36.第三章十一話(リュシアーゼル)
王家に次ぐ権力を持つ、由緒正しいユベール公爵家。その始まりは偉大な魔法使いだったという。魔法使いが激減し、ほとんど生まれなくなった時代でも、ユベール公爵家の影響力は国内で絶対的なものに等しかったそうだ。
そして、魔法使いの激減に伴って魔道具も希少なものとなり、魔法による恩恵がほとんど消えてしまっていた数百年前。この国に現れた異世界人をユベール公爵家が保護し、生活の支援をしたことで、異世界人は異世界の数々の知識や技術をもたらし、ユベール公爵家、そしてこの国を発展させた。その異世界人がユベール公爵家の者と添い遂げたことで、ユベール公爵家の圧倒的な地位が維持されてきたとも言えるだろう。
いち早く基盤が築かれたユベール公爵領の技術レベルは、現代でも国内最高峰である。平民向けの教育機関も充実しており、安定して優秀な人材が世に出ているのが大きな理由だ。
そんなユベール公爵家の当主は、リュシアーゼルの年の離れた兄だった。リュシアーゼルは後妻の子供なので異母兄弟になるのだけれど、兄は鬱陶しく思えるほどにリュシアーゼルを構い倒していた。弟が可愛くて仕方ないと、そんな人だった。
「おじうえ」
両手を目一杯こちらに伸ばして歩いてくる幼子。リュシアーゼルがぎこちなく待っていると、足に抱きついた甥のテオフィルは楽しそうに笑った。これだけのことの何が面白いのか、幼子の思考を理解することは不可能だろう。
「テオはリュシーのことが大好きだな」
「貴方に似たのね」
テオフィルへの対応に戸惑うリュシアーゼルを、こちらも楽しそうに眺めている兄夫婦。
「助けてくださいよ……」
「なんでそんなことしなくちゃいけないんだ。甥っ子の相手を真摯に務めるのが叔父の役目だぞ」
「私は子供が苦手なのですが」
「知ってる。慣れろ」
リュシアーゼルに甘い兄は、たまに厳しくもあった。というより、弟をからかって遊ぶのも好きだったがゆえに見捨てている部分があったのだ。義姉も微笑むだけで、こういう時は手助けをしてくれない。
「おじうえー」
呼ばれて下を見ると、目が合っただけでテオフィルはきゃはきゃはと笑った。やはり子供はわからない。
しかし、兄夫婦の子供だ。懐かれていることに妙な納得感があった。
「父様と母様が呼んでるぞ」
「とーさま、かーさま!」
誘導に成功してテオフィルの興味が兄夫婦に移ったので、リュシアーゼルはほっと息を吐く。
「あらあら」
駆けてきたテオフィルを、義姉はしゃがんで目線を合わせて抱きとめた。テオフィルは自身の母親にぎゅうっと強く抱きついている。そんなテオフィルの頭を、兄が愛おしそうに撫でた。
幸福に満ち溢れた家族だ。誰もが羨むような、愛が溢れている理想の家族。
この先も、リュシアーゼルはこの光景を何度も何度も目にするのだと、当たり前のように思っていた。この家庭が崩れてしまうなんて、思いもしなかった。
兄と、兄の妻。二人が命を落としたのは、本当に突然のことだった。
当時、リュシアーゼルは嫌々ながらも王都の学園に通っていた。高等部の三年生で、十八歳になって数ヶ月。もうすぐ卒業という時期だった。一年半ほど前のことだ。
王都の学園に通うにあたり、リュシアーゼルは三年近く王都の公爵邸で暮らしていた。
「リュシアーゼル様!」
そのリュシアーゼルの自室にジョルジュが血相を変えて駆け込んできた時のあの光景は、脳裏に焼きついている。
「当主様が……っ!」
ジョルジュから話を聞いたあとのことは、あまりはっきりとは覚えていない。あまりにもショックで、現実味がなくて、理解が追いつかなくて、ぼんやりしていたように思う。
兄夫婦が馬車の事故で亡くなったという知らせが届いた。ジョルジュのその報告を、現実として受け入れることが難しかったのだ。
葬儀の日は雨だった。領主夫妻の死を多くの者たちが悼み、教会には次々と領民たちが足を運んでくれた。
とても慕われている人たちだったのだ。こんなにも早く死んでいいような人たちではなかった。長生きして、幸せを謳歌すべき人たちだった。
現実とは、なんと残酷なのだろうか。
「うぅ……っ、ひっく……」
溢れる涙を拭い、時折しゃくり上げる甥の肩に手を置いて、リュシアーゼルは兄夫婦の埋葬を見守った。
感情は整理できていない。あまりにも突然の兄夫婦の死を受け止めきれていない。
それでもリュシアーゼルは、覚悟を決めなければいけなかった。人が亡くなってしまってもゆっくりと時間を消費する余裕がないのが、多くのものを背負っている公爵家というものである。
両親もとっくに亡くなっている。唯一残った家族がテオフィルだ。当主を引き継ぐには幼すぎる甥を、リュシアーゼルは守らなければならない。
親戚が色々とうるさくなるだろうけれど、後継者はテオフィルである。その事実が覆ることは決してない。
リュシアーゼルに子はいらない。結婚もしない。テオフィルが成人し、公爵位を継ぎ、立場が安定するまでは、あくまで中継ぎの一時的な公爵に過ぎないのだから。
葬儀の日。リュシアーゼルの中で、揺るがぬ一番はテオフィルとなった。
兄たちの分まで絶対に守り抜くと、固く決意したのに。やはり現実は、どこまでも残酷だった。
「――テオッ!!」
ベッドの上で横たわっているテオフィルに駆け寄り、名前を呼ぶ。苦痛に顔を歪め、汗を滲ませているテオフィルは、薄らと涙の膜を張った目でリュシアーゼルを捉えた。
「おじ、うえ……っ」
テオフィルの手が伸ばされたので、その手をぎゅっと握る。手首には見覚えのない腕輪があり、そこから広がるように薄い黒斑が腕にできていた。
邸の中でテオフィルが倒れているのを発見したという報告を受けたのは出先だった。すぐに邸に戻ってきたけれど、一時間は経っている。
ずっと苦しかっただろう。可能なら代わりたいと切実に願うけれど、実現するはずもない。
「大丈夫だ、大丈夫。こんなものすぐに外してやる。お前を苦しめるものは、何であろうと私が葬ってやる。だからもう少しだけ耐えてくれ……」
唯一残った家族。リュシアーゼルが己の命をかけてでも守らなければならない存在。
テオフィルに害を及ぼすものは、必ず排除する。
テオフィルの体調不良の原因は間違いなくあの腕輪だ。その腕輪をつけさせたという使用人は、他の使用人によって邸の地下牢に入れられたらしい。足早に地下牢に向かいながら、リュシアーゼルはオルガからそう説明を受けていた。
「警察や軍に通報すべきだと思ったのですが、私の勝手な判断で邸に留めました」
「助かる。介入されると多少動きにくくなるからな」
一刻を争う事態だ。あの腕輪は十中八九、悪い影響を及ぼす魔道具で、もしかしたら数分後にでも数秒後にでも、テオフィルの命が奪われてしまうかもしれない。そんな状況で外部の者に介入されてはたまったものではない。
「犯人はリュシアーゼル様としか話す気がないと語っています」
「そうか」
恨みを買っているのはリュシアーゼルか、ユベールか、はたまた両方か。
手荒な真似も厭わずに犯人の口を割らせてやると、リュシアーゼルは怒りに震える拳を握りしめた。