にはどこか探るような光があった。


「でも、お父様が帰ってこないのは寂しいですわ。」


アレッシアが小さくため息をつく。


「アレッシア。」


フランチェスカは静かに妹を制するように名前を呼んだ。


「あまりそのような話をするのはよくないわ。」

「あら、お姉さまったら厳しいのね。」


アレッシアは笑いながら冗談めかして言ったが、リッカルドの視線が鋭さを増しているのをフランチェスカは感じ取った。


「フランチェスカ。」


リッカルドは柔らかな声で話しかけてきた。


「君のお父上は……ビアンキ子爵家を支える素晴らしい方だよね。」

「もちろんです。」


フランチェスカは即座に答えた。その声には冷静さを保ちながらも、慎重な響きが含まれていた。


「お父様は家族のために懸命に働いていらっしゃいます。」

「それは素晴らしいことだ。」


リッカルドはそう言いながら、ティーカップを静かにテーブルに置いた。


「でも……何か問題が起きたときは、君がその責任を負うことにならないよう、気を付けた方がいい」


その言葉に、フランチェスカは胸の奥が冷たくなるような感覚を覚えた。


(やはり……リッカルド様はお父様について何か知っている? それとも、ただの勘ぐりなの?)


「どういう意味でしょうか?」


フランチェスカは微笑みを浮かべながら問い返した。


「いや、ちょっとした思い付きの一言だよ。君はしっかりしているけれど、もう少し僕を頼ってくれないかと思ってね」


リッカルドは軽く肩をすくめた。


「君のように聡明な人なら、どんな困難も乗り越えられるだろうけどね。」


その言葉に、フランチェスカは曖昧に笑うことしかできなかった。


お茶会の終わりに近づく頃、リッカルドは、「素晴らしい時間をありがとう」と立ち上がる。

アレッシアがリッカルドの傍に立つと、にこやかに言った。


「玄関までお見送り致しますわ」


(お父様が何か問題を抱えているのでは……。そして、リッカルド様がそれを探っている……?)


その思考が、彼女の胸に不安の影を落としていた。



大理石の階段が、午後の光を受けて白く輝いていた。三人が玄関へと向かう中、アレッシアが振り返りながら話し続ける。彼女の明るい声が静かな廊下に響いていた。


「リッカルド様、次のお茶会はぜひ庭園で——」

言葉の途中で、アレッシアの足元がぐらついた。バランスを崩し、大きく前のめりになる。


「あっ!」


瞬間、フランチェスカが即座に反応した。妹の腕を掴み、自らの体を支えにして引き寄せる。だが、その動きで無理な体勢を取ったせいで、彼女自身の足元が滑り、階段に倒れ込む形になった。


リッカルドもすぐさま駆け寄り、倒れる二人を片腕ずつ抱きとめる。アレッシアは彼の腕にすっぽりと収まり、その顔を驚きと安堵の入り混じった表情で見上げていた。

ふと見ると、リッカルドの視線はアレッシアに向けられていた。


「気をつけてくださいね、アレッシア。」


念を押すようにいうリッカルド。


アレッシアは、「ええ、申し訳ございません。リッカルド様のおかげで助かりましたわ」と、か細い声で答えた。


一方、フランチェスカは自分を支える腕が離れるのを感じると、すぐに立ち上がり、何事もなかったかのように姿勢を正した。その顔には痛みの影などまったくなく、ただ冷静さだけが浮かんでいた。

フランチェスカが歩き始めた足元には、微かな違和感があった。右足に鈍い痛みが走り、足を踏み出すたびにそれが強くなる。だが、彼女の表情には一切の変化がない。彼女はそれが当然であるかのように振る舞い、痛みを隠し続けた。


