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44.第四章五話(リュシアーゼル)


 昔ほど絶対的な立場にあるというわけではないものの、貴族は特権階級である。ゆえに前時代的な選民思想に染まっている者は未だに多く、そういう者は能力が備わっていなくとも血筋だけで自身が優れていると信じており、特別な人間であることを疑っていない。平民を下賤な者として見下し、――また、女性を酷く軽んじる傾向にある。

 しかし、そういう人間こそ自分より目上の者を前にした時、過剰に腰が低くなるものだ。

 その理由は一つとは限らない。媚を売って目をかけてもらい甘い汁を吸いたいだとか、逆に目をつけられたくないからひたすら相手をよいしょするだとか、動機は色々あるのだろう。


「――ユベール公爵にお目にかかれて大変光栄でございます。この度はお忙しい中、話し合いの場を設けていただき誠にありがとうございます」


 ユベール公爵邸の応接室で長い足を組んでソファーに腰掛けているリュシアーゼルは、頭を下げた眼前の男性を冷めた目で見据えていた。

 本音はこの邸には招きたくはなかったものの、手紙の件で招待したサルドゥ子爵。リュシアーゼルの倍以上年を重ねている彼だけれど、へこへこへらへらしている。本来であればサルドゥ子爵がこうして直接話すことも難しいような立場にあるリュシアーゼル(ユベール公爵)の前だからというのは明白だ。


「ラス……いえ、レジェ伯爵令嬢はまだですかな」


 ソファーに座るようリュシアーゼルに促されて従ったサルドゥ子爵は、メイドが紅茶を出したところでそう訊ねた。

 この応接室にはリュシアーゼルとメイド、サルドゥ子爵だけがおり、今回の話し合いの本題であるヴォリュス山の持ち主ベルティーユはもちろんいない。この件についてリュシアーゼルが任せてもらったというのもあるし、挨拶だけでもさせるのが礼儀ではあるけれど、ベルティーユをサルドゥ子爵に会わせたくないという気持ちのほうが勝ったのである。


「ヴォリュス山の管理はユベール商会が請け負うことになる予定なので、今回は私が対応する」

「そう、なのですか……」


 見るからに計算違いだと狼狽しているサルドゥ子爵は、やはりベルティーユ相手であれば上手く言いくるめられると考えていたらしい。むしろ笑顔のベルティーユにあっさりこてんぱんにされている光景しかリュシアーゼルは想像できないのだけれど、無駄にプライドが高く己の能力に疑念が微塵もない愚かな姿には呆れるしかなかった。


「私では不満か?」

「いえ! 滅相もございません!」


 リュシアーゼルが鋭く目を細めると、サルドゥ子爵はぎょっとして首をぶんぶん左右に振った。


「私は忙しい身だ。早速本題に入らせてもらう」


 サルドゥ子爵が落ち着くのを待つ優しさなどリュシアーゼルは持ち合わせていないので、さっさと話を切り出す。


「ヴォリュス山の売買をなかったことにしてほしいという要求だが、到底聞き入れることはできないな」

「しかし、オークションに出したのは手違いで……」

「そのような手違いが起こるとは思えないが?」


 まったく取りつく島がないリュシアーゼルにそう言われて、サルドゥ子爵はぐっと言葉を詰まらせた。冷徹な紫の双眸に射抜かれたまま沈黙が流れると、膝の上に置いている手を震わせ、ごくりと唾を飲み込む。

 リュシアーゼルはまだ若い公爵だ。それでも貴族でいることに対する覚悟や責任感がサルドゥ子爵とは比べ物にならない。公爵と子爵では身分に明確な差があり、そうなると育ってきた環境も異なる。それゆえの風格がリュシアーゼルにはあった。


 文字どおり格が違うと、サルドゥ子爵はこの場で痛感しているだろう。爵位を継いで一年や二年で若いからといって侮れる相手ではないと。

 そう察したように見えたというのに、サルドゥ子爵は引き際を見極める能力が残念ながら欠落しているようで、尚も引き下がらずに食い下がる。


「誇り高きユベール公爵閣下なのですから、しがない子爵の懇願を一つくらい聞き入れてくださってもよろしいのではありませんか? あの山の持ち主は私だったのです。その私が手違いだったと申しているのですよ」

