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47.第四章八話


 好きな人の目には可愛く映りたいというのが、大半の恋する女性の心理だろう。そのために背伸びをするだけではなく本性を全力で隠し通そうと努める者は、社交界だけでなく世の中に溢れていると思われる。なんてことはない、想い人の心を射止めるための手段の一つだ。

 トスチヴァン伯爵令嬢はなかなかに過激な性格のようで、怒りの沸点が随分と低いことが窺える。ベルティーユの挑発にまんまと踊らされて憤怒の形相になっていた。


「醜悪ですって!?」

「ええ、とても。せっかくのメイクもドレスも台無しです」


 着飾っているのに醜く歪んだ顔のインパクトのほうが強く、なんとも残念である。

 しかし、この場にいるのはトスチヴァン伯爵親子と娘の恋敵のベルティーユだけなので、猫を被る必要性は皆無ということなのだろう。リュシアーゼルはもちろん、シメオンやジャンヌの目があればここまで自制が働いていない態度はとれなかったはずだ。リュシアーゼルが不在で目撃される心配がないという状況も拍車をかけているのは容易に想像がつく。


 ベルティーユが手紙を送り返したのは昨日のことで、翌日にこうして突撃訪問をしてくるとはあまりにも感情的でなかなかに行動力がある。それを良いことに発揮してくれるような人たちだったならば、リュシアーゼルとの関係性は今とは違っていただろう。そして、ベルティーユが目をつけることもなかった。


「常識がないどころか人を醜いと馬鹿にして……! そんなふうに性根が腐ってるから殿下からも振り向いてもらえなかったのよ、無様ね!」


 ぴくりと、ベルティーユは反応する。それを見てトスチヴァン伯爵令嬢はニヤリと笑った。


「あら、傷を抉ってしまったかしら? でも事実でしょう?」

「……そうですね。ご令嬢が仰るように、私は殿下とのご縁には恵まれませんでした。けれど、リュシアーゼル様が私に心を寄せてくださって新しい婚約も無事に整いましたので、以前よりも遥かに幸福です。一緒に暮らせてもいますし、愛されていることを日々実感していますわ」


 ベルティーユの幸せオーラが漂う微笑は会心の一撃で、トスチヴァン伯爵令嬢は悔しそうに唇を噛み締めている。追い詰めるつもりが言葉も出ないほど見事なカウンターを食らってしまい、内心は激しく怒り狂っているだろう。

 そんな彼女の精神状態を正確に把握して、ベルティーユは畳みかける。


「それにしても……ご令嬢のお顔については私も事実を申しただけなのですけれど、この部屋に鏡がないのが残念でなりません。ご自覚させようにも、リュシアーゼル様の婚約者である私の言葉では反感を買うだけのようですから」


 婚約者の部分を少々強調すると、トスチヴァン伯爵令嬢は心底不快そうに眉根を寄せた。ベルティーユは変わらず穏やかな口調で続ける。


「ご令嬢と私は少し似ていると思いませんか? 好きになった人には何年も振り向いてもらえずに追いかけるばかりで、迷惑がられて……。ああ、もしかして、ご令嬢の性根が腐っていることを見事にそのご慧眼で見抜いたから、リュシアーゼル様はご令嬢を嫌っているのでしょうか。先ほどの無様というのはご自分のことも仰っていたのですね、お可哀想に」


 頬に手を添えたベルティーユは、プルプルと肩を震わせているトスチヴァン伯爵令嬢に憐憫の眼差しを向ける。それが彼女にとっていかに屈辱的であるかを、ベルティーユは充分に理解していた。


「リュシアーゼル様が傷心の私を癒してくださったように、貴女にもそのような方が現れるといいですね。失恋にはやはり新しい恋ですもの」


 こてんと首を傾げて「ねえ?」と、ベルティーユは賛同を求めて悠然と微笑んだ。すると、トスチヴァン伯爵令嬢は衝動に任せて立ち上がる。


「黙って聞いていれば、どれだけ人を見下して優越感に浸れば気が済――」

「怒声を浴びせられたのでトスチヴァン伯爵家の者を出入り禁止にしてほしいと、リュシアーゼル様にお願いするべきでしょうか」


 鋭く目を細めたベルティーユから温順な雰囲気が消えた。独特な威圧感を覚えたトスチヴァン伯爵令嬢は勢いを削がれ、親子揃って息を呑む。


「以前お会いした時、貴方方は私からヴォリュス山を騙し取ろうとしましたね。無礼な態度といい悪印象しかないのですけれど、本日で更に悪化しました」


 声も少し低くなっているベルティーユの目は蔑む色彩を帯びていた。


「ここはユベール公爵家で、私はユベール公爵の婚約者です。元はラスペード侯爵家の娘で、今でも貴方たちより格が上のレジェ伯爵家の娘です。――どちらの立場が上か理解する頭すらない方には、速やかにお帰り願いたいわね」


