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08.第一章六話


「殿下。ラスペード侯爵家の皆様をお連れしました」


 応接室の前に到着し、従者が扉をノックしてそう声をかけると、部屋の中からガタガタ! と音が聞こえてきた。それから足音がして、勢いよく扉が開かれる。


「ベルティーユ!」


 必死な、そんな声とともに。

 突然のことに驚いて、ベルティーユは目を丸くしてびくっと肩を揺らした。そして、侯爵家でも似たようなことがあったなと思い返す。


 金髪碧眼という王族の特徴を漏れなく受け継ぎ、類い稀な美貌まで持っている王子様。ベルティーユの婚約者ウスターシュ・ジュストルネは、相変わらず美しかった。

 ウスターシュはベルティーユをしっかりその碧眼で確認すると、本当に心の底から嬉しそうに表情を綻ばせる。兄たちなど目に入っていないかのようにベルティーユだけを見つめており、ベルティーユの手をとって優しい声を落とした。


「久しぶりだね。体はもう大丈夫なのか?」

「はい」


 短く素っ気ない返事をしながら、ベルティーユは彼に掴まれている手を離した。すると彼は傷ついた顔を見せたけれど、ベルティーユは気にも留めず「失礼します」と応接室の中に足を踏み入れる。そして、テーブルに視線を走らせた。


(当たり前よね)


 ある意味期待どおり、ミノリの好きなものばかりが用意されている。彼にとってはこれがベルティーユの好きなものなのだ。


「王子殿下にご挨拶申し上げます」

「ああ」


 兄たちがウスターシュと挨拶をしている。ベルティーユに注意が飛んでこないのは、彼らが空気を読んでいるからだろう。今ここでベルティーユを注意しても決していいことはないと、皆が察しているのだ。

 テーブルを挟んで三人掛けのソファーが向き合っている。誰とも隣になりたくないベルティーユは、一脚だけ置かれている大きめの一人掛けソファーに腰掛けた。


 ベルティーユが王宮に来た目的は、ウスターシュとミノリに会うこと。それなのに、この場には肝心のもう一人がいない。てっきり二人一緒に待っていると思っていたけれど、予想が外れた。

 ウスターシュと兄たちもソファーに座る。従者は外で待機のようだ。

 兄たちは男三人で仕方なく並んで座っており、レアンドルは表情からは何も読めないけれど、双子はどことなく居心地が悪そうだった。この光景はなかなかに貴重である。


「異世界の方はどちらに?」

「……彼女ならそろそろ来るはずだ」


 ベルティーユの質問に少しの間を置いて答えたウスターシュは、どこか気まずそうな雰囲気を漂わせている。


「先ほどまでご一緒だったそうですね」

「二人きりじゃない! 両親やユベール公爵もいてっ」

「存じておりますわ。何をそんなに慌てていらっしゃるのですか?」


 浮気を疑われた男が弁明しているかのような態度に、ベルティーユは彼の心境を察していながらあえて優しく微笑んだ。ウスターシュは大袈裟に反応してしまったという自覚があったらしく、目を逸らして「あ、いや……」と零して口をつぐむ。

 その様をベルティーユがじっと観察していると、トリスタンから声がかかった。


「あまり殿下に失礼なことはするな」

「失礼? この程度のことがですか?」


 どの口が言うのかという意味を込めて見据えると、トリスタンも言葉を詰まらせる。


「邪魔をするなら帰っていただいて結構ですわ。呼んでもいないのに、貴方たちは勝手について来ただけですもの」


 突き放されてショックを受けたのか、トリスタンは顔を背けた。

 ここまでのやりとりを見れば、ベルティーユが誰にも好意的ではないのだと強く実感することになったのだろう。流れた沈黙を破ったのは、深刻な顔をしたウスターシュだった。


「ベルティーユ、昔のことを思い出したと聞いたよ。私を嫌うのも無理はない。私は婚約者として……いや、人として最低なことを君にしてきた。決して許されないことだ」

「自覚があるのに、婚約者が記憶喪失になると都合の悪いことが綺麗さっぱり消えたように、想いを寄せる一途で優しい人のふりをしていたのですね。ああ、最低なことをしてきたと自覚したのは恋心が生まれてからでしたわね」

「……すまない」


 非難を真摯に受け止めたウスターシュが苦しそうに頭を下げた。

 王子が頭を下げるのもまた、貴重な光景だ。けれど、何もすっきりしない。この謝罪に価値があるとは思えない。

 もっと早く、ベルティーユの心が壊れる前に聞きたかった。改心してほしかった。

 他にも、気づいてほしいことがあった。


「遅いですわ、何もかも」


 小さく、ベルティーユは呟く。

 それを聞き取れなかったようで、ウスターシュが顔を上げた。なんと言ったのか問うような、そして不安が見え隠れする碧眼と視線が交わる。


 その双眸に熱が宿ることを夢見ていた。ベルティーユを温かく見つめてくれることを願っていた。

 結局、叶うことはなかった。それを手に入れたのはベルティーユではなく、他人だ。


 室内にノックの音が響く。皆の意識が扉の向こうに向けられた。


「ミノリ嬢がいらっしゃいました」

「通してくれ」


 ウスターシュが許可を出すと、女性が入室してきた。

 黒に近い暗めの茶髪と同じ色の瞳のその女性は、見るからに緊張した面持ちだ。身に纏っているのはこの国のドレスなので、ウスターシュか王妃が準備したのだろう。

 年下と言われても驚かないくらい童顔だけれど、彼女はベルティーユより一学年上の年齢のはずである。


 ベルティーユと目が合ったミノリは、わずかに目を丸めた。そんな彼女の変化を目敏く見抜き、ベルティーユは笑顔を見せる。


「はじめましてですね、ミノリさん」

「……はじめまして」


 あの挙動で確信した。彼女にはベルティーユだった半年間の記憶がある。それなのに、誰にもそのことを話していない。


「どうぞお掛けください」


 そう勧めるも、ミノリはウスターシュと同じソファーしか空いていないのを視認して困ったように眉尻を下げた。


「えっと」

「椅子を持ってこさせよう」

「必要ありませんわ。殿下の隣にお座りになればよいではありませんか。私は気にしませんよ」


 ウスターシュの提案を断り、ベルティーユはミノリに再度促す。これ以上は断るほうが失礼だと判断したのか、ミノリはソファーの端に遠慮がちに座った。

 記憶の中の彼女はもう少し堂々としていたけれど、この状況ではさすがに緊張や不安が勝るようだ。躊躇いを見せながらも意を決したのか、ミノリはベルティーユをまっすぐに見つめる。


「あの、ベルティーユ……様、が来られたのは、きっと噂のことですよね? 殿下にはよくしていただいていますが、私は――」

「貴女には私の記憶が引き継がれませんでしたね」

「……え」

「ですが不思議なことに、私には貴女の記憶が残っているのです」

「!!」


 ミノリが今度は大きく目を見開いた。それほどの衝撃だったらしい。


「突然知らない世界で知らない人になって、とても驚かれたようですね。当然のことですわ。そのような状況で、貴女は上手くやれていたと思います。ベルティーユ・ラスペードに敵意を持っている彼らが、あんなにも簡単に絆されたんですもの」

「ベルティーユ、何言ってんだ」


 ベルティーユとミノリ以外は置いてけぼりの話なので、男性陣は誰もが困惑しており、痺れを切らしたトリスタンが口を挟んだ。


「半年間、私は記憶喪失になっていたわけではありません。眠っていた、という表現が近いでしょうか」

「……意味がわからねぇ」

「『記憶喪失のベルティーユ』は、彼女ですわ」


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