49.第四章十話
トスチヴァン伯爵と彼から依頼を受けた腐食剤散布の実行犯の二人が捕らえられた二日後、ベルティーユは護衛としてシメオンを連れて馬車で外出していた。
「警察から報告がありまして、トスチヴァン伯爵が実行犯に依頼した証拠が発見されたそうです」
正面に座っているシメオンからそう聞いて、ベルティーユは「でしょうね」と目を伏せる。
ちょうど今の時期はトスチヴァン伯爵が腐食剤を手に入れた頃だったはずだと記憶していたので、それを利用すると思っていた。時間が戻る前、彼は同じ手口でニフィ木の別の群生地を購入していたからだ。
特殊な腐食剤と説明されて購入したらしいけれど、実際のところあの腐食剤は触れ込みどおりの効果はなく、他のものとなんら変わらない普通の腐食剤である。そのせいで、トスチヴァン伯爵が三番目に購入したニフィ木の群生地は使い物にならなくなっていた。
(貴族は最先端や貴重、希少って言葉に弱いものね)
魅力的な言葉に惑わされて事実確認を怠る。流行を追う、作り出すことも社交界で生きるには必要なことであり、虚栄を張るにも必要だ。
今回はシメオンたちに山周辺を見張らせ、立ち入った者を捕らえさせた。散布前に捕らえたので実害はない。
「また、トスチヴァン伯爵が経営している会社の職員や伯爵邸の使用人への暴行などの証言、証拠も次々に出てきているとか」
「あの性格なら余罪がありそうだもの。納得ね」
「ご令嬢や奥方も使用人に暴力を振るっていたようで……一部の警察官は伯爵家の実情を知っていたそうですが、伯爵家の圧力で目を瞑っていたと」
貴族が平民を暴行しても、その事実のほとんどが握りつぶされてしまい、正しく罰せられることは少ない。そもそも法律自体が貴族有利にできているので、泣き寝入りする結果となった被害者は数えきれないほど溢れているだろう。
「きちんと罰が下るよう、口添えしないといけないわね」
窓の外を眺めながら、ベルティーユはそっと目を細める。そんなベルティーユを、シメオンは探るように観察していた。
馬車が目的地に到着し、ベルティーユは先に降車したシメオンの手を借りながら馬車から降りた。
ここはトスチヴァン伯爵領だ。伯爵邸がある街の端に位置する場所で、ベルティーユは眼前の建物を見上げる。
「……ガラス細工の店ですね」
看板を確認したシメオンは、窓ガラスから中の様子を窺った。
「奥のほうには工房もあるそうよ」
「……どなたからかおすすめされた場所なのですか?」
「そう言えなくもないわね」
曖昧な言い方をしたベルティーユは店のドアを開けて中に入った。シメオンが後から続く。
「いらっしゃいませ!」
店内でガラス細工の商品を並べていた少女が、ベルティーユたちの前に移動してきた。少女は何か引っかかりを覚えたようにベルティーユを食い入るように見つめて、それから「あ!」と目を見開く。
「ラスペード侯爵令嬢!」
思わずといった様子でそう口にした少女は、カウンターの奥から出てきた男性に「モニク!」と名前を呼ばれる。
「お客様に失礼だろう!」
「あっ。すみませんでした……!」
はっとした少女――モニクが慌てて頭を下げて謝罪する。男性もモニクの隣に来て、物凄い勢いで深々と頭を下げた。
「娘が大変申し訳ございません! 厳しく言い聞かせますので、今回だけは何卒お許しいただけないでしょうか……!」
こんなにも必死なのは、権力者が理不尽であることを知っているからだろう。些細な失敗も大罪のように叱責し、罰を下し、無理難題を要求する。そのような権力者は減少傾向にあるものの、数としては少なくない。恐れて当然だ。
「構いませんよ。顔を上げてください」
ベルティーユが優しく告げると、二人は恐る恐る上体を起こす。微笑を浮かべたベルティーユはまた努めて穏やかな声を紡いだ。
「とはいえ、不快に思う方も多いでしょうから、貴族相手には特に注意を払うようにしたほうがよろしいでしょうね」
「……寛大な御心に感謝いたします」
「それと、私はレジェ伯爵家に養子入りしていますので、正しくはレジェ伯爵令嬢です」
「誠に申し訳ございません……!」
「ふふ、本当に構いませんよ」
またも謝罪を重ねた男性に気にしないように言ったベルティーユは、モニクを見て首を傾げた。
「新聞で私の写真を見たのですか? 綺麗に写っているものだといいのですけれど」
「と、とても綺麗でした。もちろん実物……いえ、えっと、実際にお会いしても見惚れてしまうほどお綺麗です」