 ベルティーユが丁寧な言葉遣いで、基本笑顔で対応をしていたから、彼らはベルティーユを舐めていた。同じ伯爵家でもレジェ伯爵家とトスチヴァン伯爵家では影響力が段違いだというのに、王子との婚約が破棄となり伯爵家の娘になった経歴から、軽んじても問題ないと判断したのだ。

 暗にトスチヴァン伯爵家を潰すことは容易いのだと伝えるベルティーユの姿に、ようやく自分たちの認識が間違いだったと気づいたらしい。顔色を悪くさせながら、トスチヴァン伯爵は口を動かした。


「……失礼した、……失礼しました。手紙が送り返されたことで娘の気持ちが無下にされたと感じ、このような浅はかな真似をしてしまいました」


 ぽつりぽつりと、つっかえそうになりながらも話したトスチヴァン伯爵に、ベルティーユはにっこりと笑った。途端に冷え切った雰囲気が引っ込み、穏やかさが戻る。


「前回の態度が態度だったので、中身を確認しただけでも寛大だと思いませんか?」

「はい、仰るとおりです」


 ベルティーユの質問に思考停止状態で頷くトスチヴァン伯爵の隣に、トスチヴァン伯爵令嬢はベルティーユの顔を窺いながら恐る恐る座り直した。目が合うとびくりと怯えられる。

 所詮はちっぽけな度胸だったのですねと興味をなくして、ベルティーユは伯爵に視線を戻した。


「今回のご訪問は手紙の件だけでしょうか」

「その……」

「どうぞご遠慮なく」


 笑顔で促せば、トスチヴァン伯爵は躊躇いながらも口を開く。


「ヴォリュス山の管理を、我々トスチヴァンに任せていただけないかと……ご提案に」

「そちらはユベール商会にお任せすることになっています。一週間後には商会の方が山の視察をして、その後、正式に管理委託の契約を交わす予定ですわ」

「……そうですか」


 トスチヴァン伯爵は立ち上がり、深く頭を下げる。


「いらぬ気を回してしまいました。では、我々は失礼いたします。この度は先触れのない訪問で申し訳ございませんでした。真摯にご対応いただき、大変感謝いたします」


 慌ててトスチヴァン伯爵令嬢も父に倣い、頭を下げた。


「構いませんよ、お隣さんですもの」


 ベルティーユが柔和に微笑んで返したけれど、それを素直に受け取ってはいけないとトスチヴァン伯爵親子はすでに承知している。


「――シメオン卿、お客様がお帰りです。外までお送りして差し上げて」


 少し声を張ると、ガチャリとドアを開けてシメオンが入室してきた。そのことにトスチヴァン伯爵親子が瞠目する。


「あ……」


 リュシアーゼルの懐刀の一人である彼が廊下にいたのだと――応接室での会話が彼に筒抜けだったのだと気づいた二人は、また顔を青ざめさせた。





「あのように簡単に帰してしまってよろしかったのですか?」


 二人を邸の外まで送り終えたことを自室に戻ったベルティーユの元に報告に来て、シメオンがそう訊ねた。ベルティーユがぱちぱちと瞬きをすると、シメオンの眉間にしわが寄る。


「ベルティーユ様にどれほどの無礼を働いたか……」


 疑念を抱いているとはいえ、ベルティーユはリュシアーゼルの婚約者だ。一応はシメオンにとって優先すべき護衛対象の一人であり、誠実であろうと努めている相手。

 そんなベルティーユが軽んじられていたので、リュシアーゼルさえも侮辱されたように感じてしまったのだろう。あくまで彼の基準はリュシアーゼルである。


「私は彼らを許すとは一度も言っていないわ」


 そう告げると、シメオンは目を丸めた。


「……確かに」

「ふふ。彼らはきっと自滅してくれると思うの。欲を捨てきれない人たちだから」


 楽しそうなベルティーユの笑顔に、シメオンは恐ろしさを感じているようだった。



  ◇◇◇


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