だが、リッカルドはその姿をじっと見ていた。彼の瞳は一瞬だけ鋭くなり、次の瞬間には迷いのない動きでフランチェスカの前に立ちふさがった。


「待ちなさい。」


彼の声が静かに響く。


「何でしょうか?」


フランチェスカは冷静に問い返したが、次の瞬間、彼の腕が彼女の体を包むように抱き上げた。


「足を痛めているだろう」

その言葉には、揺るぎない確信と、どこか心配げな温かさが滲んでいた。


「平気です。歩けます。」


フランチェスカは淡々と抗議したが、リッカルドは首を横に振る。


「だめです。無理をしてはいけない」


フランチェスカはその言葉に反論することができなかった。彼の腕の中で微かに息をつくと、ただ視線を伏せた。


リッカルドは何も言わず、フランチェスカをそのまま応接室のソファに下ろした。


「しばらく足を動かさない方がいい。」


彼の言葉には、どこか命令の響きがあった。

彼は後を追ってきたアレッシアに優しく微笑み、「アレッシアさんも無事でよかった。フランチェスカの捻挫もすぐに治るだろう。」と声をかける。

その一言でアレッシアの表情が和らぐ。


「アレッシアさん、よければお見送りをしていただけますか?」

「ええ。もちろん」


フランチェスカは静かにその様子を見つめ、心の中でわずかに苦笑する。

「結局、心配されているのはアレッシアだけなのね。」


リッカルドの視線が再びフランチェスカに戻るとき、彼の目には確かな何かが宿っていたが、それが猜疑心なのか哀れみなのか、彼女にはまだわからなかった。





夕刻の薄暗い廊下に、冷たい空気が漂う。フランチェスカは足を引きずることもなく、普通に歩くよう努めながら、執務室に向かっていた。その静けさを破るように、母の鋭い声が後ろから響く。


「フランチェスカ!」


振り返ると、母が険しい表情で立っている。その目には嫌悪と怒りが浮かんでいた。


「アレッシアを階段から突き落とそうとしたそうね。」


冷たい声が、廊下に鋭く響く。

フランチェスカはその言葉に眉一つ動かさず、淡々と答える。


「そのような事実はございません。ですが、そう思われたのであれば私の至らなさゆえでしょう。」


母は彼女の無表情な態度にさらに苛立ち、手にしていた鉄の扇を軽く振り上げた。


「言い訳をする暇があるなら、もっと慎重に行動しなさい! アレッシアになにかあったらどうするの!」


扇がフランチェスカの肩に叩きつけられる。鈍い痛みが走るが、彼女は顔色一つ変えずに立ち続けた。


「まだ執務が残っておりますので、失礼します。」

短く言い放つと、フランチェスカは背を向けて歩き出した。








フランチェスカは執務室の机に座り、いつものように書類に目を通していた。薄暗い部屋の中、机上のランプが小さな光を放ち、部屋全体を静寂で包み込んでいる。


彼女の指先は紙の端を軽くなぞり、ペンを持つ手は正確に動いている。父がほとんど帰ってこないこの家では、執務の大半をフランチェスカが代わりに担っていた。感情を挟む余地などないその作業は、彼女にとって日常の一部だった。

そんな中、控えめなノック音が響く。


「失礼します、お嬢様。」


入ってきたのは、若いメイドだった。彼女は手に銀のトレイを持ち、ぎこちない足取りでフランチェスカに近づいてきた。そのトレイの上には、小さな皿と一緒にサンドイッチが置かれている。


「夕食のお時間になりましたので、こちらを……。」


フランチェスカは一瞬だけ手を止め、その皿を見つめた。サンドイッチはどこかいびつで、形が崩れており、とても料理長が作ったとは思えない。パンは少し焼き過ぎており、挟まれている具材も偏っていた。