「後になってあの山が金になるとトスチヴァン伯爵から聞いただけだろう」


 淡々とした指摘にサルドゥ子爵は息を呑んだ。図星をつかれて随分とわかりやすい反応である。


「……っそもそも、女であるレジェ伯爵令嬢が山を購入して利益を得ようなどと、そのようなこと自体が分不相応だとは思いませんか? 管理を委託するというのも、実際に持て余しているからなのでは?」


 今交わされていたのは、売買がすでに成立している、売ったのが間違いという言い訳は通じないという話だ。それなのに、思うようにならなくて急激に焦燥感に駆られたからなのか、サルドゥ子爵は突然わけのわからない理論を提言してきた。


「政治の世界にも商売の世界にも、女の分際で出しゃばったところで成果などたかが知れています。女は三歩下がって男を立ててこそです。まともな学など身につくわけもないのですから、男に付き従い、愛嬌を振りまいて男を楽しませ、社交を手伝い、邸の中を取り仕切ってさえいればいいので――」

「聞くに耐えんな」


 低い声が出た。サルドゥ子爵が言葉を切る。


「私と貴殿では根本的に価値観が合わないようだ」


 一層リュシアーゼルの瞳から温度が消えて剣呑なものになり、纏う雰囲気も数段恐ろしさが増した。その変化にサルドゥ子爵はヒュッと音を立てて息を吸い込む。


「私が婚約者にいかに惚れ込んでいるか、噂を耳にしていないようだな。それとも既知でそのような発言が飛び出ているのか? だとしたら浅慮と言わざるを得ない。浅ましくもこの場にいる時点でわかりきっていることではあるが」


 声を荒げてはいないけれど、憤慨していることが明らかな声音と表情だ。


「貴殿は私の婚約者を侮辱した」

「……ぶ、侮辱したわけでは」

「貴殿の意図はどうでもいい」


 分不相応だの女は男を立ててこそだの、自身の発言に問題があるとは欠片ほども思っていないのが典型的な貴族らしい。

 事実、女性の立場は男性より低い。昔はそれがより顕著だった。現代は少しずつ改善されていってはいるものの、サルドゥ子爵のような考えは特に古い貴族の間で根強く残っている。その思想が女性への侮辱だという自覚がないのだ。


「私は女性が教育を受ける場が増えたこと、社会進出が増えたことなど、女性の権利が広がっている世の流れは良い傾向だと考えている。男女の明確な差など体格や力くらいのもので、それさえ個人差があるだろう。知性も能力も個人差であり、女性だからと男性に劣っているわけではない」


 女性が声を上げるようになったことで発展することもある。教育を十分に受けられる者が増えれば必然的に優秀な人材も増え、国がますます繁栄するだろう。


「私は婚約者に伸び伸びと好きなことをしてほしいと思っていてな。彼女が商売をするなら手助けをしたいし、お節介でも彼女の障害になるものは排除したい」


 リュシアーゼルが目配せをすると、静かに部屋の隅に控えていたメイドが応接室のドアを開けた。そこから軍服を着た者たちが数名入室してくる。それに驚いたのはサルドゥ子爵だ。


「軍!? どういうことだ……!」

「サルドゥ子爵。貴殿には人身売買の疑いがかかっています」

「なっ」


 軍人の一人の言葉に、サルドゥ子爵は大きく目を見開いた。


「法外な利息で金を貸し、返済できなかった者を他国に労働力として売ったという疑いです。若い男性は兵力として引き渡した可能性が非常に高いことから、我々軍の管轄だと判断が下りました」


 サルドゥ子爵に嫌疑がかかったきっかけは、コランによる誘拐事件だ。多数の行方不明者が出たことで捜索に多くの人員が投入され、捜査が進展し、行方不明者の一部はサルドゥ子爵に借金があったことが発覚したのである。警察が更に詳しく捜査を進めると人身売買の可能性、しかも取引した相手が他国の軍の可能性が出てきたために、国家の安寧を脅かす行為だということで、国軍のほうに権限が移ったというわけだ。


「ご同行願います」


 軍人二人に腕を掴まれ、サルドゥ子爵は「離せ!」と抵抗する。


「こんなの何かの間違いだ!」

「抵抗を続けても構いませんが、罪が増えるだけですよ」


 そうしてサルドゥ子爵は、使用人たちの好奇の目に晒されながら連行されていった。



  ◇◇◇


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