09.第一章七話
ミノリがベルティーユだった。そんなことを突然言われても理解できないのは当たり前で、言葉の意味が理解できたとして、信じられないのも当たり前。彼らの困惑が更に大きくなるだけである。
ベルティーユの発言の衝撃からいち早く抜け出して説明を求めたのは、さすがと言うべきか、この場では最年長のレアンドルだった。
「何を言っている?」
レアンドルの眉間には、怪訝そうなしわが薄らできている。
「私が半年ほど眠っている間、彼女がこの体に憑依していました。記憶喪失というのは嘘で、そもそも中身が別人だったのです」
「憑依だと?」
「はい。異世界からの転移は原理が判明していませんのでただの憶測になりますけれど、なんらかの影響で魂だけが先にこちらに来たのではないでしょうか。魂が器を求めて、ちょうど死にかけていた私の体にたまたま入ったのかもしれませんね」
魔法や異世界人の本を読んだりして自分なりに考えられる可能性を並べてみて、ベルティーユはこの結論に至った。ベルティーユの意識が回復してミノリの魂が追い出されたという以前の予想も合わせて、一通り筋は通っているように思えるので、案外正解かもしれない。
「なので、癒しの力は彼女のものであって、私は魔法使いではありません」
ベルティーユが言い切ると、間を置いてトリスタンが「……は」と鼻で笑った。
「その異世界人がベルティーユだった? そんなこと、あるわけねぇだろ」
「そうだよ。魔法が溢れていたという大昔なら、他人の体を乗っ取る魔法があっても不思議はないけど……」
トリスタンとカジミールは信じられないと訴える。けれどその表情からは大きな動揺が窺えた。
そして、乗っ取る、というあまり良くない意味が込められた言い方にミノリが明らかに傷ついている様子だけれど、カジミールは気づいていないようだ。
「自分の身に起きたことでなければ、私も最初は荒唐無稽な話だと一蹴したでしょうね」
もしかしたら、と。そんな思いがわずかにも彼らの中にあり、それが徐々に肥大しているのがわかる。
「貴方たちが信じるか信じないかではなく、私は起こった事実とその原因についての見解を述べただけです」
ミノリがベルティーユに憑依していた事実は、彼らがいくら否定しようとも変わらない。
決定打を打つために、ベルティーユはウスターシュに問いかける。
「殿下、彼女の言動に既視感があったのではありませんか? 言葉遣いや所作はそう簡単に変わりませんもの」
「それは……」
「この国に転移してきたばかりの異世界人が知るはずのない……そうですね、例えば殿下の食の好みなどを彼女がポロッと零したことは? ラスペード侯爵家について何かしら口が滑っていてもおかしくはないかと思いますけれど、そのような発言はありませんでしたか?」
心当たりがあるようで、ウスターシュは目を見開き、ゆっくりとミノリに顔を向ける。視線が交わると、ミノリはびくっと肩を揺らした。
「君が『ベルティーユ』なのか?」
そう訊かれたミノリは肯定も否定もしなかったけれど、複雑そうな表情で顔を背けた。その反応が何を示すのか、皆が察しただろう。
少々空気感が特殊ではあるものの、状況的には恋人の感動の再会といったところだろうか。実際には交際していたわけではなく、ミノリはウスターシュの気持ちから逃げていたのだけれど。ウスターシュも以前の自身の態度があまりにも酷いと自覚があったからか、押し切れない様子だったのだ。
そういう記憶が、ベルティーユの中にある。お互いに惹かれていると気づきつつ、決定的な言葉を交わすことのなかった二人の記憶が。
異世界から転移してきたミノリと、記憶喪失だった婚約者。それは同じ人なのだから、ミノリと過ごすうえで重なる部分があったことは間違いない。――惹かれる部分が、あったはずだ。
だからこその、ウスターシュのあの過剰な反応。ミノリと一緒だったことを指摘されて二人きりではなかったと必死に弁解したのは、少なからずミノリを気にしていたための後ろめたさからだろう。
ベルティーユが意識を取り戻しておよそ三週間。異世界人のミノリが現れてからは二週間と少し。婚約者に会ってもらえなくなったウスターシュがどのような心情にあったかは、あまりにも想像が容易い。
婚約者から嫌われてしまったという焦燥感や恐怖に駆られている間、出会ってそう経っていない女性に愛する婚約者の姿を重ねてしまうようになり、自分はなんて最低な男なのかと葛藤していたかもしれない。
「――ふふ、ふふふ」
異様な空気を切り裂いたのは、ベルティーユの笑い声だった。注目が集まっても気にすることなく、心底おかしそうに、上品に、堪えることのない笑みを零している。
「私を生んだ人が死んでしまったから、私は生まれたその瞬間から罪人でした。全部否定された。いらない存在だった。なのに……中身が変わったら、そんなに簡単に受け入れられるものなの? 『私』だから許されなかったのですか?」
「ベルティーユ……」
「十七年、十七年です。それを彼女は、たった半年で覆しました。……違いますね。周りが彼女を受け入れたのは二ヶ月も経たないうちでした。ちゃんと覚えてる。記憶がある」
気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い。他人の記憶も、彼らの変化も、すべてが不快でたまらない。
「私とはまともに会話もしてくださらなかったのに、殿下も貴女のことには関心をお持ちになって、恋までなさったわ。貴女を私として認識していたのに」
ミノリを視界の中心に捉えて、ベルティーユはまた笑ったあと、独り言のように続けた。
「私って、本当に不要だったのね」
ウスターシュは後悔に満ちた顔をしている。レアンドルだけやはり読みづらいけれど、兄たちもそうだ。それが一層、ベルティーユを惨めな気持ちにさせた。
「ベルティーユ……ベルティーユ嬢、君には」
「よかったですね、殿下」
ウスターシュが何かを伝えようとしていたけれど、これ以上何も聞くつもりなどないベルティーユは綺麗な笑顔を浮かべた。
王族の言葉を遮る所業は、本来ならば許されない不敬だ。しかしそんなこと、もうどうでもいい。
ベルティーユはずっと軽んじられてきた。他者の目がある場ではともかく、二人きりの時は婚約者として最低限の尊重もされてこなかった。だったらベルティーユが同じように礼儀などかなぐり捨てたって許されるはずだ。その関係性こそが彼にとって、立場上は受け入れざるを得ない、不本意ながらも進められた政略的な婚約というものなのだから。
「貴方が愛したのは私ではなく彼女です。貴方の気持ちは私ではなく、どんな瞬間も彼女に向けられたもの。移り気な男ではないと知って安心されましたか? 私との婚約などさっさと解消して、彼女を娶るなりお好きになさってください」
なぜこんな男に拘っていたのか。
あの日――婚約が決まって顔を合わせた日、即座に見切りをつけてしまえばよかった。期待を粉々に砕かれたあの日に、すべて諦めてしまえばよかったのだ。
目を逸らすことなく、この男がラスペードの連中とそう大差のない人間であることにまっすぐ向き合って認めていれば、こんなにも傷つかずに済んだ。落胆や絶望がもっと小さなうちに、現実をしっかり受け止めるべきだった。
ベルティーユ・ラスペードは所詮、光の当たるお姫様ではなかった。ただただ邪魔な存在でしかなかった。
おとぎ話のような王子様なんて、ベルティーユには存在しなかったのだ。