「これは……料理長が作ったのではないわね。」


フランチェスカが静かに言うと、メイドは少し怯えたように目を伏せた。


「申し訳ございません。お嬢様」


その言葉を聞いたフランチェスカは、すべてを理解した。母とアレッシアはいま、さぞ豪華な夕食を楽しんでいるのだろう。フランチェスカは静かに微笑んだ。


「構わないわ。私、これが一番の好物なのよ。」


メイドは安堵の表情を浮かべて一礼し、部屋を出て行った。

トレイを引き寄せ、いびつなサンドイッチを一つ手に取る。形が不揃いであれ、それを責める気にはなれなかった。むしろ、その不器用な形にはどこか人の温かみを感じた。


「……ありがとう。」


フランチェスカはそのサンドイッチを静かに口に運んだ。噛むたびに少しだけばさりとしたパンの食感を感じるが、それは決して嫌ではなかった。


窓の外からは薄い月明かりが差し込み、庭の木々が風に揺れている。遠くから聞こえる笑い声が、母とアレッシアの豪華な夕食の光景を思わせた。だがフランチェスカは気にする様子もなく、目の前の書類へと意識を戻した。


そのときだった。


「あら?」


積まれた資料本の中の一冊が、妙に軽いことに気が付いた。

かたり、と中から音がする。開けてみると、本の真ん中がくりぬかれ、そこに金色の鍵が挟まっていた。


鍵を手に取ると、ふとフランチェスカは薄暗い執務室の中の奥に続く扉を見つめた。そこは父のみが入ることができる部屋だ。

鍵穴に、ぴったりと金の鍵が収まる。


フランチェスカは少し震える手を必死に抑えて、ゆっくりと扉を開けた。

執務室よりもさらに小さい部屋は埃っぽく、無機質な冷たさを漂わせている。机の上にはいくつもの書類が乱雑に置かれ、引き出しの鍵穴が不自然に目立っていた。


「……ここに何かあるはず。」


フランチェスカは迷いを振り払うように鍵を探し始めた。普段から観察していた父の癖を頼りに、机の隅や小物入れを調べると、引き出しの奥に鍵を見つけた。


(これで……。)


彼女は緊張で手を震わせながら鍵を回し、引き出しを開けた。中には厚い封筒や帳簿がいくつも詰め込まれていた。

封筒を開けた瞬間、彼女の胸が凍りつく。


「違法賭博場……」


そこには賭博経営に関する詳細な記録が記されていた。客の名前、取引額、そして裏金の流れ。それは父がこの屋敷に不在がちだった理由をすべて物語っていた。


賭博は今の王が即位した時に一斉摘発され、これに関わったものは斬首の刑とされている。


フランチェスカは一瞬躊躇したが、すぐに証拠を手に取った。



証拠をコルセットの中にいくつか挟み込み、残りは手に持って執務室を出ようとしたその時、廊下の向こうから足音が響いてきた。


「……お父様……?」


フランチェスカが振り返ると、父が険しい表情でこちらに向かってきた。


(めったに帰ってこないのに、こんな時に!)


「フランチェスカ。」

父の低い声が廊下に響く。その声にはいつも以上に冷たい怒りが含まれていた。


「お前は何をしている。」


彼の視線がフランチェスカの手に持った書類に注がれる。


「それは……!」


フランチェスカが言い訳を考える暇もなく、父が一歩前に進んできた。彼の手が素早く伸び、フランチェスカの持っていた書類を掴む。


父の顔が一瞬で青ざめ、次いで怒りに染まる。


「貴様……これを持ち出すつもりだったのか?」

フランチェスカは言葉を失いながらも、毅然と父を見上げた。


「お父様、このままでは家族が危険に晒されます」

「黙れ!」


父の怒声が廊下に響く。彼は持っていた書類を握り潰すようにして床に叩きつけ、冷たい目でフランチェスカを睨んだ。


「愚かだな。お前はこの家の何を守っているつもりだ?」




フランチェスカは何も言い返さないまま、父に腕を掴まれた。彼女は無理やり引きずられるように屋敷の地下へと連れて行かれる。

暗く湿った空気が漂う地下牢。その冷たい鉄格子の中に放り込まれると、背後で無情に鍵の音が響いた。


「しばらくそこにいろ。」

父はそれだけ言い残し、去っていった。


暗く冷たい地下牢の床に座り込み、フランチェスカはただ静かに目を閉じ、痛む肩を壁にもたせかけた。


「……私は、何をすればいいのかしら。」


その言葉は、夜の闇に吸い込まれるように消えていった。





暗く湿った地下牢の中、フランチェスカは壁にもたれながら、微かな月明かりだけを頼りに時を過ごしていた。重い扉の向こうから、誰かの足音が響いてくる。軽やかだが慎重な足取りに、彼女の灰色の瞳が薄く開かれる。


