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第1話 世界を越えて

 時は満ちた。


 閉じていた目を開き、正座していた脚で地面を踏みしめ立ち上がる。

 するとそれに伴い腰まで届く紫色の長髪と、着慣れた闇色のローブドレスが水中に居る時のようにゆらゆらと妖しく揺らぐ。

 髪は私の側頭部から真っ直ぐ上へと伸びた角や、背中から生えた蝙蝠の様な翼、そして黒いゴムのような光沢を放つ尻尾にまで纏わり付き、少しばかりの鬱陶しさを感じさせた。

 軽く手櫛でそれを整えながら周囲を見回し、ここまでは計画が順調に進んでいる事を確認する。


(あれから何年が経ったか……随分と様変わりしたな。この場所も)


 そこには、私がこの地に足を踏み入れた時の光景とはまるで異なる風景が広がっていた。

 ごつごつとした岩肌だった地面は海原を渡るさざ波のように絶えずうねり、周囲の空間の至る所に実体のない光の珠(オーブ)が漂っている。そんな何処か神秘的で、不気味な光景だ。

 そして、嘗ては冷たくも澄んでいた空気もまた同様に変化していた。


(このどろりとした空気が肌に纏わりつく感覚……文献の通りだ。一先ずは成功と言って良いだろう)


 私が今居るこの場所は、大陸最大の支配領域を持った王国の北部。極寒の環境と空気の薄さから、歴戦の冒険者どころか魔物すら近付かない霊峰の頂だ。

 そんな過酷な環境に長らく留まり()()()()()()()()()()()のは、私のたった一つの悲願……日本に帰る為だった。


「──これで漸く帰れる。時間も世界も越えて、私が生きたあの場所へ……」


 私がこの世界に転生したのは、もう千年以上も前になるが、在りし日の日本の光景を忘れた事は無かった。

 魔族として生きた時間に比べれば日本での人生は瞬きに過ぎない一瞬の物だが、その一瞬の思い出が放つ輝きは日に日に増すばかりで、今となっては私の唯一の生きる希望となっていた。


(漸くだ。漸く、私は帰る事が出来るんだ……!)


 私は内から溢れ出す興奮のまま、願いを言葉として吐き出した。


「さぁ【聖域】よ、私を──」




 ◇




「──んぅ……?」


 肌に触れる、固く冷たい地面の感覚に目を覚ます。どうやら私は意識を失っていたようだ。

 身を起こして周囲を見回せば、白い煙で分かりにくいが、どうやらここは何処かの洞窟の中らしい事が分かる。

 私が倒れていたのは、人が数人並んで通れる程度の広さしかない一本道のど真ん中だった。


(こんな所で、私は一体何を……? それに──)

「服がボロボロに……一体どうして……」


 もはや隠すべきところも隠せていないような無残な有様となっているが、残骸の装飾から考えて私が普段使いしていたローブドレスなのだろう。

 アレは私の魔力を三日三晩馴染ませたアラクネの糸で織らせた布から仕立てさせた物で、見た目からは想像できない程頑丈な物だ。それがこんな姿になっているとなると、なにか相当な衝撃が……

 そこまで考えたところで、私は自分が聖域を利用した『日本帰還計画』を実行に移した事を思い出した。


「そうだ、私は日本に帰る為に聖域に願いを……! ならばここは……東京、なのか……?」


 周囲を見回せば見回す程、自分の言葉に自信が無くなっていく。

 いや、東京にも探せばこんな洞窟の一つや二つくらいはあるのかも知れないが……しかし、周囲に漂う魔力の感覚から考えて、ここはただの洞窟ではなく『ダンジョン』だ。

 前世の死から長い時間が経ったとは言え、地球にダンジョンが無かった事くらいは覚えている。つまり……


「まさか……失敗したのか? 準備に何十年もかけたのに……?」


 その事実に愕然とする。

 計画の準備に数百年もの時間をかけたのだ……そのショックは大きい。しかし、打ちのめされている場合ではない。

 ここが何処かは知らないが、先程まで居た場所から移動したのは間違いないのだ。ならば先ずは確かめるべき事がある。


(魔力は……問題無く使える。体の調子も悪くないし、衣服の損傷の割に怪我もしていない。魔法は……)

