55.第五章六話
この仮面舞踏会でダンスに熱を注ぐ者はそうそういないだろう。身についている教養の指標の一つとしてダンスの技量が注目される社交界とは異なり、仮面舞踏会のダンスは周囲に見せつける技量など二の次だ。パートナーとの会話に興じ、相性を確かめ、触れ合いを楽しむための手段に過ぎない。メインは所詮、その後。だからダンスはなおざりでステップを華麗に踏む必要はなく、曲の途中でダンスを始めても抜け出しても礼儀がないなどと嘲笑されることはない。
しかし、ベルティーユとリュシアーゼルは目立たないように軽く力を抜きながら、しっかり一曲が終わるまで踊った。
「そろそろヴァレット卿を救出しましょう」
シメオンの周りに群がる女性が増えている。二人でそちらに向かっていると、「失礼」と横から声がかかった。
二人が足を止めて顔を向けると、若そうな男性が一人、こちらに歩み寄ってきた。胸に手を当てた男性は軽く身を屈め、ベルティーユに目線を合わせる。
「お嬢さん、ぜひ私と一曲いかがですか?」
ダンスの先まで見据えたお誘いだ。ベルティーユは緩慢な動きで考える素振りを見せる。
「随分と急ね」
「一目見てとても惹かれまして。ダンスも美しかったです」
(あらあら)
この仮面舞踏会でお目当ての人物のパートナーを務めた者とのダンスを褒めるのは、パートナーに喧嘩を売る行為だったと記憶している。――自分であればその男よりももっと貴女を輝かせることができるし、楽しませることができると。
要するに、目の前の男性は自信過剰な勘違い野郎ということだ。もしかしたら仮面の下に隠れている顔立ちがそこそこよくて、異性にモテてきた経験によって培われてきた根拠のある自信かもしれない。
「お二人はご一緒に来られましたよね? 今宵の真のパートナーをそれぞれお探しになるのであれば、ぜひ私にお嬢さんを楽しませる機会をいただけませんか?」
ベルティーユたちがホールに立ち入ったところを見ていたようだ。話しかけるタイミングをずっと窺っていたのだろう。
ベルティーユはまだ十五歳になっていないとはいえ、異性の目を引く体つきをしている。華奢であり、今後も成長予定の胸はそれなりの大きさだ。この男性の仮面の奥の目はちらちらとベルティーユの胸元に向けられている。レースで肌が覆われているのが残念そうな雰囲気は伝わってくるけれど、この男性はもっと気にしたほうがいいことがある。
(リュシアーゼル様、怒っていらっしゃいますね)
顔を見なくとも確信できる。隣の保護者が大層ご立腹だ。
喧嘩を売られた側のリュシアーゼルが不機嫌になっているくらいの認識は、おそらく男性も持っているだろう。他の男の相手を奪ったという優越感にでも浸りたいのか、あえて挑発したのだろうから当然だ。
ただ、リュシアーゼルが不機嫌という言葉では足りないほどの大きな憤りを抱いていることを見抜けていないので、気づいていないのと大差がないと思われる。
「――お前ごときが彼女を楽しませると息巻くとは、現実が見えていないようだな」
リュシアーゼルの低い声が発せられた。
挑発を返されて、男性は最初、それをすぐには理解できなかったようだ。一拍遅れて声を上げる。
「お前ごときだと!? 俺が声をかけてやっているだけでも光栄なことだぞ!? 俺は侯爵家の――」
「ここで身分を持ち出すのか? 仮面舞踏会の趣旨に反しているが」
そもそも、侯爵家ならリュシアーゼルよりも身分が低い。それを教えることはないけれど、どちらにせよこの男性がリュシアーゼルに勝っている部分はないのではないだろうか。
リュシアーゼルの指摘に言葉を詰まらせ、次の言葉を必死になって探しているのが手にとるようにわかる。彼なりに頑張ってつけていたのであろう紳士の仮面もあっさり剥がれたので、その程度の人間だと自ら示している。