鉄格子の向こうに現れたのは、はちみつ色の髪を濡らしたアレッシアだった。手には鍵を持ち、無邪気そうな笑顔を浮かべている。


「探したわ、お姉さま。」


その言葉に、フランチェスカは一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐにいつもの冷静な顔に戻った。


「こんなところに来て、どうするつもり?お父様に見つかったら……」

「そんなこと、どうでもいいわ。」


アレッシアは鍵を差し込みながら微笑んだ。


「まずはここから出ることが先でしょ?」


鉄格子の扉がゆっくりと開く音が響くと、アレッシアはフランチェスカのもとに駆け寄った。近づいてその顔をじっと見つめ、「お姉さま、大丈夫?」と小さな声で尋ねる。


フランチェスカは軽く頷きながら、少しだけ微笑んだ。


「ええ、大丈夫よ。」




アレッシアは持ってきた布袋から、小さな包みを取り出して差し出した。


「ほら、これ。お腹すいてるでしょ?」


中には、いびつな形のサンドイッチが2つ入っていた。それを見たフランチェスカは、ほんのわずかだけ口元を緩めた。


「ありがとう。昔からあなたが作るサンドイッチが一番おいしいわ。」


その言葉に、アレッシアは一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐに頬を膨らませて不満そうに言った。


「もう! もう!そんな場合じゃないでしょう!」


その仕草に、フランチェスカの目が柔らかくなる。


「でも、本当のことよ。」


フランチェスカは包みを開け、サンドイッチを一口かじった。


「いびつでも、とても優しい味がするわ。」


その言葉に、アレッシアは照れたように目を逸らした。


「あんまりいびつって言わないで。急いで作ったからこうなっちゃったのよ。」

「差し入れはいつもいびつじゃないの。毎回急いでいるの?」

「もう!」


二人の間に流れる空気は穏やかで、どこか懐かしいものだった。だが、フランチェスカはふと視線を伏せ、静かに言葉を続けた。


「お母様の前では、ずっと仲が悪いふりをしてくれていたわね。」


アレッシアは少しだけ眉を顰め、困ったように微笑む。


「だって……お姉さまに優しくすると、お母様がすぐに機嫌を悪くするんですもの。」

「知ってるわ。」


フランチェスカは軽く笑いながら言った。


「でも、ずっと気にかけてくれていたのは分かっていた。髪飾りも、大事に取っておいてくれたのね。ありがとう、アレッシア。」


その言葉に、アレッシアの目が潤んだように見えたが、彼女はいつもの明るい声で応じた。


「そんなの当然でしょ? お姉さまは私のたった一人のお姉様なんだから。」


フランチェスカはその言葉に、久しぶりに心の底から微笑みを浮かべた。その笑顔はほんの一瞬だったが、アレッシアにはそれが十分だった。


「じゃあ、行きましょう。」


アレッシアが手を差し伸べる。


「どこに行くの?」


「もうこの家は終わりよ。さっき騎士団が乗り込んできたの。お父様とお母様が捕まるのは時間の問題だわ」

「やっぱり……」


騎士団は父の不正を掴んでいたのだ。


「この間のリッカルド様の訪問から、少し嫌な感じがしていたの。明るく聞いてみたけど、あの人まったく口を滑らさないし、どうしようかと思ったけど……とりあえず、お金になりそうな装飾品はいくつか持ってきたわ」