「それはよかったです」
ベルティーユは満足げに笑みを零して、店内を軽く見回す。
「本日は婚約者とお揃いのものがほしくてお伺いしました。ここは人気のお店だと聞いたもので……モニクさんのおすすめはありますか?」
「……! はい!」
ベルティーユの質問にモニクはぱっと表情を明るくさせる。ベルティーユの好みなどを聞いて、こういうものがいいのではないか、若いカップルにはこれが人気だと、色々と教えてもらった。
先ほどのお詫びにと、彼女の父から割引価格を提示されたけれど断った。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました!」
買い物を済ませて、モニクも彼女の父も店の外まで見送りに出てくれた。ベルティーユは会釈をする。
(よかったわ)
幸せそうでよかった。――会えてよかった。
きっともう、会うことはない。そうであってほしい。
ベルティーユは心地よい気持ちで、馬車に乗り込んだ。
◆◆◆
時間が戻る前のある日。
意識を取り戻して以来、部屋に引きこもっていたベルティーユは、読み終わった本を閉じた。そして、室内にいる新しく侍女にしたモニクになんとなく視線をやった。
紅茶をいれた彼女と目が合う。無言で見つめるベルティーユに戸惑う彼女に質問したのは、ただの気まぐれだった。
「貴女、出身はどこなの?」
「……トスチヴァン伯爵領です」
その名前に、ベルティーユはわずかに目を丸くする。
「あの伯爵領?」
「はい。助かるはずだったユベール公爵様のお身内を死なせてしまったことで没落した、トスチヴァン伯爵様の領地です。……と言っても、私が領地を出たのは伯爵家の没落前だったのですが」
苦笑したモニクはベルティーユが口を閉じたことが催促だと思ったのか、それともただ誰かに話したい気持ちが急激に湧いたのか、止めることなく続けた。
「父は伯爵領でガラス細工の職人をしていました。店舗も隣接している工房を持っていて、父のガラス細工はとても人気で、私もよくお店を手伝っていました。けど、人気に目をつけた伯爵様に脅される形で、伯爵様の会社で商品を販売するようになって……」
販売手数料など色々と加算し、トスチヴァン伯爵は本来よりもかなり高値でモニクの父の作品を販売していたのだという。しかも、モニクの父に支払われた利益はほんの一握りだったそうだ。明らかな搾取である。
「売れ行きが良かったらしく、注文がどんどん増えていきました。とても作業が追いつく数量ではなくなったので無理だと父が何度も断ったんですけど、伯爵様は聞き入れてくださらず、必ず期日までに納品しろと」
モニクの手が震えている。表情も悲しそうで、悔しそうで――怒りの色も孕んでいた。
「結局、要望どおりの数量を作成できなくて、……伯爵様は激昂されて、父の腕を何度も刃物で刺したんです。使い物にならない腕ならいらないだろうって」
傷害事件だ。しかし加害者が貴族ということで、警察はまともに取り合ってくれなかったらしい。
「職人一筋だった父の腕は神経が傷ついて麻痺が残り、そのショックで気力もなくなった父が職人に復帰することは不可能で……伯爵様からまた何をされてもおかしくないと、家族で逃げるように伯爵領を出たんです。父はリハビリが必要で稼ぎがなくなったので、私も母も働かないといけなくて、いろんなところで働いたんですけど、……あまり待遇のいいところはなくて。ここの求人が出た時は条件が良すぎて飛びつきました」
話しながら、モニクは目に涙を浮かべていた。ベルティーユの前だからか、せめて涙を零すことはないようにと堪えているようだ。
「……そう。つらいことを話させてしまったわね」
「いえ、お気になさらないでください!」
恐れ多いと言わんばかりに、モニクは首を横に振る。
「侍女としてはまだまだ未熟ですが、私はこうしてお嬢様にお仕えできてとても嬉しいです」
モニクが侍女となったのはついこの間で、侍女になったからには昇給したはずだ。そのことが容易に察せるから、ベルティーユはからかうように目を細めた。
「お給料がいいからでしょう?」
「そうではありません! 確かにお給料でここのお仕事につきましたけど、お優しいお嬢様にお仕えできて幸せなのです!」
気合が入った様子で訴えられる。
「私は別に優しくないわよ」
ベルティーユはそう言いながら、テーブルに積んである新しい本を手に取ったのだった。
明日はお休みです。