「【灯火よ】」


 ピンと立てた人差し指の先に火が灯る事を確認し、用済みとなった火を消す。光源の無い暗闇だろうと魔族の眼ならば普通に見えるのだから元々火なんて要らない。

 ただ確認の為、単純に魔力消費の少ない魔法を選んで使用しただけだ。


(今の感覚からして、ここの魔力濃度はかなり高いようだ……おかげで魔力の流れる方向も分かりやすい)


 魔力が流れて行く方向。即ち出口の方向を把握した私は、迷う事無く一歩目を踏み出し……自分が靴を履いていない事に気付いた。


(服だけじゃなくて靴もか……この辺には落ちてないみたいだが、私の意識が無い間に何があったんだ?)


 履き直そうにも、靴が無いのでは仕方がない。

 一先ず裸足のまま歩くって言うのも落ち着かないし、一旦は魔法で靴を用意するとしよう。


(──【変身魔法(トランス)】)


 心の中で唱えたのは、その名の通り姿を変える魔法だ。

 その応用で外見を人間の少女に変えると同時に思い描いた服も構成する事が出来る為、緊急時にも役に立つ。

 人間に見つかりそうな場所や、街で人間に紛れて生活する時には特に重宝していた。


(……よし、角も翼も尻尾も消えたな。ボロボロだった服装も無難なワンピースに化けさせたし、怪しまれる事はないだろう)


 使い慣れた魔法とは言え、念の為に身体のを触って確認する。今の私の姿は本来の私の姿から魔族の特徴を消し、15歳ほどの黒髪黒目の少女になっている筈だ。

 私がデザインに詳しくない所為で、服や靴の装飾は一切無いのっぺりとしたシンプル過ぎる物になっているが、先程までの全裸一歩手前の格好よりは遥かにマシなのでこのまま出口を目指すとしよう。


 そう自分を納得させて再び歩き出そうとしたその瞬間、私の向いている先からザッ、ザッと一定のリズムを刻む音が聞こえて来た。


(この音は、足音……?)


 小さな砂利が擦れる音……リズムの感じから、小走りで近付いてきているようだ。ダンジョンの中だと言うのに、足音を消そうともしていないのは気になるが。


(魔物が発する足音じゃない……人間だ)


 明らかに靴を履いている足音である事から魔物ではないと判断できるが、だからこそ緊張が走る。知能の無い魔物なんかより、人間の方が私にとっては脅威だからだ。

 警戒は絶やさず音の方へと視線を向けると、緩やかなカーブとなっているその先から淡い光が漏れているのが分かる。小走りの影響で小刻みに揺れているにもかかわらず、光の色に変化や揺らめきが無い事から恐らくは魔法で作った光だろう。


(冒険者が良く使うランプだな。光の感じから性能は高くない……これならやり過ごせそうだ)


 性能の低い道具を使っている時点である程度の実力は察する事が出来る。実力のある冒険者程、道具には拘るからだ。

 アレくらいの道具を使っている冒険者であれば、私の【変身魔法】を看破する事は出来ないだろう。


(……足音も一人分だし、あの冒険者から情報を聞き出すとしよう)


 そうと決めたら善は急げ。

 私も向こうに聞こえるよう敢えて足音を立てながら駆け寄って行くと、予想通り魔力で発行するタイプのランプを持った人影が現れ──


「すみませーん! どなたか存じ上げませんが、道に……迷って、しまって……」

『なっ!? おい、何でこんな所に丸腰で……! いや、それよりもこれ何語で話してんだ? 英語じゃないよな……?』

「え……()()()!? いや、それよりも……!!」


 彼の発した言葉で胸の内に湧き上がった歓喜を、信じられない事実を前にした驚愕が塗りつぶしていく。

 何故なら、今私の前に居るのは……! 


『えっと、スマホでこの言語翻訳できるか……?』


 革製の鎧とショートソードを装備し、スマホの画面の光でハッキリと浮かび上がったその顔は……間違いなく、前世の私──蒼木(あおき) 斗真(とうま)だったのだから。

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