「アレッシア……」

「一緒にきて。お姉様」


フランチェスカはその手を取り、立ち上がった。


「ええ、ここを抜け出しましょう」


そのとき、遠くから騒がしい声が聞こえてきた。騎士たちが屋敷を捜索している声だ。





二人は目を合わせ、息を潜めながら地下牢を抜け出した。雨が降る外の空気は冷たかったが、二人にとっては自由への入り口だった。


フランチェスカは空を見上げ、小さく息をつく。


「これから先、どうなるのかしら。」

「大丈夫よ、お姉さま。私たちなら、何があっても乗り越えられるわ。」


アレッシアがそっと姉の手を握り、励ますように微笑んだ。

今この瞬間、世界中でこの人だけが味方であるかのように、強く手を繋いで歩き出す。


冷たい雨が森を覆い、姉妹の周囲は雨音に包まれていた。フランチェスカは捻挫の痛みを隠しながら、アレッシアとともに木々の間を慎重に進んでいた。


「お姉さま、無理しないで」


アレッシアが必死に声をかける。


「平気よ。」


フランチェスカは冷静に答えるが、その足取りにはわずかな乱れがあった。

突然、馬の蹄の音が森の奥から聞こえてきた。二人は反射的に茂みに身を潜める。雨音に混じり、力強い声が響いた。


「フランチェスカ! フランチェスカ、どこだ!」


その声を聞いた瞬間、フランチェスカの目が驚きに見開かれた。


「リッカルド様……?」


彼女は信じられないように小さく呟いた。


冷たい雨が絶え間なく降り注ぐ森の中、リッカルドは金色の髪を雨に濡らしながら必死に二人を探していた。馬を捨てて足早に進む彼の顔には、普段の冷静さはどこにもなく、ただ焦燥感だけが浮かんでいた。


彼の声が雨音にかき消されながらも、森中に響く。


その先に、雨に打たれながら身を寄せ合う二人の姉妹がいた。泥にまみれたドレス、濡れて張り付く髪。フランチェスカはアレッシアを守るように立ちふさがり、必死にリッカルドの足音を聞き分けていた。


「リッカルド様……?」


彼女が振り返ると、木々の間から彼の姿が現れた。


「よかった、無事で……!」


リッカルドは駆け寄り、荒い息をつきながらフランチェスカを見つめる。

リッカルドの姿を見たフランチェスカの表情が一瞬だけ緩むが、すぐに引き締まった。彼女はアレッシアの手を離し、いきなりドレスの前側をくつろげた。


「な、なにを!」


動揺する声を無視して、コルセットに隠していた書類を抜き取る。

そして、泥まみれの地面に両膝を突いた。


「フランチェスカ……?」


リッカルドが驚きの声を上げる。

冷たい雨が激しく降りしきる中、フランチェスカは泥に濡れた地面にひざまずき、深く頭を下げていた。雨が彼女の灰色の髪に絡みつく。


「リッカルド様、どうか……どうか、この証拠をお納めください」


彼女は震える手で書類を差し出し、その声には必死さが滲んでいた。


「この賭博経営の証拠書類を差し上げますので、どうかアレッシアを見逃してください。妹は何も知りません。執務室に入ったことすらございません。私の命でも何でも差し出しますので……!」