「侯爵家か。仮面舞踏会に参加するような自由奔放な息子がいる家はどこだろうな。クロワゼ、ダカン、ゴセック……」
「あ、相手の身分を探るのもルール違反だぞ!」
「先に持ち出したのはお前だろう。侯爵家の縁者という身分を出してこちらを脅そうとしたのなら、ありがたく利用するまでだ。主催者側に事を報告したら、お前は二度と招待されないだろうな」
「な、っ……」
「恋人か婚約者か、それか妻はいるのか? お前が仮面舞踏会に参加していることを知っているのか?」
男性はリュシアーゼルから距離を取るように一歩足を引いた。
すでに男性はリュシアーゼルの威圧感に呑まれている。先ほどまでは怒りが勝っている状態だったようだけれど、今は底知れない恐怖心が湧き出ているらしい。信じられないかのように見開かれた目は雄弁で、動揺と恐怖が入り混じっていた。
「旦那様、落ち着いて」
決して男性を助けるためではないものの、ベルティーユはリュシアーゼルの頬に手を添えて、リュシアーゼルの意識をこちらに向けさせる。
ベルティーユはリュシアーゼルにしなだれかかりながら男性を見た。
「短気な男の面倒を見るのは疲れるわ。独りよがりで相手のことなど気遣えないから、一緒にいてもまったく楽しくないもの。わたくしは包容力がある殿方が好きなの。――底が浅い男はごめんよ」
その言葉がとどめの一撃となり、男性のプライドはズタズタに引き裂かれたらしい。力なくよろけた男性の横を、ベルティーユとリュシアーゼルは通り過ぎる。
「ありがとうございます、旦那様」
「婚約者だからな、当然だ。だが、結局最後は貴女が自分で持っていったな」
「ご気分を害してしまいましたか?」
「いや、かっこよかった」
「まあ。褒めていただけて嬉しいです」
ベルティーユは声を弾ませた。
腕を組んだ二人が動かす足は、改めてシメオンのところへと進んでいく。
「すまないが、私たちの連れを返してもらえるか?」
リュシアーゼルが声をかけると、シメオンが助かったとばかりに安堵を見せる。シメオンを囲んでいる女性たちは不満そうで、その中の一人がリュシアーゼルに近づいた。
「でしたら貴方がお相手してくださらない?」
ベルティーユと組んでいるほうとは反対の腕に抱きつくようにして、女性は豊満な胸をリュシアーゼルの腕に押しつけ、甘い声でねだった。
「お断りさせていただく」
反射に近い形で、リュシアーゼルは腕にまとわりつく女性を振り解く。
なんの迷いもなく断られて、女性は衝撃を受けた様子だった。一瞬の時間さえも興味を持たれなかったという事実が、いかに彼女の精神を抉っているか。
そこにベルティーユが容赦なく追撃する。
「――悪いわね」
顎を上げて、見下すように笑った。
「二人とも先約があるの。他を当たりなさい」
仮面越しでも十二分に伝わる勝ち誇った態度だ。女性ははっとして「何よ」とベルティーユを睨みつける。
「仮面舞踏会に参加したってことは、別のパートナーを探しに来たんじゃないの?」
「そのつもりだったのだけれど、やっぱりわたくしのものに他人が手を出すのは我慢ならないわ」
リュシアーゼルと腕を組んだまま、シメオンに近づく。シメオンの周りにいた女性たちは自然とベルティーユを避け、難なくベルティーユは空いているほうの手でシメオンの腕を掴めた。腕を絡めると、シメオンがぎょっと目を見開く。
両手に花状態のベルティーユは、またも勝者の笑みを浮かべて女性たちに顔を向けた。
「お呼びじゃないと理解したでしょう。さっさと散りなさい」
悔しそうに歯噛みしているのがありありとわかる女性たちを置いて、ベルティーユは二人を引っ張ってその場から離れた。