39.第三章十四話
年齢に似合わず一人で呪いを背負う覚悟を決めて、けれどずっと恐怖が募るばかりで、押し潰されそうだったのだろう。呪いから解放されてリュシアーゼルの腕の中で号泣している少年の姿は、年相応に思えた。というより、八歳でなくともこうなるだろう。
「ああ、テオフィル様……っ!」
両手で顔を覆いながらオルガがくずおれる。
「よかった……」
涙を流して震える声を零したオルガも、不安と闘ってきたはずだ。
オルガはテオフィルの乳母。テオフィルが生まれた時から世話をし、成長を見守ってきたのだという。彼女がテオフィルに抱いている感情が母親のそれに近いものであろうことは想像に容易い。
ベルティーユはオルガの隣に屈み、背中をそっと撫でた。
オルガを見て、それからリュシアーゼルとテオフィルを見る。温かい繋がりを感じさせる感動的な場面に、思わず視線を落とした。
時間が戻る前、テオフィルは呪いによって亡くなってしまった。解呪の魔道具が発見されて使用されたのに結果的に救われなかったのは、トスチヴァン伯爵家の見立てが甘く、浅はかだったことが要因と言える。
ヴォリュス山の所有者となったトスチヴァン伯爵が解呪の魔道具である鏡を発見したのは、今から数ヶ月後のことだ。もちろん最初は魔道具がどのような効果を持っているかわからず、調べさせて判明したのである。
トスチヴァン伯爵は端から魔道具を国に届け出るつもりはなかったようで、秘密裏に調べさせたとか。
当時、リュシアーゼルが解呪の魔道具を血眼になって探していることはとうに広まっており、魔道具の効果を知って、トスチヴァン伯爵とその娘は考えた。魔道具を渡す代わりに、娘とリュシアーゼルを結婚させようと。
リュシアーゼルは当然、その要求を受け入れた。二人は婚約し、魔道具の鏡は解呪のために使用されたのだ。――一枚だけ。
トスチヴァン伯爵と娘は、魔道具のおかげで有利な条件で婚約を結んだ。内容にはリュシアーゼルからすると理不尽なものもあったようだけれど、甥の命がかかっているリュシアーゼルに拒否などできるはずもなかったのだろう。
しかし、呪いが完全に解呪されてしまってはリュシアーゼルの弱みがなくなる。本来の爵位と権力どおりにリュシアーゼルの立場が上になり、ぞんざいに扱われるかもしれないと、トスチヴァン親子は憂慮したのだ。
だから、もう一枚鏡があるという事実を隠蔽して、効果が半減すると承知していながら、一枚だけリュシアーゼルに渡した。あまり強い魔道具ではないので時間はかかるけれど、必ず解呪できるものだと説明して。
実際のところ、鏡一枚でも効果はあり、呪いは順調に弱くなっていっていたらしい。皆が希望を見出し、安堵していた。そのうち無事に呪いが消えてなくなると信じていた。
しかしある日、急激に呪いが悪化し、テオフィルは亡くなったのである。あまりにも突然だったそうだ。
テオフィルの死がきっかけで、鏡がもう一枚あったこと、トスチヴァン側がわざとそれを隠していたことが発覚した。
助かるはずだった甥の死は、リュシアーゼルたちをどれほどの絶望に突き落としたのだろうか。
当然、リュシアーゼルと娘の婚約は破棄となり、トスチヴァン伯爵家は没落した。リュシアーゼルが己の権力を最大限に振るい、制裁を下したのだ。
ベルティーユもミノリの力の影響で治りかけていた病が急速に悪化し、命を落とした。状況としては似ているように思える。
魔法は複雑だ。魔法が人体に及ぼす影響を真に理解できる者など現代には存在しない。
中途半端な魔法による干渉は、人体にはとても危険なことなのだろう。魔法の安全のボーダーラインを察知する力は、非魔法使いにはほとんどない。
「――ベルティーユ」
オルガを宥めながら逆行前のことを思い出していたベルティーユは、呼ばれてそちらに視線をやった。
リュシアーゼルの表情は穏やかで、紫の双眸がベルティーユを捉えている。
「心から感謝する。感謝してもしきれないくらいだ」
優しい眼差しと声音には、確かに彼の感謝の気持ちがふんだんに込められている。それほどわかりやすい雰囲気だった。
「私は偶然、魔道具を見つけただけです」
ベルティーユが微笑むと、リュシアーゼルも「そうだったな」と小さく笑みを零す。
そんなリュシアーゼルの隣で、テオフィルがこちらの様子を窺っていた。部屋が少し暗いのではっきり見えているわけではないけれど、どことなくリュシアーゼルに似た顔立ちで、血の繋がりを感じる。
扉越しの挨拶を無視した以前のことを気にしているのか、ほぼ初対面のベルティーユにどう接していいのかわからないようで、気まずそうでもあった。
「あの……」
「解呪が成功したとはいえ、体力がすぐに回復するわけではないでしょうから、引き続き静養はとても大事だと思います。まずは体調を優先し、きちんとしたご挨拶はまた今度にしましょう」
テオフィルに向けたベルティーユの言葉に、リュシアーゼルが頷く。
「そうだな、ベルティーユの言うとおりだ。テオ、ゆっくり休め。長いことまともに眠れていなかっただろう」
「……はい。では、お言葉に甘えます」
リュシアーゼルに頭を撫でられながら、テオフィルは嬉しそうに笑った。
就寝の準備の手伝いにオルガをそのまま部屋に残し、ベルティーユとリュシアーゼルはリュシアーゼルの自室に移動した。向かい合ってソファーに座っている。
「本当に、どう恩を返せばいいか」
「私は契約を履行しただけですから、あまりお気になさらず」
過大な謝意はいらない。契約を守ってくれさえすればそれでいい。それ以上のことを求めるつもりはないのだ。
「それに、テオフィル様の呪いを解呪できたのは一安心ですけれど、まだまだやることは残っています。手駒になっている者たちや黒幕の正体も未だに不明なままなのですから」
「ああ、わかっている」
解呪が成功して終わりではない。テオフィルに呪いの魔道具を装着させた実行犯は死んでしまったけれど、黒幕がいる。他にも黒幕の手駒がいる。
やるべきことが、残っている。
「テオフィル様にかけた呪いが失敗したわけですから、今後はどう動くかわかりませんもの。私も標的になる可能性が高まりましたね」
「必ず守って見せよう」
真剣に、決意を込めて宣言するリュシアーゼルに、ベルティーユは軽く首を傾けて口角を上げた。
「口だけにならないといいのですけれど」
「手厳しいな。まあ、テオを守れなかったうえ、解決策まで貴女の手に縋るような情けない男だから当然か」
立ち上がったリュシアーゼルは、ベルティーユのそばにやって来た。片膝を床につき、片手でベルティーユの手を取る。さながら王子様のような仕草だ。
「名誉を挽回できるよう、全力を尽くすと誓う」
「期待していますね」
ベルティーユは口元を隠して上品に笑った。
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