その姿を見ていたアレッシアは、涙を堪えきれず姉にすがりついた。


「やめて、お姉さま!」


アレッシアは泣き叫びながらフランチェスカの肩を揺さぶった。


「そんなことしないで! 私、そんなの望んでいません!」


フランチェスカは泥の中で動かず、ただ雨音に負けないように震えた声で言った。


「アレッシア、これしか方法がないの」


そのとき、ふとフランチェスカのポケットから真珠の髪飾りが落ちた。フランチェスカは慌ててそれを拾って握り込んだ。誰にも奪われないように。


その光景を黙って見つめていたリッカルドは、息をつきながらゆっくりとフランチェスカに歩み寄った。そして、泥だらけになった彼女の腕を掴み、強引に引き寄せた。


「君は本当に……。」


リッカルドの声には怒りと悲しみが入り混じっていた。


「自分を犠牲にすることしか考えないのか?」


フランチェスカは驚いたように彼を見上げた。


「リッカルド様……?」


彼はそのまま自分の上着をフランチェスカに掛けた。


「立ちなさい、フランチェスカ。誇り高い君がそのように地面に這いつくばるものではない。」

「でも……!」

「君に言わなかったか?もしもの時は俺を頼るようにと」

「あの……」

「いいから、立て。」


リッカルドは強い口調で遮った。

彼の腕に支えられたフランチェスカは、しぶしぶ立ち上がった。

その間もアレッシアは姉の手をしっかりと握り、ただただ泣き続けていた。


リッカルドは雨の中で二人を見つめながら、低い声で言った。


「このままここにいるのは危険だ。僕の家に来るんだ。」

「リッカルド様、それでは……あなたまで疑われてしまいます」


フランチェスカが躊躇うように言葉を発する。


「家に来なさい。今すぐだ。」

彼はきっぱりと答えた。


「君たちをここに置いておくわけにはいかない。妹を守りたいなら、まず自分が無事でいろ。」


その言葉に、フランチェスカは目を伏せ、静かに頷いた。


「わかりました……。」


アレッシアは姉の手を握りしめながら、「お姉さまがいるなら、どこへでも行きます」と小さく呟いた。





ビアンキ子爵家の応接室。重厚な家具に囲まれたその部屋に、10歳のフランチェスカは母に連れられて入ってきた。シンプルな淡い色のドレスをまとい、灰色の髪を丁寧に結い上げた彼女の姿は、どこか人形を思わせる静けさと儚さを漂わせていた。


その前に立つのは、金色の髪を持つリッカルド。彼は11歳にしてすでに背筋をまっすぐ伸ばし、大人びた態度を見せていた。


「彼があなたの婚約者になるリッカルド・ド・セラフィーニ様よ。」


母が言葉を添える。

フランチェスカは美しいカーテシーをした。


「よろしくお願いします。」


その声は小さく、表情にも感情の色が乏しい。

リッカルドはしばらく彼女を観察した後、少し困ったように笑った。


「初めまして、フランチェスカ。僕がリッカルドだ。よろしくね。」


その無邪気な挨拶に、フランチェスカはただ「はい」と答えるだけだった。その姿を見たリッカルドは心の中で思った。


(まるで人形みたいな子だな……。)


彼女の硬さが「気品」として映る反面、何を考えているのか分からないその様子に、彼は少しだけ興味を覚えた。


それから数か月、リッカルドは月に一度、ビアンキ子爵家を訪れるようになった。しかし、フランチェスカはいつも人形のような振る舞いを崩さず、必要最低限の言葉しか話さなかった。


ある日、リッカルドはいつものように応接室で待たされていた。窓辺に立ち、庭の様子を眺める。


(今日もきっとあの人形みたいなフランチェスカが来るんだろう。)


彼は軽く溜息をつきながら、視線を遠くへやった。

そのとき、庭の隅で何かが動いたのを見つけた。



それはフランチェスカと妹のアレッシアだった。普段とは違い、ドレスの裾を少し汚しながらも、二人で花壇の手入れをしている様子だった。


アレッシアが楽しげに笑いながら花を摘み、それを姉に差し出す。フランチェスカは僅かに微笑み、妹に何かを話しかけていた。その表情は柔らかく、リッカルドがこれまで見たことのないものだった。


(あれが、フランチェスカ……?)

