68.第六章五話
あれから数日が経ったけれど、頭痛はあの一回きりで他の不調も特にはないので、ひとまず安心である。原因が気になるものの、医者にはあまり診てほしくないので、頭痛のことは誰にも告げていない。
もしリュシアーゼルが知ったら怒られそうだ。そして、相当心配してくれるのだろう。
(だから、言いたくない)
頭痛が再び起こる気配は今のところないけれど、あの日の夜は夢を見た。ベルティーユがラスペード侯爵家の自室のベッドで横になっている夢だ。ベッドの傍らには誰かが椅子を置いて座っており、何か話をしていた。
話の内容も、傍らにいたのが誰なのかも思い出せない。侍女ではないことは確かだ。男性だった。
しかもその夢は今日も見たので、ベルティーユの心にはモヤモヤが残っている。朝から憂鬱な気分だ。
ラスペード侯爵家に未練はない。恋しいなんてありえないし、邸を出てせいせいしている。なのにあのような夢を二回も見てしまったのはどうにも腹が立つ。
夢の中は、和やかな空気感だったわけではないように思う。それでも、ラスペード侯爵家の夢である以上は不快でしかない。
ただの夢なのか、それとも――。
考えながら図書室に向かっていたベルティーユは、廊下を曲がったところで何やらコソコソと話している使用人を見つけた。三人の若いメイドが集まっている。
「――の手配は?」
「問題ないわ。テオフィル様の――」
「お嬢様には――ように――」
話し声はところどころしか聞き取れない。テオフィルや自分が話題に上がっていることはわかった。
真剣に話し込んでいたメイドの一人がベルティーユに気づき、「お嬢様!」と驚愕する。つられて他の二人も大袈裟なほどぎょっとした。
「お仕事ご苦労様」
お化けか何かにでも遭遇したかのようなリアクションを気にすることなく、ベルティーユはにっこりと微笑む。三人は勢いよく揃って頭を下げた。
「とんでもないです!」
「今日も大変お綺麗です!」
「ななな何もやましいことはしておりません!」
「「ちょっと黙ってて……!」」
一人だけわかりやすく動揺が隠せておらず、二人から注意が飛ぶ。やましいことかはさておき、本当にあまりにも態度に出すぎている子だ。ベルティーユは優しく問いかけた。
「何を話していたの?」
「そっそそそれは秘密です! 別にお嬢様のおた――」
「仕事の話ですお気になさらず!」
一番動揺しているメイドが何か言いかけたのを一人のメイドが手で口を押さえて阻止し、もう一人が隠すように前に出る。もごもご言っているのが微かに聞こえてきた。
「仕事がありますので失礼いたします!」
「ええ……」
ベルティーユがぱちぱちと瞬きをしている間に、動揺が酷いメイドを他の二人が連行するように掴む。そして、三人はものすごいスピードでこの場を後にした。
ここ数日の変化は夢だけでなく、このように使用人から避けられている。今のメイドたちのように随分とわかりやすい反応を見せる者たちがいるので、勘違いではないことは明白だ。
(嫌われたわけではないと思うのだけれど……)
邸全体がどうも忙しない気もする。
理由はなんだろうかとまたも思考の海に沈みながら歩いていると、ふと視界に映ったものに思わず足を止めた。
壁にかけられている絵画。丁寧に描かれている風景画だ。図書室に行くのに毎回通る道なので初めて見かけるわけではないけれど、絵のタッチに既視感を覚えてサインに視線を向ける。
「――その絵が気になるのか?」
絵画に見入っていると突然声をかけられて、ベルティーユはびくっと肩を揺らした。意外そうにわずかに瞠目したリュシアーゼルと目が合う。
「悪い、驚かせたか」
「……いえ、すみません。近くに人がいないと思っていたので」
夢や使用人たちのことで考えごとをしていたし、絵画に気を取られたのも相まって周囲への注意が疎かになっていた。
「足音にも気づかないほど、この絵が気になっていたのか?」
ベルティーユの隣に歩み寄ってきたリュシアーゼルは、絵画を見ながら再び最初の質問を口にする。ベルティーユも絵画に視線を戻した。
「読んだことのある小説に、この画家の絵が使われていました」
サインを見て確信を得た。同じ名前だ。
「表紙がとても印象的だったんです」
小説のイメージを何倍にも膨らませるような美しい絵で、綺麗だった。この公爵家の図書室に置かれていた小説だ。
リュシアーゼルもその小説を把握しているようで、「あれか」と呟く。
「義姉がこの画家のファンで、色々集めていた。小説もコレクションの一つだ」
「お義姉様の……」
亡くなった先代公爵夫人――テオフィルの母親。写真や肖像画を邸の中で見かけたので顔がすぐに思い浮かぶ。優しそうな面差しの美人だった。
「絵も好きなのか?」
「綺麗なものは、嫌いではないです」
特に風景画は、見たことのない景色を見せてくれる。閉ざされた世界を広げてくれるような、その場に立っているような、そんな感覚がある。
今の今まで気づかなかったけれど、ベルティーユは絵がそれなりに好きなのだろう。
「今度、この画家の個展が開かれるらしい」
「そうなのですか?」
「ああ。行ってみないか?」
誘いの言葉に、ベルティーユはリュシアーゼルを見上げた。
「二人でですか?」
「そうだな。デートをして、仲の良さを周りにアピールするのは契約の内だ」
リュシアーゼルはすうっと目を細めた。断らせないと暗に言っている。
「そのまま他の店を回るのもいいかもしれないな」
「……わかりました」
少し躊躇われたけれど断るわけにもいかず、ベルティーユが承諾すると、リュシアーゼルは満足そうに笑った。