リッカルドは目を見張った。今まで応接室で見ていた冷たく無感情な人形のような彼女とは違い、そこには妹を慈しむ優しい姉の姿があった。


そのとき、茂みの奥から一匹の野犬が姿を現した。牙を剥き出しにして、二人に向かって唸り声を上げている。


「アレッシア、木に登りなさい!」


フランチェスカの声が静かな庭に響いた。その声は普段の冷静なものとは違い、力強さと緊迫感を帯びていた。


「でも、お姉さま……!」


アレッシアは怯えながらも躊躇している。


「早く!わたしが引き付けているうちに!」


フランチェスカは野犬から目を逸らさず、命令するように叫んだ。


アレッシアは泣きながらも木に登り始めた。その間、フランチェスカは地面から棒を拾い上げ、野犬に向かって構えた。


「こちらに来なさい!」


野犬は低い唸り声を上げながら、彼女の周囲をゆっくりと円を描くように動き始める。その目は、いつでも飛びかかる準備ができているようだった。


リッカルドは窓からその光景を目の当たりにし、思わず窓を開けた。


「危ない! フランチェスカ!」


彼の叫び声に気づく間もなく、野犬がフランチェスカに飛びかかった。その瞬間、木の上からアレッシアが叫んだ。


「お姉さま、早く!」


フランチェスカは野犬を避けるように木の枝に飛びつき、妹の手に引き上げられた。二人が木の上に登ったところで、茂みの向こうから庭師たちが駆けつけ、野犬を追い払った。


その後、庭に駆けつけた母がまず向かったのはアレッシアだった。


「アレッシア、無事だったのね!」


母は涙を浮かべながらアレッシアを抱きしめ、その髪を撫でた。


「お姉さまが助けてくれたの!」


アレッシアが声を上げる。

だが、母はその言葉に耳を貸さず、フランチェスカの方を振り返ると、怒りを込めて叫んだ。


「あなたは姉でしょう!妹を危険に晒して、いったい何をしていたの! 恥を知りなさい!」


鉄の扇がフランチェスカの肩に打ち付けられる。彼女は一切言い訳をせず、ただ静かにそれを受け止めた。

その間も、母はアレッシアを優しく抱きしめ続けていた。


フランチェスカはそれをじっと見つめていたが、その瞳には妹を守り切った誇りが宿っていた。


それが、リッカルドの初恋だった。






広々とした庭に並べられた白いテーブルと椅子。花々が咲き誇る中、フランチェスカとアレッシアがティータイムを楽しんでいた。


「こんなに平穏な日が来るなんて、思ってもみなかったわ。」


フランチェスカはカップを手にしながら、穏やかな声で呟いた。


アレッシアは、姉の言葉に明るく笑いながら答えた。


「すべてはお姉さまのおかげです。もしお姉さまがあの書類を持ち出して父を訴えるという形で騎士団に提出していなければ、私たちは今頃どうなっていたか……。」

「私だけの力ではないわ。」


フランチェスカは微かに笑いながら続けた。


「アレッシアがいてくれたから、私は動けたのよ。」


その言葉に、アレッシアは一瞬だけ照れたように目を逸らした。


「それに……。」


フランチェスカは少し表情を曇らせた。


「リッカルド様が助けてくださらなければ、私たちはどうなっていたか……。」





数か月前、父親の違法行為が摘発された後、あの書類を摘発前に騎士団に提出したことにしてくれるよう手配したのは、リッカルドだった。


「君たちを安全な場所に送り届ける。それが僕の役目だ。」


彼は毅然とした態度で、伯爵家の遠縁にあたる子爵家に姉妹を養女として迎え入れるよう手配を進めた。


それだけではない。リッカルドは社交界に働きかけ、正義感の強い姉妹が死ぬことを覚悟で子爵家の不正を告発し、摘発に貢献したという美談として噂を流した。その噂は瞬く間に広まり、一部では批難はあるものの、概ね姉妹は社交界でも一目置かれる存在となった。


そのような正義感溢れる美談を王が好んでいるのも運が良かったといえるだろう。





そんな穏やかな日々を過ごしていたある日、庭の奥からリッカルドが現れた。彼は少し疲れた様子ながらも、いつもの余裕のある笑みを浮かべていた。


「やあ、フランチェスカ、アレッシア。」


その声に、姉妹が振り返る。


「リッカルド様!」


アレッシアが驚いた声を上げる。


「驚かせて悪かったね。少し時間ができたから、君たちの様子を見に来たんだ。」


リッカルドはそう言って、姉妹の元へ歩み寄る。


「すべて、あなたのおかげです。」


フランチェスカが静かに頭を下げた。


「私たちのためにここまで尽力してくださって……本当に感謝しています。」


リッカルドは軽く笑って肩をすくめた。


「君たちを放っておくなんてできないだろう。それに、君たちは自分で立ち上がった。僕はただ、背中を押しただけだ。」


リッカルドはテーブルの横に腰を下ろし、フランチェスカに向き直る。


「ところで、フランチェスカ。少しふたりで話せないか?」


その言葉に、アレッシアはすぐに反応した。


「いやです。」


リッカルドが眉を顰めた。


「どうして君が即答するんだ?」

「お姉様は私の大切なお姉様です。ふたりきりなんて、絶対に嫌です。」


アレッシアはリッカルドを睨みつけ、姉の腕にしっかりとしがみついた。

フランチェスカは困ったように微笑み、「アレッシア、少し落ち着いて。」と言った。


「落ち着けません! やっとお姉様と仲良く話せるようになったのに、誰にも取られたくないんです。」


アレッシアは頬を膨らませ、さらに姉に密着する。

リッカルドは小さく溜息をつき、呆れたように笑った。


「君は本当にいつも邪魔をするな。お茶会の時だって、必ず付いてきた」

「当然です。」


アレッシアは胸を張って言い放った。


「お姉さまは私のものですから!」

「その大事なお姉様を階段から落としてしまいそうになったのは誰だろうね」

「あれは……ごめんなさい。助かりました。あと少しで取り返しのつかないことになるところでした」

「あの時はさすがに君を少し怒りたくなってしまったよ」


その後は和やかなやりとりが続き、リッカルドはフランチェスカとアレッシアが笑顔で暮らしている様子に満足げな表情を浮かべていた。


「君がこうして笑顔でいられるのを見られただけで、僕は十分だよ。」


リッカルドはそう言い、立ち上がった。


「また時間ができたら来るよ。その時は結婚の話でも進めようか」

「えっ」


いまとなっては、フランチェスカとの結婚にはなんの旨味もない。

当然婚約は解消になるものと思っていたが、誇り高い騎士であるリッカルドにはそんな婚約者を捨てるなんて出来ないのかもしれない。

婚約破棄はやはり女性側の瑕疵に思われてしまうことが多い。


フランチェスカは慎重に言葉を選んだ。


「リッカルド様には、十分よくしていただきました。していただきすぎたくらいです。さらに私のことまで責任を負っていただくわけには……」

「僕はただ、初恋の女の子を必死になって助けただけだよ。もちろん、これで君が僕から逃げられないという下心も込みでね」


ぽかんとするフランチェスカに「また来るよ」と言って、リッカルドは踵を返した。


彼の背中を見送りながら、静かに呟いた。


「え、初恋?」


隣でアレッシアが腕を組みながら口を尖らせる。


「二人きりにしなくてよかったですわ。私のお姉様があやうく取られてしまうところでした」


そのふてくされた様子にフランチェスカは小さく笑い、妹のはちみつ色の髪をそっと撫でた。

その髪は、いま独房に捕えられているフランチェスカを苦しめた母と全く同じ色。


でもフランチェスカには、妹の髪色が明るく美しく、愛しく見えて仕方がなかった。


「大丈夫よ、アレッシア。どんなときでも、私はあなたの姉なのだもの。」


風に揺れる花々が庭を彩り、姉妹の新しい日常が穏やかに進んでいく。



フランチェスカ結構男前だなと…思っていただけた方は、評価いただけますと嬉しいです^^